起 逃走者から追放者へ
イザナギは死した妻イザナミを追って、黄泉国にやってきました。
黄泉国とは死者の国。そんなところに、生者であるイザナギが妻を連れ戻そうとやってきたのです。
それはまさに、愛ゆえに。イザナギは日本最古の愛妻家だったのかもしれません。
「イザナミ! 迎えに来たんだ! 一緒に帰ろう!」
イザナギは必死になって呼びかけます。
「あなた……迎えに来てくれたのね。嬉しいわ。だけどもう手遅れなの。この国のものを食べてしまったから帰ることはできないの」
「そ、そんな……」
イザナミの返答にショックを隠し切れないイザナギ。
「でも、せっかく来てくれたのだから、帰れるように交渉してみるわ。だけど、そのためには条件があるの。約束して、私が戻るまで決して中を覗かないと」
イザナギは約束し、イザナミを待ちます。
しかし、なかなか戻ってきそうにありません。
「遅いな……いったいどうしたというのか」
イザナギはそわそわしてしまいます。
覗くなと言われれば覗きたくなるもの。人間だってそうなのだから、神様だってそうなのかもしれません。
それに、イザナギにはお笑い芸人の才能があったのかもしれません。
押すなよと言われれば押すように、覗くなと言われれば……
「見いたあなぁああ……!」
「うわぁああああ!」
覗かれたイザナミはガチギレです。
悲しいかな、イザナミにはお笑い芸人の才能はなかったようです。
冗談はさておき、全身が醜くなってしまった自分の姿を、見せたいとも見られたいとも思わないでしょう。
それが愛する夫、しかも約束を破られて。
そりゃあもう、ショックを通り越して、愛が憎しみに反転するのも仕方のないことです。
そしてここに、黄泉国主催、「第一回夫婦命懸け鬼ごっこ」が開催されるのでした。
ルールは簡単!
鬼が逃走者を殺せば鬼の勝ち。
逃走者が鬼を振り切り、生きて黄泉国を脱出すれば逃走者の勝ち。
そして気になる選手兼配役はこちら。
鬼は日本最古の鬼嫁に転身したイザナミ。
逃走者は精神的な意味でも物理的な意味でも命が危ない夫のイザナギ。
さあスタートしました!
イザナギ選手、美しいフォームで疾走します。
おおっと! イザナミ選手、黄泉国の醜女を繰り出しました!
実況はここまで。
いくらイザナギといえども、地の利を活かす醜女が相手では追いつかれてしまいます。
しかし、イザナギには秘密兵器がありました。
「くっ! このままでは追いつかれる。ならば!」
イザナギはつる草の髪飾りを手に取ると、醜女目がけて投げつけます。
なんということでしょう。投げつけられたつる草が、見る見るうちにブドウになるではありませんか。
醜女はイザナギには目もくれず、投げつけられたブドウを貪り食らいます。
イザナギは今のうちにと、逃走を続けます。
しかし、そう簡単にはいきません。再び追いつかれてしまいました。
「これならどうだ!」
イザナギは櫛を手に取ると、再び醜女目がけて投げつけます。
なんということでしょう。投げつけられた櫛が、見る見るうちにタケノコになるではありませんか。
醜女はイザナギには目もくれず、投げつけられたタケノコを貪り食らいます。
イザナギは今のうちにと、再び逃走を続けます。
しかし、そうは問屋が卸さない。今度は黄泉国の雷神が追ってくるではありませんか。
イザナミも形振り構わず追ってきます。
逃げるイザナギ。追うイザナミとゆかいな仲間たち。
そんな鬼ごっこも終わりが近づいてきました。
黄泉平坂が見えてきたのです。
黄泉平坂とは黄泉国との境。つまり、ゴールです。
しかし、もう少しというところで雷神に追いつかれてしまいました。
「むっ!? これは!」
イザナギは機転を効かし、植わっていた桃をもいで、雷神に投げつけます。
なんということでしょう。投げつけられた桃が不思議パワーを発揮し、雷神の行く手を阻むではありませんか。
しかし、まだ気は抜けません。
イザナミだけは執念深く追いすがってきたのです。
「うおぉおおお!!」
イザナギは力を振り絞って、大岩で黄泉国への入口を塞いでしまいました。
「酷い! 酷いわ! どうしてこんなことをするの! こうなったら一日に千人の人間を殺してやるわ!」
「ならば、私は一日に千五百人の人間を生んでみせよう!」
こうして、辛くも鬼ごっこに勝利したイザナギ。
そして、この日本最古の夫婦喧嘩? の末、人間に寿命ができたのでした。
「ああ、酷い目にあったな……」
イザナギは黄泉国で憑いた穢れを落とすべく、泉で身を清めることにしました。
すると、歪んだ神様やそれを正す神様が次々に生まれます。
神様とは不思議なものです。
最後に、イザナギは顔をすすぎました。
すると、左目からはアマテラス、右目からはツクヨミ、鼻からはスサノオが生まれました。
日本で最も有名な神様といっても過言ではないであろう、三貴神の誕生です。
「おお、なんと立派な子たちだ。そうだ、この子たちに私の後を継がせよう」
イザナギは立派な神が生まれたことにいたく感動し、三貴神を後継者に任命します。
アマテラスには高天原、ツクヨミには夜の国、そしてスサノオには海原を治めるように言づけました。
イザナギに任命された三貴神は了承し、それぞれの治める場所へと向かいます。
ここで残念なお知らせが……。
ツクヨミの登場はこれが最初で最後。セリフもなしに終わってしまいました。
重要な神様なはずなのにこの扱い。日本最古の影の薄さなのかもしれません。
それはともかく、三貴神に後を託したイザナギは安心して隠居を決め込むのでした。
隠居を決め込んだイザナギは、ある日外の様子がおかしいことに気づきます。
ですが、自分は隠居した身ということもあり、少し様子を見ることにしました。
しかし、大地や海が荒れ、悪い神がそこら中に漂い、災いが年々増すばかり。
「ええい、これはいったいどういうことか!」
イザナギは重い腰を上げ、原因となっているスサノオのもとへと向かうのでした。
イザナギがスサノオのもとへと訪れると、スサノオは大声を上げて泣きわめいていました。
そのスサノオは髭が生えるほどに成長しています。
つまり、それほどに成長するまで、泣き続けていたのです。
そして、スサノオが癇癪ばかり起こし、任された海原をろくに治めていなかったことが、災いの原因だったのです。
イザナギは、スサノオにどうしてそんなに泣いているのか尋ねます。
「母上に会いたくて泣いていたんだ。母上のいるところに行って会いたい……」
スサノオは、イザナギが禊をしたことで生まれた神様です。
なので、イザナミとの間には生まれていないはずなのですが、それは野暮というものでしょう。
さてさて、スサノオの言葉を聞いたイザナギは、黄泉国の出来事がフラッシュバックします。
そう、あの命懸けの夫婦鬼ごっこを……。
「スサノオ、お前の母イザナミのいる場所は、とても危険な場所なんだ。母に会いたい気持ちはわからないでもないが、そこは堪えてくれ」
イザナギはスサノオを説得しようと試みます。しかし……
「いやだいやだ! 母上がいるところが危険なわけあるか! 母上に会うんだあ!」
スサノオはイザナギの言うことを聞かず、いっそう泣きわめいてしまいます。
「ええい! そんなに母に会いたいなら、黄泉国でもどこにでも行くがいい! お前は追放だ!」
堪忍袋の緒が切れたイザナギに、スサノオは追放を言い渡されてしまうのでした。
そう、ここに日本最古の追放者が爆誕したのです。
そして、本編の主人公が三千字を超えてようやく判明しました。
え? 最初からわかっていた?
細かいことを気にしていてはいけません。
それに、まだ焦ってはいけません。
スサノオはまだ追放されただけ。主人公と呼べるような活躍をまだ見せていないのですから。
■イザナギ(イザナキ)
イザナミとともに国生みや神生みを行った。創造神的立ち位置。
■イザナミ
イザナギとともに国生みや神生みを行った。神生みの最中に火の神カグツチを生んだ際に負った火傷が原因で死んでしまい、黄泉国へと逝った。
■アマテラス
太陽の神。高天原の主神であり日本における最高神。
■ツクヨミ
月の神。登場の機会が少なく影が薄い。
■スサノオ
本編主人公。父イザナギに追放を言い渡された。