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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

愛してるから殺したの。

作者: 瀬戸千衣

 きっと私は、私を産んだあの女が父親から出る真っ赤な液体を身に纏って高らかに笑っているのを見た時からずっとずっと狂っていたんだろう。



 *****



 父親は死んで、あの女が捕まって、私は施設に入った。7歳になったばかりの春の頃だった。そこにはいろんな事情を持っている子が多くて。その中でも人殺しの娘だと知られてしまっていた私は、皆に距離を置かれていた。その施設でももちろん学校でも誰とも話すことはなく、ずっと俯いていた。


『あの子のお母さん、お父さんを殺したんだって~』


『え~?じゃああの子人殺しの娘ってこと?』


『そうだよ。関わらないほうがいいわ~』


 人がいれば、噂なんて止まらない。加害者の娘でも被害者の娘でもある私は、ただ加害者の娘としてしか見られなかった。

 私だって好きで生まれてきたわけじゃない。小さなころからあの女と父親の仲は最悪だった。父親はすごく大きいわけではないがそこそこの会社の社長で。あの女はそんな父親に一目惚れして無理やり迫った。そうしてできたのは私。あの女はこれで父親の妻になれると信じていたらしいが、そんなことはあるはずがない。

 父親はもうとっくに結婚していた。息子も2人いて、私とあの女の存在など、どうでもよかった。

 それを知ったあの女は狂った。父親似だった私を溺愛していたあの女は、自分を見てくれない父親をどんどん恨むようになった。それと同時に私の顔を見るたびに、私を殴るようになっていた。

「お前が生まれたせいだ」「お前がいなければよかったのに」

 勝手に私を産んだのはそっちなのに、私のせいだと罵倒するその姿は、酷く醜かった。髪を振り乱し目は血走っていて、口元は歪んで。私はただそれを見上げながら静かにすることしかできなかった。

 父親が殺された時も、声ひとつあげることはしなかった。

 あの女は父親を憎んでいたから殺した。恨んでいたから殺した。嫉んでいたから殺したのだ。


 あの女も父親もきっと知らないだろう。私がどれだけあの人たちを恨んでいるかを。この世界を憎んでいるかを。

 青い空も、そこに浮かぶ真っ白な雲も、真っ赤な太陽も。

 美しい四季の移ろいも、澄んだ空気に響く高らかな鳥の囀りも、川のせせらぎも。

 公園で遊ぶ子供の笑い声も、雑踏の中を歩く大人たちのざわめきも、自分の心臓が動いていることさえも。

 何もかもが許せなくて、きたなくて、汚くて、どこまでも穢れているように感じた。


 そんな中をただ呼吸をして生きていた。何もすることもない、したいこともない、する気力もない。

 感情というものがわからない、表情の動かし方も知らない、心はどこまでも凍ってしまった。記憶があるなかでも一言も話したことのない私は、声の出し方さえも忘れてしまっていた。


 そのころにはもう施設を追い出されていた。施設に入ったばかりのころ気にかけてくれていた人はもう亡くなって、新しく来た人は早々に私を追い出した。

 普通に生きていればきっと高校というものに通っていたはずの年齢。でも中学校も小学校でさえも途中からいっていなかった私は何も思わなかった。

 施設から少しだけ盗んできたお金で、ネットカフェというものに行ってみた。パソコンなんて触ったことなかったけれど、他にすることもなかったからちょっとだけやってみた。話すことは忘れてしまったけれど、文字を忘れなくてよかった。そこで何か自分にできる仕事がないか探した。そうして見つかったのは夜のビルの清掃の仕事。声が出なくてもできるような仕事はそれしかなかった。


 そうして私はひとりで生きていく術を見つけた。


 保証人もおらず、自らを保証できるものは何も持っていない私は、家を借りることはできない。本当は仕事もできないみたいだけど、私が見つけたビルの清掃の仕事は違法なのに日本にいる外国人の人もいて。問題はなかった。まあ他の仕事よりも時給はだいぶ安かったけれど、しょうがない。皆ここで生きていくことしかできないものばかりだった。

 施設を出てどれくらい経ったのだろうか。時間の感覚などない私には全く見当もつかないけれど、きっとそこそこの時間が経ったとき。ふとあの女が愛した父親はどんなものだったのだろう。そんな疑問が浮かんだ。

 未だに住んでいるネカフェのパソコンで事件について調べてみれば、すぐにわかった。スクープが大好きな人たちにとっては格好の餌食だったあの事件は、当時面白おかしく書かれていたからそれは今でも残ってしまっていた。

 父親は若いころから会社の次期社長として大きな期待を寄せられていたらしい。優秀だった父親はそれにこたえるように政略結婚をし、そして自らの手腕で会社をもっと大きくしていた。急成長した父親の会社は私が思っていたよりも大きかったらしい。そしてその会社は今でもまだ残っていた。

 父親の弟が一旦跡を継ぎ、今では父親の息子が跡を継いでいることがわかった。

 半分血の繋がっているその人の写真を見てもピンとくるものはなかった。ただ近くで見てみたいと思った。


 そして次の日、私はその会社のところまで行ってみることにした。元々あの事件が起きた時にいた街に本社はあったのだが、あの事件の後隣の県まで場所を移していた。まああんなことがあった後にそのまま街にいることなどできなかったのだろう。

 電車で約30分。駅から歩いて10分ほど。合計40分でその会社についた。

 見上げるほどにそびえたつ大きなビル。そこからはスーツを着た男の人や、女の人が出てきたり反対に入って行ったりもしていた。

 この世界に生まれてから時が止まったかのように流動性のない時間の中で生きてきた私にとっては、その場所はとてもはやく時間が流れているように見えた。

 人の歩く音が聞こえて、電話の先に向かって声を荒げている人がいて、この会社には関係ない人もこのビルの前を通って。

 皆が生きていることがわかった。初めて「生」というものを感じた気がした。

 そしてなぜだか無性に泣き出したくなった。周りの目を気にせず、たった一人の私のために、声を上げて泣きわめいて。そうすれば今まで胸の奥底にしまって忘れていた感情というものが少しずつ出てこれそうな気がした。

 でも、私にはそんなことをする勇気がなかった。だってきっとこの会社の目の前でそんなことをしたら警備員の人が飛んできて、やばいやつだと捕まってしまうかもしれないでしょう?そうするときっと社長である父親の息子の耳にも入るはずだ。パソコンで調べた時、社員の声にも耳を傾けるいい会社だと口コミに書かれていたから、それが本当だとするなら誰かが報告しても、噂になっても、どっちにしろ調べられてしまうかもしれない。

 頭の中がごちゃごちゃになって、私はただビルを見上げてそこに立ち尽くしていた。

 そんな時。


『あっ、ごめんね』


 トンッと男の人と肩がぶつかった。我にかえってその男の人を見てみると…そこには父親にそっくり男の人がいた。いや私の記憶にある父親よりも随分若いのはわかっている。でも本当によく似ているから血は繋がっているだろう。私はすぐにその場を離れた。

 そんな私の背中に痛いくらいの視線が突き刺さる。あの男の人が私を見ているのがわかった。でもどうしても振り返るわけにはいかない。だってあの女がいうには私は父親に似ているから、もしかしたらわかってしまうかもしれない。父親を殺した女の娘だと。






 *****



 あの日からきっと1か月くらいが経った。やっと時間の流れが掴めるようになった私は、未だにネカフェに住んでビルの清掃の仕事をしていた。今でもふと思い出すのはあの男の人のこと。会社のホームページで見た写真の社長とは違っていたからきっと次男のほうなのだろうと思う。それにしても長男と次男は随分歳が離れているんだなと考えながら仕事が終わってネカフェまでの道のりを歩いていた。

 そして帰って、軽く何かを食べて、寝る。いつものルーティン。突然声をかけられるまでは何も変わらないいつもの日だと思っていたのに。


 きっとこの日から元々ずれていた歯車が完全に狂ってしまったのだろう。



『…ねぇ、君』


 道を歩いていても携帯など持ってもいない私は、イヤホンをして音楽を聴くこともできず、ただ静かに歩いていた。だから誰かを呼び止めるようなその声に反射的に振り返ってしまっていた。

 そしてすぐに私は振り返ってしまったことを後悔することになる。

 誰もが見惚れてしまいそうなほど完璧な笑顔。それでも私には目が笑っていないように見える笑顔を浮かべたその人は、あのこの前肩がぶつかった、次男らしき男の人だった。


『俺とちょっと話をしない?』


 今まで静かに生きてきたつもりだった。人殺しの娘だと後ろ指を指されても、何も考えず何か反応してしまったらこっちの負けだと、心を殺して生きてきたはずだった。

 なのに、あの日のちょっとした出来心でビルまで行ってしまったことを後悔した。

 走って逃げたくなった。でも逃げられないとわかっていた。もし逃げれたとしてもきっと私の仕事場所やネットカフェのことまで調べ上げてここに来ているのだろう。こうして声をかけられた時点で逃げられるわけない。


『…うん、素直についてきてくれてありがとう』


 有無を言わせないようににっこりと笑ったその人に押し込まれるように車の後部座席に乗った。人生で数回しか乗ったことのない車は、今まで乗った中で一番乗り心地がよくて、一番居心地が悪かった。

 そしてその車が走ること約20分。


『俺が借りてる家だよ。でも普段は住んでないから何もないけどごめんね』


 そんな贅沢なことをしているのか。なんてちょっと思ってしまったけど、男に促されるままその部屋にはいった。

 その部屋は男が言った通り何もなくて。私と男は向き合うように床に座った。


『君さ、1か月くらい前に大きなビルの前で俺とぶつかったよね?』


 何を言われるのかわからなくて。緊張でカチコチに固まっていた私は男からのその質問にちょっと拍子抜けした。もっと罵倒されるかと思っていた。だってきっとこの男は私が父親を殺した女の娘だとわかっているはずだから。

 私はそんなふうに戸惑いながらも素直に頷く。


『うんそうだよね。それであの時君を見てわかったよ。君さ俺らの父親を殺した奴の娘だよな』


 クエスチョンマークも付けない断定した言い方。ふと体が震えているのがわかった。

 だってこの男はその言葉を発するとき、何も表情を変えなかったから。天気の話でもしているかのように、呼吸をするように私にそう言った。

 あぁこの男も壊れてるんだ。すぐにわかった。私のように声の出し方も表情の変え方も忘れたわけじゃないけど、この男はどこかが完全に壊れている。そしてそれを壊したのは、私を産んだあの女なのだろう。


『やっと見つけたよ。あのときニュースで女の写真は見たことがあるけど、君のことは見たことがなかったからね。それに写真を見た時はまだそんなに大きくなかったからうろ覚えでさ』


 怒っている様子もなく、ただ話している男。私は緊張で動悸が止まらない。

 どうしてこの男は私にそんなことを話すのだろう。何がしたいのか全く見当もつかない。


『ねえ償ってよ』


 突然だった。さっきまでにこやかに私に話しかけていた男はそう言った。

 笑っていない目で、笑顔を作っていたその顔は今はもうスンっと表情が抜け落ちてまるでロボットのように無表情で私を見ていた。


『あの日から俺たち家族は狂ったよ。父さんは死んで、母さんは狂ったように兄を躾だといって押さえつけるようになった。兄さんは母さんの望むように全てを諦めて手に入れた。俺は見向きもされなくなった。兄さんとは歳が離れていたから、その当時の兄さんは母さんにとって父さんだったんだろう。俺はただ兄さんの陰で生きてきた。ずっと考えてたんだよ。父さんを殺したやつはどんなやつなんだろうかって。そしてその娘はどんなやつなんだろうかってね』


 何も、言えなかった。あの日からずっとこんな日がいつかやってくると思っていた。

 そしてどうすればいいのかずっと考えていた。それでも一度も答えが出たことはない。どれだけ考えても何も浮かばないんだ。死んでほしいといってくれればすぐにでも死ぬのに、償えと言われてしまえばどうすればいいのかわからない。


『ねえ何か言ってよ。償ってくれるよね?君の母親のせいで俺たちは狂ったんだよ?』


 違う、と言いたかった。あんな奴は母親じゃない。母親だと認めたくない。あの女と同じ血が流れているだなんて信じたくなかった。自分の体から一切の血液を抜いてしまいたくなる。何がなんでもあの狂っている女と血が繋がっていると思いたくなかった。

 声も出ないのに咄嗟に否定しようとパクパクと口を動かした私を見て、男は固まった。


『…君声が出ないのか?』


 私の声は出ないのだろうか。自分でもよくわからない。でも怪我をしたわけでもないのに声がでないのはどうしてなのだろう。私には男のその質問に答えられなかった。


『……ごめん』


 私の様子を見て、顔を歪めて固まってしまった男は、突然私にそう言った。

 どうして謝るのだろうか。悪いのは完全に私なのに。認めたくはないがこの男たちの家族を狂わせてしまったのは私を産んだ女なのだ。私が嫌がったとしても男とその家族からしたら私も同罪だろう。


『…送るよ』


 急に何も話さなくなってしまった男はそう言って立ち上がった。

 私は何がどうなっているのかわからなかった。だって自分の気持ちもわからない私が他人の気持ちなどもっとわかるはずがない。もっと罵倒して殺してしまってもいいと思うのに、男はそれをしない。何がしたいのか、私には全くもってわからなかった。


 結局再び男の車に乗って、最初に乗せられた道に降ろされた。きっとネカフェの場所も知ってるだろうにここで降ろされたのは気遣ってくれたのだろうか。それとも面倒くさかったからなのだろうか。

 わからない。この世界は私にわからないことばかりだった。




 *****



 あれから男は定期的に私を見に来るようになった。それがいつ償ってくれるのかと迫られているようで、私も必死に毎日毎日考えた。どうすれば償いになるのか。そのことで頭がいっぱいで眠れなくなった。

 だからだろうか、きっと眠れないせいで思考力が著しく低下していたのだ。ふとあの男の様子を見に行けば、どう償えばいいのかわかるかもしれないと思いついてしまった。そしてあの日と同じように電車に乗ってビルまで行った。当然のことながら男の姿はなかった。

 気が付けばビルの目の前に来た朝から時間は経って、辺りは日が落ちて真っ暗になってビルの電気も辛うじて一階のロビーと上の方がついているだけになった。その時。


『…ここで何してるの』


 いつのまにか俯いていた私にかけられたであろうその声。私は我にかえってバッと顔を上げた。

 そこにいたのは、あの日よりも少しだけやつれたように見える男がいた。いつもは遠くの方で見られるだけだからそんなこと気が付かなかった。心なしか顔色も悪く見えた。


『この前はごめん、でももう関わらないようにしよう』


 俺から近づいたのに何言ってんだろ、と小さく男が呟いたけど、私はその言葉に驚いて固まっていた。

 私は男の家族に、男に償わなければならないのに、そのためにはかかわらないなんてできっこない。ずっとずっとどう償えばいいのか、男のことを考えていたのに。それしか私はやることがないのに。

 ふと自分がなぜ今を生きているのかわからなくなった。男に償えと言われる前になぜ死んでいなかったのだあろう。無意識に今までもどう償えばいいのか考えていたからだろうか。ずっと知る前からずっと男のことを考えていたからだろうか。

 男と出会ってから止まることのない質問は答えが見つからないままで。どんどん生まれてきては脳内を占めていた。


『…君には関係ないってわかってるんだ。

 君が悪いことは何もない。君の母親が悪いってちゃんとわかってるのに。あの日はちょっとどうかしてたんだ。俺のことはもう忘れてくれていいから。本当にごめんね』


 その言葉に私は呆然とした。どうして、と声にならない言葉が口から零れ落ちた。

 私を産んだ女を、私を、恨んで。憎んで。償えと叫んで。殺してくれてもいいのに。

 ギュッと胸が苦しくなった。

 何でもする、とたまたま仕事で使っていたノートとボールペンがパーカーのポケットに入っていることに気が付いて取り出して書きなぐった。

 それを男に向けて差し出す。

 私が償うべきだ。どうすればいい。何でもする。

 必死でそう書いた。顔を歪めて固まっている男が何も言わないのをいいことに、どんどん書いては男に見せる。

 死ねというのなら死ぬ。殺してくれてもかまわない。

 ノートを何ページ使っただろう。私がそう書いた瞬間、男が動いた。


『…ごめんね。俺が追い詰めたんだよね』


 腰と後頭部の辺りに回された腕に、ぐっと引き寄せられた。ちょうど私の顔くらいに男の胸辺りがきていて、ちょっと顔を上げれば男の肩に顎を乗せる形になった。


『本当に忘れて。…なんて無責任だよね。本当にごめん。もう君を恨んでない

 から』


 初めて人の温もりを感じた。初めて誰かに抱きしめられた。

 あたたかくて。ただあたたかくて。胸がじんわりとあったかくなった。

 こんな気持ちになったのは初めてで、どうすればいいのかわからない。ただもっとずっと抱きしめられていたかった。

 恐る恐る背中に手を回した。拒否されるかもと思ったけれど、なんとなく抱きしめられる力が強くなっただけだった。

 何かあたたかいものが自分の目から落ちた気がした。ふわふわと雲の上にいるかのように体が軽く感じる。ふと眠気に襲われた。最後に男の肩越しに見えた夜空は綺麗に見えて。その瞬間、私の意識はどこか深くへ沈んでいた。




 *****


 何か物音がする気がする。いつも何かしらの音がするネカフェでは聞くことのない、どこか懐かしい音。

 その音に誘われるように目を開ければ、見覚えのない真っ白の天井にハッとした。慌てて起き上がれば、見たこともない部屋に寝かされているのがわかった。

 昨日、私どうしたんだっけ…と考えた瞬間、思い出したそれに顔が熱くなるのを感じた。

 その時。


『あ、起きたんだ。おはよう』


 ガチャリと音を立てて、男が部屋に入ってきた。


『ごめんね、昨日急に寝てしまったからそのまま連れてきちゃったんだ。今日俺仕事休みだから送っていくよ』


 そこでふと思い出した。仕事場の人たちが話していたことを。

 男の人は女の人の体が好きだから、裸になれば喜んでくれると。そしてそれがベットの上だとなおいいと。それが本当かどうかはわからない。でも男の人は気持ちがいいといっていたから償いはできなくてもそれくらいなら私にもできるかもしれない。

 辺りを見渡して、すぐ近くのテーブルにノートとボールペンがあるのに気が付いた。それに「私なんでもします」と書いて男に渡す。男はそれを見てまたちょっと顔を歪めたけど、私が服を脱ぎ始めた瞬間、驚いて目を見開いた。


『えっ?何やってるのっちょっと服着て』


 男は私を止めようと焦っていたけど、私に触ってもいいのかわからずおろおろするだけで、その間に私は下着まで服を脱いでいた。

 どうすればいいのかなんて経験もないからわからない。とりあえず服を脱げばいいと最後の下着に手をかけた瞬間、腕を抑えられた。


『…本当にダメだよ。俺はそんなことできない』


 そう言って私の目を見つめた男の目は真剣で。それを見て私もそれ以上進もうなんて思えなかった。

 結局償う方法もわからないまま私は男に再び車で送ってもらった。




 *****


 男と初めて出会ってからいくつかの季節が過ぎ去って。それでも私は男のことを考えていた。まだどう償えばいいのかの答えは出ていなかった。

 あの日以来、男と会うことはなくなっていた。あれだけ何度も遠くの方から私を見ていたのに、それさえもなくなって、私の方からもビルへ行くことはなくなっていた。次出会ってしまえばどうなるかわからないと私の何かがいっていた。

 そんなある日。

 いつものビル清掃からの帰り、場所を転々と変えいくつか目のネカフェに帰る途中、何か軽く食べようかなんて考えながら歩いていると、私の隣にどこか見覚えのある車が止まった。

 何か、なんて考える時間もなく私はその車から伸びてきた腕に掴まれて、車に引きずり込まれた。こんなの時にも少しも出ることのない声は何も役に立たずに、ただ音にならない口をパクパクと動かしただけだった。


『…ごめん。でもどうしても抑えきれなかった』


 パニックになりかけた私の耳に届いたのは、いつもいつも考えている男の声で。ハッとその声の方を向けば、会いたくてたまらなかった男がいた。


『君とはもう会わないって決めてたんだ。でも今日は無性に君に会いたくなって…』


 男の声はそう言ってどんどん萎んでいった。そっと男の顔を覗き込めば、恥ずかしがっているかのように私の方を見ようとしなかった。そんな男の耳が真っ赤に染まっていることに私は気がつかなかった。


『…君にこんなこと言えないのはわかってる。でも…君のことが頭から離れないんだ』


 自分の気持ちがよくわからない、と男は笑った。その気持ちは…私もすごくわかる。だってずっとずっと考えてきたことだから。結局自分の気持ちが一番よくわからない。

 それでも。いいよ、と私は口を動かした。何をしてもいい。私は男にならなにをされてもいい、と思った。

 一度だけ来たことのあるあの男の家について。男に手を繋がれて一緒に部屋に入った。その瞬間、塞がれる口に、されたこともない激しいキスに、どんどん息が上がっていくのがわかった。

 気がついたら服を脱がされて、ベットに横になって男が覆いかぶさっていた。正直経験のないこの先を怖くないなんて言えない。それでも男に身を任せる。これが私の償いだから。


 気がつくともう朝だった。ふと温かいものに包まれている気がして、隣を見ると男が気持ちよさそうに眠っていた。その穏やかな寝顔を静かに見つめる。

 私とこの男は半分血が繋がっているはず。これがいけないことだとわかっていた。でももう止まれないんだ。


 …そう思ったのに。その日から1週間ほどが経った日、再び仕事帰りに拐われた。そして驚くことを聞かされた。


『…俺と君は血が繋がっていない』


 え、と口を動かしてそのまま固まった。私と男は血が繋がっていないの?それは男があの父親の息子ではないのか…それとも…


『昔俺は父さんの息子なのか調べたことがある。結果はちゃんと俺は父さんの息子だった。

 だから、父さんの子ではないのは君だ』


 信じられなかった。私を産んだ女は、何を思っていたのだろうか。殺すほど想っていた男ではない子供だとわかっているのだろうか。きっと父親によく似た誰かの子供を父親の子だといって産んだんだ。

 …本当に何をやってるんだ、あの女は。自分の想いだけで突き進んで人を殺して、好きな男の家族を壊した。あの女はたくさんの人の人生を壊したんだ。


『…ごめん、俺はそれを聞いて安心したんだよ。ずっとこんな関係になったことを胸を張って言えないなんて思ってた。だから…本当によかった』


 ふにゃんと眉を寄せて困ったように笑いながらそう言った男を、私は責める気もなかった。

 だって、私も安心してしまったから。半分血の繋がった兄妹がこんな関係になったことに対して酷い背徳感に襲われることもあった。それが全部一瞬でなくなった。

 私の表情を見て、私が何を思っているか分かったのだろう。ふっと笑った男に優しく口を塞がれて、身を委ねた。




 *****


 それから2つほど季節が変わった。相変わらず私たちの関係はそのままで、進展があったとすれば私が男の部屋の合鍵をもらったくらいで。でも私がネカフェに住んでることや男が少しずつ窶れていることは変わらなかった。

 そんな、ある日。いつも変化は突然なのだと私は分かっていなかった。


『…ただいま』


 なんとなく金曜日は必ず来ている男の家で、男の帰りを待っていればなんとなく嫌な予感とともに帰ってきた。

 いつもより少し沈んだ声。おかえり、と声にできない私はパタパタと足音を立てて玄関まで男を迎えにいった。


『ん、お迎えありがとう』


 大したこともできない私に、また少しだけ窶れた男がそう言って優しく笑った。男の家にいるようになってちょっとずつ料理をするようになった。とは言ってもできるのは簡単なものだけだけれど、男はいつも美味しそうに食べてくれた。

 その日は初めて作った料理で。前に男が好きだと言っていた炊き込みご飯に挑戦してみた。それを見て嬉しそうに笑ってくれて。私の心も嬉しそうにあったかくなった。

 …そこまでは本当にいつも通りだったのに。

 ご飯を食べ終わって、食器を洗って、ふと顔を上げれば男が私を見つめていることに気がついた。どうしたのかと首を傾げれば、男は何か覚悟を決めた顔をして、私にこっちへ来てと手招きした。


『…とても大切な話がある』


 嫌な予感がした。胸がざわざわと騒めきたって。なぜだか無性に頭を掻き毟りたくなった。


『…兄さんが俺に見合いの話を持ってきた。俺は結婚しなくてはいけなくなる』


 耳の奥でキーンと耳鳴りがした。その音はどんどん大きくなって、意識が遠のいた。目の前にいるはずの男の顔がよく見えない。どうして、と口が勝手に動いた。


『…ごめん。俺は結婚したくない。君とは一緒にいたいけど…』


 男の話を聞いていればわかっていた。男が自分の家族に逆らえないことくらい。今回の結婚も政略結婚なのだろう。でも私は許せなかった。私を置いていくなんて許せない。

 目の前が真っ暗になる。ふらりを立ち上がって、私は台所へ向かった。そこにあったのはさっきご飯を作る時に使った包丁。男が私のためにと買ってきてくれたものだった。

 私はそれを両手で握りしめた。そしてそのまま…男の元へと体当たりする様に走ってぶつかって。ベシャリと自分の顔や体に真っ赤な液体が飛び散るのを感じた。


『、あっ…』


 真っ赤な海の真ん中で倒れる男が、小さく声を上げた。それを聞いて、ハッと我にかえった。

 自分でも一瞬何をしたのかわからず、呆然と男を見下ろすと、男はいつもと同じようにただ穏やかに笑った。


『ごめんなぁ…』


 意識が朦朧としているのか、どこか焦点が合わない目を懸命に開いて。震える口で男はそう言った。気がつけば私は男の手を握って床に座り込んでいた。


『ありが、とう…俺と一緒にいてくれて』


 そんなのはこっちのセリフだと、グッと握る手に力を入れて、男の血の気の引いた顔で笑っているのをただ見ていた。


『愛してるよ…(まな)


 初めて自分の名前を呼ばれた。小さい頃は誰かが呼んでくれるんじゃないかと期待していたけど、あの事件があった後はそんなこと思わなくなっていた。いや、でも忘れることは出来ずにただ誰にも言えずに覚えていただけだった。男にも言っていないのに、名前を呼んでくれた。それだけでただ嬉しかった。それだけで自分が生きていてよかったのだと許された気がした。

 それと同時に囁かれた愛の言葉。その言葉を聞いて、ふと自分が涙を流していることに気がついた。そしてやっと気がついた。私は男を…心の底から愛している。

 頭のてっぺんから爪先まで男のものならなんだっていい。なんだって愛していた。


『…ま、なと…わた、もあい、し…てる』


 どうしても名前を呼びたいと思った。どうしても愛を伝えたと思った。

 初めて聞いた自分の声は不思議な感じがして、途切れ途切れだったけど、男…愛斗(まなと)は一瞬驚いたような表情をしていたけど、すぐに笑ってくれた。

 愛してる。本当に心の底からそう思った。





 *****



 気がつけば愛斗は冷たくなっていた。静かにその顔を覗き込めばひどく穏やかで、ただ眠っているだけに見えるほどだった。

 愛、愛斗。愛というものを知らない私たちの拙い愛はどこまでも歪だった。お互いがお互いに執着しあった共依存。でもどこまでも幸せだったと私は思う。

 ふと部屋の隅に置いてある鏡が目に入った。そこに写っていたのは、真っ赤な液体を浴びた私で。それを見て私はあの女の気持ちがわかった気がした。

 あの女が愛斗の父親を殺したのは恨んでいたからでも憎んでいたからでもない。

 あぁ、自分があの女の娘なのだと今ならすごくわかる。あの女はどうしても許せなかったから殺したんだろう。怒り狂ってしまったんだ。


 初めて声を上げて笑った。もう一度生まれ変わった気分だった。でも、もうそれもおしまい。私も愛斗を追いかける。愛斗がいないこの世界に私が生きる意味はない。


 あの世で愛斗を見つけて、そして叫ぼう。



 愛してるから殺したの、と。





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