第3話 天変地異とはこのこと
PM11:43。
まさかの事態に驚きながらも、頑張って仕事をしている朝日の姿がそこにあった。
まわりの机には、もう誰一人として残っていない。
やっと終わりそうだった仕事が、まさかこんな形で引き伸ばされるとは。
しかも、「明日までね!」と清水は朝日に電話をかけてきていた。
電話の向こうは、大きな機械な伴奏音と熱唱する声。
さすがの朝日にも、自分が置かれた状況をしっかりと理解していた。
まさに、昨日の仕事に引き続き、徹夜2日目に突入しようとしている瞬間だった。
そのとき、向こうの部屋の扉がゆっくり開いた。
まさかとは思った。
テレビ局でそんなことが起こるはずがない。
朝日は背筋を凍らせた。
あえて、こういうときは音のする方向を見ないほうがいい。
朝日は書類の山に身を隠していた。
どんどん自分のほうへ、足音が近づいてくる。
机に向かいながら、迫りくる恐怖に目をきつく閉じた。
次の瞬間、肩を誰かが叩いた。
「は…い…」
恐る恐る後ろを振り返っる。
「水無月さん。まだいらっしゃったんですか?」
そこには想像していたものとはまったく違う、高島の姿があった。
「はぁ…高島プロデューサーですかぁ…」
安堵のため息とともに、言葉を漏らした。
「なにか不都合でもありましたか?」
「いいえ。誰もいないはずの部屋のドアが、いきなり開いたものですから。それもゆっくりと。…幽霊か何かと思っちゃいました」
高島はいつもの笑顔で笑った。
朝日の緊張していた心に、高島の笑い声が染み渡った。
「驚かせてすみません。明日の朝一の会議で使う資料を再確認してたもので」
高島は謝っているのにもかかわらず、いつものとおり微笑んでいる。
「い、いえ!ただ私の思い込みでしたから」
上司に謝られるなんぞとんでもないこと。
朝日はここに誰もいなくて良かったと悟った。
……待てよ。
ということは、私と高島プロデューサーの2人っきり?
朝日にそんな思いがよぎる。
その瞬間、心臓が高鳴った。
「なんですか?それは」
高島は不思議そうな目で書類を指差した。
「あ、それは明日までと頼まれた書類です」
「でも、こんなに書類を一気に頼まれるものですか?ものすごい量ですし。」
「そんなことないですよ。大丈夫です」
高島は書類のうちの一部を手にとり、読み始めた。
しばらくすると、眉間にしわを寄せた。
「ん?これは、私が清水さんに頼んだものです…。1週間で仕上げてくれればよいと言ったのですが。何せこの量ですから」
「い、1週間!?」
朝日はやっと『はめられた』感に陥った。
清水にしてやられた。
「ええ。…それを何故あなたが?」
「それは…」
「清水さんに頼まれたんですね?」
ちがう、と喉元まで出かかったが、高島の鋭い視線でそれは押し戻された。
「…はい」
朝日は申し訳なさそうに、結果論を述べた。
「それでは…」
高島は着ていたコートを脱ぎ、鞄を置いて、隣の席に腰掛け書類を取った。
朝日はいきなりの出来事に、目を点にさせた。
「プ、プロデューサー!なにを」
「そもそも私がお願いした仕事です。いくら新人とはいえ、これはやりすぎだ。しかも明日までとは無理な話。…私もやります」
どこか硬い微笑で高島は答えた。
「いえ!私がやります。頼まれた仕事ですから!」
「いいんですよ。あなたはこの頃、いささか疲れすぎています。目の下にこんなひどい隈まで作って、これはさすがに異常です。入社したてのあなたを倒れさせてしまったら、…上司としてあなたのご両親に合わせる顔がない」
眼鏡を指で上げながら、高島はペンを走らせる。
朝日は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「プロデューサー…でも」
「もうそれはいいですから。そうしなきゃ、明日までに終わりませんよ。せっかく2人でやるんですから、頑張りましょう。ここまでの努力を無駄にしたくないでしょう?」
高島の微笑みはやっと柔らかくなったようだ。
「すみません…」
朝日は自分が置かれた状況に、ひたすら心臓を高鳴らせていた。
2人で作業を開始してから、約1時間半が経過した。
日付が変わっても、外の世界の賑やかさは治まることを知らなかった。
この時間までずっと会話をしていない2人。
朝日はあまりの静かさに、高島がうたた寝しているのではないかと気になり、書類の山の影から、伸びをするふりをして除いてみたりしていた。
高島は黙々と書類に向かって、ペンを走らせている。
背筋を伸ばして椅子に座っている姿は、とても華奢で清らかだった。
あの部屋の中でいつもこうして、独りぼっちで仕事をしているのだろう。と空想をふくらませていた。
そして、緊張のせいか、まったく眠くなっていないことに気づいた。
いつもなら机に突っ伏して寝ている時間帯。
朝日には新鮮な感覚だった。
「…あっ」
高島が小さく声を上げた。
書類の山の影から、朝日は顔をのぞかせた。
「どうかしましたか?」
「余計な点を無意識のうちにつけてしまっていたみたいで。…修正液あります?」
「はい。もちろんです!必需品ですから」
朝日は自分専用の修正液を手渡した。
「すいません…」
高島は修正液で誤字を白く塗りつぶすと、礼を言って返した。
「………」
高島は膝に手をそろえ、修正箇所を見つめている。
朝日はそんな高島を見つめている。
「…こんなに長かったんですね」
「…なにがですか?」
高島は微笑んだ。
「修正液が乾くのって…こんなに長かったんですね」
「そうですか?いつものことですよ?」
「たぶん、電子機器が動いてなくて社員たちがいないぶん、いくらか室温が低いのでしょう。暖房もフル稼働していませんし。そのせいで乾くのがいくらか遅い」
修正液ひとつでそこまで考えたことなんてなかった。
きっと、こんな細かいところまで考えてしまえるような性格が、高島尚秋がヒットメーカーと呼ばれる所以なのだろう。
「…すこし、休みませんか。集中力が途切れるころですから」
そういうと、高島は椅子から立ち上がり、歩き始めた。
「プロデューサー、何処へ行かれるのですか?」
「コーヒーでも入れようかと思いまして。眠気覚ましにでも」
「そ、それなら、私が入れますよ!いつも慣れていますし」
「この前、水無月さんにご馳走になったばかりですし。…今日は私がご馳走しますよ」
慌てる朝日を制して、一人歩いていった。
数分後。
高島は二つのカップを持って帰ってきた。
美味しそうな湯気が立ち上っている。
ゆっくりゆっくりと、コーヒーをこぼさぬように歩いてくる姿が、朝日の心を妙にくすぐった。
「…よっし」
掛け声とともに、高島は朝日の机にコーヒーを置いた。
朝日は、高島でもこんな声を出すのかと微笑ましくなった。
「ありがとうございます」
「味は保障できませんが。どうぞ」
「それじゃ、いただきます」
暖かいカップを持って、口へと運んだ。
喉を暖かいコーヒーが通っていく。
「…あ〜。すっごく美味しいですよ!」
「…そうですか?私は水無月さんのコーヒーのほうが、美味しいと思うんですけど」
高島は、真剣な目で首を少しかしげる。
「私のより、全然いいですよ!」
朝日は目を輝かせて言う。
まだ首をかしげている高島。
朝日はとうとう、くすりと笑ってしまった。
「…どうかしましたか?」
「い、いいえ!ただ、高島プロデューサーが真剣な顔して首をかしげているのを見たの初めてだったので。
…なんか、いいなぁって」
そういい終えると、恥ずかしそうにコーヒーをすする。
高島は朝日を見ながら、また首をかしげる。
「そうですか?…なんかいいなぁ……ですか?」
「いや、ただ私が思ったことなので。あまり気にしないでください」
考え込む高島を見て、慌てて返答した。
しかし、しばらくの間、ぶつぶつと「…なんかいいなぁ」と呟いていた。
そんな姿がどうも可愛らしかった。