第1話 プロローグ
あの人はいつも泣いていた。
そんな姿を見るたび、そんな苦悩している表情を見るたび、俺は迷った。
いつも明け方近くなってから溶けたように、這うように、布団にもぐりこむ姿を見るたび、俺は迷った。
朝起きて、腕まくりをしながらご飯を作るあの人の細い両腕に、ねじりこまれた様な何層にもなった痣があるのを見て、俺は迷った。
「これでいい…これでいいんだよ」
いつだったからか、そう呟きながらあの人が頭を撫でてくれるその行為に、安心感を抱けなくなった。その代りに虚しさがただ、ただ俺の頬を張った。
それでいいのか?それでいいのか!?
その陰湿な問いに、俺は背を向けることしかできなかった。
だって、わかってたから。
こんな幼い俺に何もできない。
できるはずがないじゃないか。できたらもうしてるさ。
…むしろ、なにかできたらびっくりするだろ。世間は。そんな甘い社会じゃないんだ。
その問いは、俺のそんな気持ちをわかってる。
わかってて俺を煽る。煽って、煽って。
そして、俺の無力さに俺を漬け込む。
よくできた深層心理だと常々思っていた。
それはもう幼いころからずっと。
でも、今から思えばそんなことに気づけるような、理解していたような大脳をもちあわせていたのならば、あの頃の俺にはなにかできていたんじゃないのか?と思えるようになった。
それに気づいてからは、そりゃもう自問自答の日々。
「自問」は日を増して粋がっていくけれど、「自答」は日を増して萎えていく。
四字熟語で表せるようなフェアな世界じゃなかった。
流され、流されるまま、俺はただ漂流していた。
太平洋。大西洋。インド洋。日本海。オホーツク海―そんな名前の付いたとこじゃないよ。
もっと辺鄙で、もっとぬかるんだとこ。
「漂流していた」っていう動詞が適切なのかもわからないような、そんなとこ。
…助けを求めなかったのかって?
求めてもどうにもならないさ。
「そんな甘い社会じゃない」。さっき言ったばかりじゃないか。
そんな世界に自分から助けを求めるなんて、正直、糞くらえだ。
それで、俺がこういう世間から見ればいわゆる「可哀想」な幼少時代を送ってきたことを耳にするとすぐに同情して、今という場所から過去という場所に住む幼い俺に、「そんな状況を脱出するためになにか方法はなかったのか」とか、眉を下げて俺にさめざめとした声で尋ねるとかいうことなんてことも、正直、糞くらえだ。
オジサン、オバサン、そーゆーのは、「後の祭り(アトノマツリ)」ってゆーんだよ。
イイ大人がなにいってんだ。
だからさ、とにかく俺が言いたいこと聞いてほしい。
余計なこと、口にしないで。
もううんざりなんだよ。疲れたんだよ。
放してほしい。
助けてほしい。
誰か、助けて。