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池木屋山三  作者: 利田 満子
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テント設営

徒渉を終えると手早くタオルで足を拭いて登山靴を履いた。靴の中の足はまだ冷えたままで感覚が無い。私たちはリュックサックを背負うと岸辺から小さな祠のある広場まで登った。そしてリュックサックを降ろすと祠の前に横になって並んだ。頭を二回下げて拍手を二回した。その音は真っ暗な森に吸い込まれていった。

「今夜と明日の晩私たち三人がこの広場にお世話になります。よろしくお願いします。明日は池木屋山に登るつもりですが、無事に登頂できるようにお願いします」賢一が言い終わると私たちは再び頭を下げた。

「おい、今のお祈りなあ。池木屋山に無事登れますようにじゃなくて登ってちゃんと帰って来れるように言うた方が良かったんと違うか。あれやと、何か登りっぱなしで帰りのことはどうでもええみたいやんか。下山の時に何かあったらどうするんや」参拝を終えてほっとしたときに貴洋がちょっと不満そうに言った。

「理屈を言えば確かにそうだけど、言わなくても神様は俺たち三人が考えていることくらいわかってくれてるさ。山は登れば下山するのが当たり前だし、誰もずっと頂上にいるわけじゃないし」賢一が答えて言った。

「そうよ。理屈っぽいのは嫌われるわよ」すかさず賢一の後に続けて私も言った。貴洋は何か言い返そうと考えているようだったが、すぐには考えがまとまらないみたいでおとなしくなった。

 昨年テントを張った場所を覚えているので私たちは言葉を交わさなくてもすぐに張ろうとする地面の小石を拾って整地にかかった。それが済むと貴洋がリュックサックを開けて無口でテントのポールとフライシートを取り出した。これがテントを設営する合図になった。テントの本体は賢一が持っていた。私はテントの張り綱とペグを出した。テントを設営する作業は何度もやっているのでほとんど言葉を交わす必要が無い。誰も喋らないでいると山の中は寂しいもので聞こえるのは川の流れる音だけだった。テント本体にポールを通してテントを立てるときにだけタイミングを合わせるためにかけ声をかけた。後は黙々と作業を進めた。誰もがテントの中に入って早くホエーブスの火にあたりたいと思っている。

 谷を抜けて山から降りてきた冷たい風がゆっくりとテントにのしかかるが、薄い布一枚が外の寒さを遮ってくれる。風にさらされないだけでも身体が温まってくれる。照明は小さな蝋燭一本だけだが、結構明るい。貴洋がホエーブスを取り出した。テントの入口を開けると半身を出して燃料の灯油を入れた。テントの中に灯油の臭いが入って来た。次にメタを置くとプレヒートを始めた。ホエーブスは強力な火力を持っているが、点火するのが面倒である。台所のガスコンロのようにすぐに火が点く便利なものではない。どうしてもプレヒートをしてノズルを暖める手順が必要だ。テントの中にメタの刺激臭が充満した。その刺激臭が結構目に染みる。いつものことだが、テントの入口を少し開けて目を細めながら我慢するしかなかった。誰も言葉が出ない。

 メタがほとんど燃えてしまった時がホエーブスに点火するタイミングである。勢いの良い音をたててホエーブスは燃えた。テントの中が一気に暖かくなった。私たちは各自の荷物を片付ると夕食の準備に取りかかった。時刻は午後七時を過ぎている。ホエーブスの上に宮の谷の流れから汲んで来た水がいっぱい入ったコッフェルを置いた。メニューは豚肉の水炊きである。ご飯は米を水で研いだりして炊くのに手間がかかるのでおにぎりにして家から持ってきた。冷たくなっているが、温かい水炊きがあれば十分である。私は白菜、春菊、焼き豆腐、豚肉などを刻んだ。材料を入れたり、味付けをしたりといったことは賢一がやってくれる。ホエーブスの火加減は貴洋の役目だ。ホエーブスの熱気とコッフェルから立ち昇る湯気で狭いテントの中は暖かくなった。

 しばらくするとテントの中に食欲をそそる臭いも漂った。貴洋はテントを出るとここに着いた時に川に入れて冷やしておいた缶ビールを取って戻って来た。賢一が味見をして火力を弱くしている。

「さ、、できたぞ」賢一が言った。

「おいしそうね」

「うまそうやなあ」アルミ製の食器にポン酢を入れると私たちは箸を持った。

「おう、まずこれで乾杯といこうぜ」貴洋は缶ビールを開けると私と賢一の金属製のカップに注いでくれた。

「それでは、明日の池木屋山登頂を祈念して乾杯しようや。賢一、乾杯の音頭を頼むわ」

「わかった。それじゃあ、明日の登頂を祈念して乾杯!」賢一がカップを高く挙げた。私と貴洋もカップを挙げた。三人のカップがぶつかる音がした。三人とも一気にカップのビールを飲み干した。ホエーブスの熱で暖められた身体の中心目がけてよく冷えた液体が降下して行く。今まで緊張していた神経が急に緩んだ。これまでにビールを飲んだことはあったが、この時は本当にうまいと思った。

「うまいなあ。ビールがこんなにうまいんは高校生のうちだけやろうなあ」唇にビールの泡を付けて貴洋が叫んだ。すぐに右手で泡をぬぐった。

「多分そうだと俺も思うよ」カップにビールを注ぎながらビールの臭いの混じった息を吐いて賢一が言った。

「智子もなかなかええ飲みっぷりやないか。注がせてもらうで」貴洋は空になった私のカップに注ぐと自分のカップにも注いだ。私は二杯目は少しだけ口にして、水炊きを自分の食器にとった。美味しい。

「智子、もっと飲んだらどうや」貴洋がビールの缶を持ってカップを空けさせて注ごうと待ち構えている。

「人に注いでないであなたも飲んだらどうなの」私は貴洋から缶を取り上げると彼の食器に注いだ。その動作が素早くて乱暴だったのか二人とも驚いたような顔をしていた。自分でもちょっと乱暴だと思ったが、この時は力を加減することができなかった。

「智子は家でもビールなんかを飲むことがあるんか。かなり飲んでそうに見えるけど」私が注いだビールが膝に少しこぼれていたが、気にせずに貴洋は喋りかけてきた。

「そういえば飲むときもあるかなあ」私は答えた。

「そうやろう。それでどんな種類の酒を飲むんや」」

「ワインかな。お父さんが夕食の時に飲んでる。それをちょこっともらって飲んでるの。ビールはやっぱりお父さんが夏の暑い日の夕方なんかに飲んでるかな。それも少しもらうときがある」

「おおっ、これは頼もしいやんか。さ、どんどん飲んでくれ」

 私は貴洋の煽てにのってカップのビールを飲み干した。でも、初めの一杯ほど美味しくはなかった。

「ところで、去年とはえらい違いだなあ」賢一が口を開いた。

「確か、あの時も缶ビールを持ち込んだよな」貴洋は胡坐をかいた右膝に右手を置いて身体を乗り出すようにして言った。

「ああ、そうだった。本当にひやひやものだったなあ。顧問の先生がいたし、川にいつ冷やしに行こうかタイミングを見るのが難しかったなあ」

「トイレに行くふりをして川に冷やしに行ったんや。先生に気付かれてもええように」

「そして、皆がテントに入ってから取りに行ったなあ。消灯の時刻を過ぎていたので真っ暗な中で飲まなくてはならなかったし。あの時智子も飲んだよね」賢一は話しを続けた。

「ええ、飲んだわよ。でもびくびくしながら飲んでたから全然美味しくなかったし、缶が私のところへ回ってきたときは余り入ってなかったし、飲んだ気にはならなかったわ。ちょっとしたスリルを楽しんだだけよ」

「やっぱり顧問がいない方が良いか」

「当たり前じゃない。用心深いのは良いけど、何か事故があるといけないからって、顧問なんて口うるさいだけよ。良い人かも知れないけど、あれをしたらダメ、これもしたらダメって禁止することばかり」

「俺もそう思うわ。顧問がおったらこんなに楽しく食事ができるかあ。メニューを考える段階からうるさいし、作っとる時かて一々指示をしてくるし、食べてる時だけは一応静かやけど、終わったらすぐに後片付けやごみの始末なんかうるさいしなあ」

「しかし、俺たち三人がここに来ていることを知ったらびっくりするだろうな」

「もう、ひっくり返るんじゃない。血相変えて飛んで来るわ、きっと。おまえたち何してるんだって。面白いわね、想像するだけで」私は調子に乗って喋った。缶ビールを飲んだことで今夜は気分よく喋れる。少し酔ってしまったかも知れない。

「がみがみ言うだろうな。おまえら何故こんな勝手なことしたんだってな」

「そやけど、俺たちがここに来とることなんかわからへんやろう。まあ、今日は学校を休んでしもたけど、まさかこの三人が山に行っとるとは思わへんやろう」

「まず、この三人が同時に学校を休んでることが分からないんじゃない。三人ともクラスが違うし、貴洋なんて授業も持ってもらってないし」

「そうや。三人が同じ日に休んどることが分からへん」

「それに、もし三人が同じ日に休んでいることが分かったとしてもそれ以上は分からないわよね。山へ行ってるとは思わないでしょう。第一に受験間近のこの時期だし」私が喋っていると賢一が途中から割り込んだ。

「しかし、分からないぞ。俺たちがこんなことを話題にしていると相手の第六感を刺激して敏感にしてしまうことがあるらしいからな」

「それじゃ、話題にしてると顧問に気付かれるこたがあるかも知れないのね」

「そうっ」

「それじゃ、どうしたらいいの」

「顧問のことを話題にしなければいいのさ。話題にすると感づかれるかなってびくびくするようになるだろ。顧問のことは考えないことだし、見つかるなんてことも考えないことさ」

「そうや。顧問のことなんか話題にせんとこぜ。顧問の束縛から逃れるためにここまで来たんやで。飲み方が足らんぜ。さあ、もっと飲めよ」貴洋は持っていたカップのビールを飲み干した。賢一も残っていたビールを飲み干した。かなり飲んでいると思ったが、顔色は余り変わらない。それに比べると貴洋の方は顔が赤くなっていて陽気な感じがした。「それじゃあ、この話しは止めにしましょ。何か別の話題はないかしら」

「顔が少し赤くなっとるし、智子の今の言い方はちょっと色っぽいぜ」

「そうかしら」

「なあ、賢一」

「そうだなあ。確かにアルコールの入った智子はいつもと感じが違うな。何かギヤが早く回りだした感じ。テントの中もいいけど、卒業したら三人でスナックか居酒屋に飲みに行きたいね。智子はカラオケはどうかな」

「誘ってくれたら行ってもいいわよ。私、カラオケ大好き。その時までに練習しとくわ。二人も練習しといてね。そしてデュエットしようね」

 私たちはコッフェルの水炊きを食べながらいつの間にか持ってきた六本の缶ビールを全部飲んでしまっていた。そして水炊きががほぼなくなった頃、貴洋急に腰を上げるとテントの外へ出て行った。登山の紐を結ばないままだったのでどたどたと走っていく音がよく聞こえた。

「キジ撃ちや、もう我慢できへん」貴洋は大きな声で叫んだ。

 ところで「キジ撃ち」とは何かというと、これは登山者の間でよく使われる隠語でトイレに行くことを意味する言葉である。先輩から聞いた話によると大きなトイレをする姿勢がキジを撃とうとして鉄砲を構えている猟師の格好によく似ているからなのだそうだ。ちなみに女子の場合は少しお上品に「お花を摘みに行く」という。大きな方は「大キジ」と言い、小さな方は「小キジ」とか「水キジ」と言ったりする。他に「空キジ」、「キジ紙」、「キジ飯」等の派生語もあるが、それらが何を意味するかはここでは触れないことにする。

「俺もキジ撃ってくるか」賢一も腰を上げた。私もお花を摘みに行くことにした。一人で外に出るのは何となく怖いので二人が外に出ている時に一緒にすましておくのがいいと思った。特に夜は一人で外に出るより誰かと一緒に出た方がはるかに安心できる。

 ヘッドランプを頭に付けて私はテントの外に出た。火照った頬に外の空気が心地よい。ふらふらと歩くのも気持ちがいい。空を見上げると真っ黒な山のシルエットの上に欠けて弱々しい光を放っている月と星が見えた。しかし空はいくつかの雲に覆われていた。彼ら二人と反対の方向の藪を掻き分けると私は腰をおろした。この時期ではちょっとお尻が涼しい。山岳部に入って初めの頃こういったことをするのにはかなり抵抗があったが、二、三度経験してしまえば何でもなくなる。女子の先輩が平気でやっているのでびっくりしたものだった。今となっては天井のない場所でのびのびとお花を摘むのも良いと思うようになった。すごくさっぱりした気分になれる。

 キジ撃ちが済むと食事の後片付けをしなくてはならない。身体が温まってそのうえいい気分になっているのに冷たい川の水で食器を洗うのは辛い。水は結構冷たい。すぐに指先の感覚がなくなってしまう。食器やコッフェルを洗い終わると私たちはホエーブスの炎を囲んで冷たくなった手を暖めた。何とか手も温かくなると翌日の支度と就寝の準備をしなくてはならない。まずホエーブスの火を消す。圧力を抜いてやるとホエーブスは消える。貴洋はホエーブスを冷やすためにひとまずテントの外に出した。突然聞こえるのは川の流れる音だけになる。家の中から山の中に瞬間移動されたみたいだ。ここにテントを張っているのは私たちだけだということを改めて知らされる。文明の危機に囲まれた安全で快適な環境から無防備な世界へ放り出されたのだ。昔の人の心細さのようなものを感じてしまう。片付けが終わると蝋燭を消してヘッドランプの明かりだけを頼りに翌日の支度に取りかかる。各自の荷物はリュックサックに入れてテントの奥に積み重ねる。朝食に必要なものだけは食器の傍にまとめて置く。朝になってからでは大変なのでホエーブスが冷めたら灯油を補給しておく。そして燃料タンクとともに入口近くに置く。靴も入口付近に並べて置く。テントの中央を広く空けるようにして三人分のシュラフを並べた。私は真ん中の位置をとった。いくらシュラフに入っているとはいっても夜は結構冷える。そして、他の人のシュラフに接していない側は寒く感じる。二人に挟まれているとそれだけで端っこの寒さを感じないですむ。安眠を確保して明日に備えたい。ただ、一つのテントに男子と女子がごっちゃになって寝るのでは何か良くないことが起こるのではないかと想像する人もいない訳ではない。しかし、それは登山について無知な人のワンパターンの発想だと思う。私たちは何のためにここにテントを張っているのか。決してキャンプをして遊ぶためではない。山に登るためである。山に登るには十分な睡眠をとっておかなければならない。勿論、山岳部に入った頃はこうしたことに驚かされたものだが、顧問の先生も女子の先輩方も男子と女子が同じテントで寝ることを当然のように考えていたのですぐに慣れてしまった。変なことを考えるのは良くない。山では夏でも夜間は結構冷えるし、ことに冬などはシュラフに入った人間の身体が隣にあった方が暖かくて良いのだ。

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