第二話。唐突に、信じられないゲームをふっかけられました。
「ねえ、二番手君。ちょっと、ゲームしない?」
試合を三日後に控えた五月最後の水曜日。いきなり橘さんから、こんなことを言われた。
今日からは予行演習として練習場所と方法が少しかわっている。今いる場所は運動公園のグラウンドだ。
練習方法は正式ルールと同じく、百人が縦一列に並んで、一人目のスターターから順に百人目のフィニッシャーまで途切れずに走る方式だ。
「ゲーム、ですか?」
「そ、ゲーム。簡単なことよ」
そう前置きをしてから、橘さんはそのゲームとやらの内容を離し始めた。
「君がわたしのことを、キッカちゃんって愛称で呼べるかどうか。たったこれだけ」
「え、いや、その。なんですかその超ハードモードなゲーム!?」
後ずさりしてしまったのもむりはないだろう。同学年だって言うのに、ぼくは未だに橘さんに対しては、ですます調でしか話ができない。
そのですます調でさえおぼついてないって言うのに、愛称で呼べるかどうかだって?
「ああ、別にできなかったからってなにかあるわけじゃないよ。ただ、できたらいいことはあるかな」
「な……なんですか、いいことって?」
生唾を飲み込まざるをえない。いったい、いいことって……いいことって?
「できたら付き合ってもいいよ、わたしと」
まるで台本でもあるかのようにサラリと告げられた、でもうっすらと頬を赤くしての橘さんの言葉。
「……は?」
口と目がポカンと開いた。聞き間違いだろう。でも、一応だ。一応聞いてみよう。
「今……なんて申されましたか? わたしにはその。あなた様と付き合っても構わない、と。聞こえたのですが?」
ぼくの動揺著しい問い返しに対する答えは、
「ウフフ、アハハハなにその喋り方。いつもの比じゃないよ。アハハおっかしぃっ」
大笑いだった。
「ガーン……いつもの比じゃないって……」
「あ、アハハハごめん。崩れ落ちるほどショックだった?」
「太腿バッシバシ叩きながら言われましても、謝られてる気がしないのですが」
バシバシと自分を叩くたびに橘さんの、これみよがしではないものの、そこそこに目立つ上半身のふくらみが弾けるように揺れる。
ぼくが膝崩れになってるおかげで、角度と位置関係で自然と見上げたらそれが見えてしまったのである、けっしてわざと凝視しているわけではないのであるっっ!
「だって、いきなりそんな口調で言われたら笑うって。ふぅっ、お腹いたぁ」
「笑いすぎです」
ゆらりと立ち上がるぼく。正直に申しますと、下から橘さんを見上げる図は、ちょっとしたことで『揺れ』を拝めるのではないかと言う淡い期待を抱き続けられるので、立ち上がるのは非常に惜しいです。
「で、もう一回確認しますけど。付き合ってもいい、って。そう言ったんですよね?」
「うん」
「……あっさりと」
この爽やかイケメン女子。唐突にとんでもないいたずらを思いついた物である。そりゃ溜息交じりにもなる。
「いいんですか、本当に。それでもしぼくが、その……き、きっ……」
駄目だ、もしも話でも愛称で呼べないっ。
「愛称で呼べたら、こんなぼくと。付き合う羽目になるんですよ?」
「うん」
「……あっさりと」
この爽やかイケメン女子。唐突にとんでもないいたずらを思いついた物である。そりゃ溜息交じりにもなる。
「王子様は、いたずらがお好きなようで」
「三日後、試合の後にゲーム開始ね。楽しみにしてるよ、二番手君」
そういうとぼくの返事を待たずに、橘さんはぼくの前から悠々と歩き去って行く。
「ちょ、ちょっとまってっ。ぼく、やるなんてひとことも」
ガバっと体を反転して、彼女の蛮行を止めようとした。
ーーでも。
「今の意味深な微笑みはいったい……?」
やけに柔らかな微笑みだけを返答に、橘さんは本当に歩いて行ってしまった。
不覚にも、理不尽を押し付けられたって言うのに、今の笑顔に見とれてしまった。
「まってってb」
慌てて止めようと走り出したら、体重移動を間違えたのか、なにもないところでつまずいて。
「っ、いってぇ」
グラウンドの砂に思いっきり両手を突いてしまい、ザラっとした痛みに動きが止まった。
気を付けてねー、なんて笑いを含んだ声が少し遠くから聞こえてきた。……逃がしたっ!
「もしかして、あの顔。……やること、確定してるのかな? 橘さんの中で?」
強引だなぁ。でも、チャンスでもある。だからと言ってジャンプアップもいいところである。とはいえ、それはゲームに勝てた場合の話だけど。
愛称で呼ぶ? 橘さんを?
むりむり、できるわけないじゃないか。通常会話すら自然にできないぼくが、愛称で呼ぶなんて。
で、もし呼べたとしたらだ。たったそれだけのことで付き合ってもいいだって? ぼくが愛称で呼ぶなんてできないって、たかをくくってるなあのイケメン王子……!
「……バカにしてくれるよ」
知らず、右の拳を握り込んでいた。そんな自分に、自分で驚いた。
「ぼくに……反骨心が?」
あれ、そういえば妙に静かだな。人の気配がぜんぜんグラウンドにしない。
「あれ、誰もいない」
周囲を見渡してそのことに気が付いた。たしかにぼくは遅めにグラウンドから出るつもりではあったけど、橘さんと話してる間にみんなグラウンドを後にしてたらしい。
ん? と、言うことは、だ。
「ぼく。今の今まで橘さんと二人っきりだったのか?」
思い至って、そのことにまったく気づかなかった自分に苦笑。ゆっくりと歩き出した。
「もったいなかったなぁ。って言っても、二人っきりだからってなにがどうなるわけでもないけど」
ぼやきながら歩く。
二人っきりなことに気付かなかったかわりみたいに、橘さんには変なゲームをふっかけられたけど。
眉唾物だけど、あの橘さんと付き合える可能性が出た、か。ゲーム開始は試合の後。
忘れてはならない。絶対に。
*****
「ついに……この日が……」
試合当日、五月にギリギリ収まる土曜日、今の時刻は朝の9時。試合開始まではまだ30分くらいある。
試合会場はドミノラン強豪校の一つ。ここのグラウンドは、直線距離で400m以上と言う凄まじい広さがある。だから、ここは毎年ドミノランの試合に使われるらしい。
初めて来たぼくは、この広さに開いた口が塞がらない。
橘さんから妙なゲームをふっかけられてからの三日間は散々だった。
なにをやっててもソワソワ落ち着かなかった。それはドミノランだって同じで。
棚橋君からのバトン代わりのタックルを、いつもならしっかり受け止められるのに吹き飛ばされるようにして、三番手のランナーに文字通り体当たりしちゃってた。
棚橋君が試合に備えて気合を入れてるのはわかったし、試合様にいつもよりもっと力を込めた、本気の突撃で行くって言うのも聞いてた。
本気のタックルを受けたことはあったから、受け止められないとはぼくも思わなくって、だから本気タックルの練習を了承したんだ。
だから、最初はわけがわからなかった。なんでぼく吹き飛ばされてるんだろうってプチパニックになっちゃって。
目に飛び込んで来た三番手ランナーの背中がなんなのか、一瞬わからないぐらいだったし。
それを先生に見抜かれて、「二番目ちゃんとやれー」って相変わらずのグデーっとした声で注意されて、いい笑いものだったよ。
そんなぼくのせいで、ぼくを含めた最初の十人が、すぐに、走り直すことになった。
勿論、二回目以後はしっかり棚橋君の本気タックル、きっちり受け止めた。
で、そんなこんなと繰り返し、本日この時間を迎えたのだ。
「あのイケメン王子、なんてことを」
後頭部の後ろに、旗みたいに立ってる番号札を、邪魔臭いと思いながら小さくぼやく。
この番号札がないと、何番手が走ったのかわからなくなるからつけるのがルール。前の人にタックルしたら押し込んでゼッケンにする、
そうじゃないと結局何番手が走ったのかわかんなくなるからね。
「勝つぞ唐木田、今日はぶっ飛ぶんじゃねえぞ!」
バシィっと力いっぱい右肩を右手で叩かれて、思わず右肩抑えながら「いぃって!」って大声出しちゃった。
ぼくの呟き、どうやら気付かれてなかったみたい。よかった、正面でも気付かないぐらい棚橋君が鈍くて。
あのゲームのことはバレたくないからね。バレたらなに言われるかわかったもんじゃない。
二人っきりになってたってだけでもいじられそうなのに、その状況で、付き合う権利を賭けた愛称呼べるかゲーム、なんて物を強制的にやることになりました、なんて知れたら……。
いじられる通り越して嫉妬殺されかねない。絶対にバレるわけにはいかないんだ。
ぼくが感じるこの緊張感は、試合への緊張もあるけど、この愛称呼べるかゲームに関することと、それを今日試合後にやらなきゃいけないってことへの緊張もあるんだ。
正直なことを言えば、試合よりも愛称呼べるかゲームの方が比重が大きい。
「まずは試合に集中しよう。いったんこっちについては忘れるんだ……!」
「おお、気合入ってるじゃねえか唐木田。頼もしい限りだぜ。俺も、全力でぶつかっていける」
ぼくのほぼ声にならないボリュームの独り言、その口の動きをどうとったのか、
まだ試合前なので、向かい合ってる棚橋君が満足そうに頷いている。
ーーそのまま勘違いしててください、お願いします。