第一話。ぼくらの4m。
「練習始めるぞー」
抜けるような青空。運動するにもちょうどいい五月の放課後。
それと反比例したような、気怠そうな顧問の体育教師の声がグラウンドに響く。先生も五月病にかかるんだろうか?
他の部活の声が聞こえてるはずなのに、先生のそのひとことでぼくの耳はその他部活の音をシャットアウトにかかる。
耳には自分の息遣いしか聞こえない。静かで、だけど少し荒い緊張した呼吸の音。
ぼくの前には一人の男子、後ろにも男子が一人。前後でした少し地面をこする足の音に、一つ頷くぼく。
ピイイイイイ!
まるでぼくの頷きを待っていたような甲高いホイッスルの音と同時に、ぼくは身構える。
「いくぞ!」
そう声をかけられて、ぼくは息を止め全身に力をこめる。
後ろから力強い足音、それも素早く迫る足音。
「いけっ!」
そう言われるのと同時、ぼくは背中に激しい衝撃を受ける。そして、そのまま、押し出されるように走り出す。
ぼくはこの、400mを4mずつ百人で走る直線400mリレードミノラン、その二人目のランナーだ。
「いきます!」
一人目がぼくに声をかけたのと同じように、ぼくも三番目のランナーに声を書け、そしてベストなタイミングでっ、
「だぁっ!」
前のめりになるようなかっこうで、前のランナーへと倒れ込むようなショルダータックルをしかけ押し出す。
「ふぅ」
行進の止まりそこないみたいに、反動で何歩か前に惰性で走って止まり、一息。そうした間には、既に四人目のランナーが走り始めている。
僅か4m、されど4m。ドミノランのランナー百人は、各々がこの一瞬に全神経を注ぎ込む。
この競技の名前の由来は、次々に人がぶつかっては押し出される様子が、ドミノ倒しみたいだからなんだって。
たしかにそうだなって、初めて聞いた時はクスっとしたよ。
「息整えとけよ唐木田、まだ練習始まったばっかだからさ」
「な」と後ろから肩を叩かれる、驚いてビクってなっちゃった。
ついでだし名乗っておこうかな。ぼくの名前は唐木田康樹。身長が160cmって小柄で声も自分で不思議なくらい高温で、更には人見知りって言う絵に描いたような草食系男子。
たった4mだけ走ればそれでいいからと、軽い気持ちでドミノラン部に入部した。
1チーム百人なんて言う凄まじい数が必要なのに部活として成立できてるのは、ぼくと同じように軽い運動として入部したところから始まった人が多いんだろうと思う。
だけどぼくは実際やってみたら、その一瞬に必要な技術に驚いて、そして面白くなって今に至る。
他の人の中には、百人未満になるとチームとして存続できなくなるからって、続けることを頼まれてる人もいるかもしれない。
うちの学校には、400m直線で用意できる広さがグラウンドにないから、簡易練習として十人を一組として走り込んでいる。それを十組み一サイクルで行うのが普段の練習。
横並びで三組ぐらいいっぺんに走れれば、組毎の走る回数も多くできるんだけど。生憎他のスポーツ部活スペースとの兼ね合いで、一度に走れるのが十人分なのである。
ーーはっきり言うとこのドミノランって競技、その練習は出番が終わってからまた出番が来るまでの間、凄まじく暇なのである。一瞬でやることが終わってしまうので、次走るまでの待ち時間の方が遥かに長い。
だから手持無沙汰解消に、屈伸運動してみたり腕を回してみたりと、簡易なラジオ体操みたいなことをやって時間を潰している。
「ところでよ唐木田?」
ぼくにタックルをしかけた、我が校の男子ドミノランスターターの棚橋君。
身長はぼくより10cm以上高くて筋肉質な体付き、
短く刈り込んだ頭が、時代を二つぐらい飛び越えて来たんじゃないかってぐらいの体育会系な見た目の男子だ。
「なに、棚橋君?」
そのニヤニヤ顔がめんどうフラグだなぁってわかってるけど、答えないのもいけないし、しかたなしに相槌する。
「お前、女子スターターの橘のこと、好きだろ」
なんの脈絡もなく、それも確信を持った言い方だ。
「えっ、い いいいいきなりなにいいだすんだよっ?」
顔が熱い……。暇に任せてからかうんだからこの人は。
ほら、大笑いしてるし……。
「やっぱりなぁ、あんなあからさまにじぃーっと見てりゃ流石の俺にだってわからぁな」
「頭が悪い自覚があるんなら、ちょっとは勉強に集中力向けたらどうなのさ?」
小声でこそっと突っ込む。売り言葉に買い言葉できないぼくです。だって、後が怖いから。
「いやーむりむり、教科書ってのはどうにも見てると眠くなっちまってさ」
悪びれもせずにそう言う棚橋君……大丈夫なのかなぁ、この人の将来。いや、それどころか小テストだって怪しい。
それより聞こえてたことにびっくりした。地獄耳だなぁ。
「お、そろそろ二週目だな。もっかい準備運動しとけよ」
「あ、うん。わかった」
そうして本日二本目の4mダッシュ……いや、助走付けた体当たりを、準備運動しながら待つぼくなのであった。
***
「男子はここまで、次に女子。並べー!」
五回分のドミノランを終えたところでの先生の一声。周囲から疲労の息が漏れる。
その表情は一様に安どしたように見える。かくいうぼくもそんな顔だ。
一回の運動量が4m分でも、激突し激突される競技の性質上、緊張感はひょっとしたら他の陸上競技より上かもしれない。
周囲からお疲れさまでしたと言ってるはずの、オッカレッシャーみたいなよくわからない言語が飛び交った。体使う部活の男子って、どこでもいっしょなんだろうか? といつも思う。
こういうズルっとした言葉って野球部の専売特許なイメージなんだけどなぁ。
「おい、どうするんだよ草食系? 女神様の走りを眺めて行くのかい?」
「ニヤニヤしないでよもう」
「お疲れ、二番手君。今日もよく響く声だったよ」
そう声をかけて来たのは……かけてくれたのはっ。
「た、たたっ橘さんっ?! あ、あの。お疲れ様です。がんばってくださいね」
ぼくの憧れの人、我が校女子ドミノランスターター、橘華さん。しどろもどろになるのも当然なのだっ。
「んもういつも硬いなぁ。もっと普通に話せばいいのに」
笑ってる。笑われてる……苦笑いされてるっ!
「けどありがと、言って来る」
そう爽やかな風を纏ったまま、橘さんは小走りで駆けて行く。黒髪のポニーテールも爽やかに揺れている。
ぼくのショックなんてどこ吹く風だ。
「いやーほんっと、あいつ爽やかイケメンだよなぁ。女なのがもったいないぐらいだぜ」
「なに言ってるんだよっ、女子だからこそいいんじゃないかあの爽やかさがっ!」
「おお、食いつくなぁ」
ニヤリの棚橋君。しまった……つい勢いで言い返してしまったっ!
「さぁて、お邪魔な俺さんは退散しましょうかねぇ。クックック」
「お邪魔ってなに?」
ニヤニヤを崩さない棚橋君が不気味で、ちょっとリアクションがおっきくなっちゃった。
「さてねー。んじゃ、オッカレッシャー」
ぼくの返事も待たず、棚橋君は背中を向けて歩いて行く。
「なぁんでいっつも、ドミノラン花形のスターターの俺じゃなくって二番手の唐木田にだけ声かけるんでしょうかねぇー」
なんて、完全にわざとな独り言を言って去って行く。
ドミノランの花形はスターターだけじゃないんだけどね。出だしが花なら終わりも花。百人の始めであるスターターはいやでも注目を浴びるし、その逆 百人の最後の一人のフィニッシャーポジションも注目される。
正直、それ以外の98人はフィニッシャーをゴールに叩き出すためのアイドリングだ。モブランナーって言い換えてもいい。
それでも、一人目が適切な力加減で二番目を押し出して、その力を殺さずに更に二番手の力を上乗せした威力で、三番手を押し出して、
っとこれを繰り返すわけだから、モブと言えども技術がいるのだ。
一人の走る距離が短すぎて、たぶん観客にはなにも考えずにタックルしてるようにしか見えないだろうけど。
「ニヤニヤを去り際まで崩さないなんて……なにを言わんとしてたんだろう、棚橋君は?」
ぼくをからかう時だけは、頭が働くんだよなぁ棚橋君。でも、ぼくには今のからかいの意味が理解できなくてからかいとして成立してないんだけどね。
と、相槌でも打つようにホイッスルの音。はっとして、ぼくは女子ランナーを……言ってしまえば、橘さんをしっかりと視界に入れる。
一瞬の走りを見逃してはならない。
クラウチングスタートの体勢になった橘さん、なにか口が動いてるけどこっちまでは聞こえてこない。
二番手の娘が頷いてるってことは、たぶんぶつかるタイミングの話なんだろうと思う。
「やあああっっ!」
気合の入った声、それの終わりと同時に二番手さんを押し出すと、ふぅっと一息ついたように左手で軽く前髪を書き上げた。それにぼくの鼓動が一拍、激しく鳴った。
「橘さん。今日もかっこいいなぁ」
橘さんにキャーキャー言う女子たちの気持ちがわかる。棚橋君の言う通り、まさにその動きも振る舞いも爽やかイケメンだ。
今走ったのだってそう。足音は軽やかで、棚橋君のいかにもパワーで弾き飛ばすような重たい足音とは違う。おそらく力をこめるタイミングも違うんだろう。
その風のような軽さと、その動きの早さ フォームの綺麗さにはいつも見入ってしまう。
それでいて、ぼくみたいな草食系男子の、ドミノランナーのモブ筆頭である二番手にもさっぱりと声をかけてくれる。
おまけにぼくと違って、二回目に走るまでの間、前の女子と話をしてる。ここまで正反対なぼくに……、どうしてぼくなんかに声をかけてくれるのかわかんない。
だからこそ、ぼくはいつも橘さんに話しかけられるとあわあわしちゃうんだよね。
でも遠目に眺める限りは、緊張も しどろもどろもしない。
そんなこんなでまたぼくは、女子練習が終わるまでのドミノラン五回分、橘さんを見てしまったのだった。