アダムとヴィンセント
実在する人物特集。前の話と繋がっている。
とある草原で、アダムはころん、と寝転んだ。ニコラスでもいれば、土で汚れるとかわあわあと言ってきそうだが、幸い、ニコラスはここにはいない。それに、土で汚れるくらい、アダムにはどうってことはなかった。
緑の草原から見上げる空は胸の透くような青。アダムはオレンジ色の髪をしているから、なかなかに絵になる構図かもしれない。
頭の後ろで腕を組み、考える。
「俺もそろそろ、色々しっかり考えねぇとな」
絵を描くのが、夢だった。
それは本当に物語の世界のような本当に夢のような話であったが、アダムは絵を描くのを夢見ていた。絵本の挿絵。エネルギー還元なんてどうでもいい、子どもの好奇心をくすぐるような、誰かを楽しませるような。アダムにとって、絵はそれだけで意義があるものだった。
ただ、ルカ、ニノン、ニコラスと旅をして、色々なものを見たし、色々なことを経験した。その経験した自分が語るのだ。「お前は今のままで絵を描き続けて意義があると思えるのか」と。
絵が好きだ。絵を描くのが好きだ。それはおそらく永久不変のアダムの中の真実だと思う。きっと、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが絵を描くことをやめなかったように、自分も絵を描くのは何があっても懲りずにやっていくのだと思う。ずっとそうであったように。
ただ……先日、偶然にもゴッホの話になったときにルカがこぼした本音というか、信念に心を揺さぶられたのだ。それから思った。ルカが絵画修復に抱く信念のように、自分にも信念が欲しいと。信念を語るルカの姿が眩しかったのかもしれない。ちょっと羨ましかったのかもしれない。とにかく、アダムは自分の根っこのようなものが欲しかったのだ。
「あーっ」
空を仰いで、一人で考えても埒が明かず、アダムは一人で唸り、頭をがしがしとかきむしり、苛立ちのままに半ば八つ当たりで、手近な草の根を引っこ抜いた。ぼさっとした根に土がついてきて、ぱらぱらと落ちていく。
雑草は少し引っこ抜いたくらいでその命を絶やすほど、やわな存在ではない。そんなことは知っている。が、なんとなく、アダムは草を元の位置に戻した。なんて意味のないことをしたのだろう、と猛省した。
はあっ、とアダムの吐いた盛大な溜め息が辺りに響く。ここには誰もいないから、誰もアダムを茶化すことも慰めることもしない。故にアダムは孤独だった。
何も答えてくれない空を見上げたって、どうしようもない。自分は自分で、それ以外の何者でもないし、何者にもなれない。悩んでももうどうしようもないんじゃないか、と思った。
自分は絵を描くのが好き。それだけで充分じゃねぇか、といつも通りのアダムは呟く。
ただ、どこに潜んでいたのか、楽観を阻むアダムがいて、それじゃだめだと思ったからここにいるんだろう、とたしなめる。
いつまで傍観者でいる気だよ、と脳内で自分が囁いた。
そう、アダムはこれまで、どう足掻いたって傍観者だった。けれど、ルカやニノンやニコラスと一緒に旅をして、サロン・ド・コルシカに絵を出して、何か違うと思ったはずなんだ。その違和感の正体を掴むために、アダムは今、ここに一人でいる。
土に汚れた手を掲げた。
「あー、何やってんだろ、俺……」
今までががむしゃらすぎて、特に何も考えてこなかったような気がする。そりゃ、考えることは考えたが、自分のことはずっと棚上げだった気がする。だからこう、心がもやもやするのだ。
俺にはルカが絵画修復に燃やすような信念や、ニノンが背負う能力や、ニコラスが秘める何かのようなものがない。ない方がいいのかもしれないが、そういうものを持たないせいで、俺はあいつらに壁を感じている。
土に汚れた手をぐ、と握りしめ、それから起き上がった。軽く土を払うと、見るともなしにひまわりを見た。ただそこに咲いているだけのひまわり。偶然だろうとは思った。
ふと、ゴッホのことを思い出した。
ゴッホの代表作はひまわりだ。ゴッホは絵描きとして過ごす中で、ひまわりに救われていた時期があった。確か、アルルにゴーギャンと住む頃だったか。アルルで住んだ家のことを「黄色い家」と呼んでいたのだとどこかで聞かせられた覚えがある。黄色。ひまわりの色だ。
「まあ、歴史的偉人と自分を比べるのも、おかしな話か」
そう、自分は自分。どう足掻いたって、ゴッホにもゴーギャンにもなれないだろう。だが、その分、アダムには自分の絵というものがあって、それは一応評価された。ゴッホと違って。
だが、それはアダムの望む評価ではなかった。アダムは悩んでいた。ルカと一度ぶつかり合ってから。あれを経て、自分も一皮くらい剥けたんじゃないかと思ったが、違った。
サロン・ド・コルシカに出したのは自分の意志だ。だが、結果的に、ルカの言う通りになったのではないか? ──サロン・ド・コルシカに、自分の絵を出すべきではなかった。絵の展覧会に、自分の絵は向いてない。──もっと深く、その意味を考えるべきだった。
あんなことをしなければ、ルカはとんでもない目に遭うことはなかっただろうし、誰も傷つくことはなかった。エリオを取り戻せたのはいいが、それだけだ。
あの展覧会で、アダムは何人を傷つけたのだろう。そしてその資格もないのに、自分は傷ついたのだろう。
それでも。
「画家に一番に寄り添うのは、今の時代なら、絵画修復家だと思う」
ルカはテオドール・ヴァン・ゴッホのことを例えにそう評した。
──もし、俺が、画家というのなら、それが言い過ぎなら、絵描きというのなら。
修復家であるあいつは、俺の絵に寄り添ってくれるのだろうか。
初めて描いた絵本を笑顔で受け取ってくれたコニファーの笑顔が脳裏をよぎる。それから、絵本の物語を書いてくれて、いつか絵本作家になろう、と言ってくれた、アシンドラ──
……俺にはちゃんと、大切なものがある。コニファーとベルのために孤独に咲くひまわりを黒く塗り潰す決意をしたエリオのように。
共に旅する仲間もいる。そいつらだって、大切だ。
ひまわりは青い空を向いていた。釣られてアダムも空を見上げる。
それは胸の透くような、青い青い空だった。
「……何悩んでたんだろ」
アダムは立ち上がった。ズボンについた埃を払う。
ひまわりは太陽を向いて咲いていた。美しく、神々しく。
けれど、アダムはかつてそのひまわりにのみ救われていたゴッホとは違う。アダムは孤独じゃない。ゴッホは勘違いをしていた。ゴッホも──ヴィンセントもまた、孤独ではなかったのだ。
ずっと傍らで誰に白い目を向けられようと、支え続けてくれた弟がいた。ヴィンセントはただ、それに気づけなかっただけ。弟を信じきれなかっただけ。
ひまわりは、孤独なんかじゃない。本当は太陽に等しいその輝きに気づいていなかったんだ、ヴィンセントは。
「……俺はさ、前に進むよ。ヴィンセントさんよ」
アダムは宣言した。
自分にはヴィンセントと同じように、自分の絵を好きだと言ってくれる人がいる。数奇な運命ばかりに振り回されるやつだが、そいつはきっと、俺を裏切らない。その思いを、俺は知った。
「あー、やっぱ、うじうじ悩むのは性に合わねぇや。俺はあんたとは違うんだ。ヴィンセントさんよぉ」
ひまわりをちょん、とつついた。
「俺は最後までルカを信じてみるよ」
そう告げると、アダムはその場を後にした。
日が傾いて、太陽を見つめるひまわりは、少し頷くようにその首を垂れた。