ニノンとバンクシー
絵画をテーマの一つにしている作品なので、一石を投じてみます。
うわあ、と街を歩いていたら、ニノンが壁にぶつかった。何やってんだよ、とアダムが呆れた声を出し、ニノンの方を見る。それから、息を飲んだ。
その壁には奥まで道に見えるようなリアリティーのある絵だった。悪戯にしてはクオリティが高い。
「ニノン、大丈夫?」
ニコラスが額を強かにぶつけたニノンを心配する。そんな傍ら、ルカがしげしげと壁を見つめて呟いた。
「……バンクシーだね」
「バンクシー?」
ニノンが疑問のこもった目で顔を上げる。すると、ニコラスは一瞬、苦々しい表情になった。
一方、アダムはかなり訝しげだ。
「これがあのバンクシー? 普通、どんだけ考えてもバンクシーは死んでんだろ」
そう、バンクシーは絵画エネルギーが発見される遥か昔に世界中を渡り歩く神出鬼没の絵描きとして有名だ。だが、それは遥か昔のこと。
でも、とルカが続ける。
「バンクシーは複数人説もある。その複数人によって、受け継がれている可能性だって、なくはない」
「実際、こういう風に絵が残っているくらいだからねぇ」
ニコラスがはあ、と溜め息を吐いた。
その溜め息の理由を追及する者はない。ニコラスは一人、語り始めた。
「またか……」
ルーブルにて。外壁に見事なまでの落書きがされていた。それも並大抵の落書きではない。
「……バンクシーね」
「はあ。世界のルーブルに挑戦的なことをするやつがいたもんだねぇ」
ルーブルの各翼長が、溜め息を吐いていた。
絵は太陽の絵を人々が取り合って引き千切っている様子。太陽はエネルギーの象徴だ。それが破ける様子とは、不穏な場面を描いた絵だが、それがあのバンクシーならあり得る。
絵を使ってエネルギーを供給するルーブル。これはかなり皮肉めいている。
「困るのよねぇ。こういう落書きは、エネルギーに還元することができないから」
「壁壊して持っていけばいいんじゃないの」
「ここがこの施設の外壁だとわかっていて言ってる? 修理費用だって、かかるのよ」
「まあ、そうだけどよぉ? バンクシーはまあ、一面から見ると落書きばかりする傍迷惑だが、別な一面から見ると、世界的な画家ってことになる。そんな偉大なる画家さまの絵をどうするんすかねぇ。ルーブルとしては」
無言のうちに意見を求められた人物は、低い声で答えた。
「洗っておけ」
「だとさ」
「はぁい」
誰もが不服そうだった。まあ、絵であるならばエネルギーに還元したいのは今となっては当然のことだ。だが、ルーブルの外壁破壊は躊躇われる。そんな研究員たちの心理を見事に衝いた奇策である。
「……バンクシーの絵がAEPに還元できないのはどうなの?」
「どうとは?」
「好ましいことなの?」
さあ、と肩を竦める。
「今までバンクシーの絵を還元した例がないからな」
「まあ、そうね。ただの壁画なら修復もできるんなら、困らないのだけれど」
「バンクシーの絵は最近では水性の塗料が使われているらしいからな。雨であっという間に消える。今や幻の作品と呼ばれているらしい」
「実際、私が見たのも初めてだしねぇ」
「絵画エネルギーが発見されてから、バンクシーは明らかに落書きを減らした。だが、こうしてここに何度か描かれていることから見るに、バンクシーは存在する、と見て間違いないだろう」
「まあ、ルーブルも壁だけなら警備はそんなじゃない」
そうね、と一人が言う。
「何せ、シリアの戦場で絵を描いたという偉業まで成し遂げているからねぇ」
バンクシーは神出鬼没、そして複数人であるという説があるのはこのためだ。
そのアイディアも社会風刺をしていたり、平和な未来への願いが込められていたりと様々ある。
その頭角を表してから、随分と長い年月が経つというのに、バンクシーが存在するということは、やはりバンクシーというのは団体の名前で、生き残りがいるから、という説と、バンクシーの子孫や継承者がいるのだろうという説とがある。
太陽の絵が人々によって引き千切られる絵。やはり、そこにはバンクシーが込めた何かが眠っているはず。
だが、この絵画エネルギー時代、バンクシーの絵に求めるのはエネルギー還元率であり、メッセージ性ではない。
それがルーブルの選択であった。
「という噂を耳にしたことがあるわ」
「わりと明確に知ってるな」
アダムの指摘にニコラスがたまたまよ、と苦笑う。
ニノンがぽつりと呟いた。
「……っていうことは、この絵も、雨に濡れて消えちゃう?」
「気づいた誰かがこの壁をひっぺがしてルーブルに提出でもしない限りは無理ね」
それはないだろ、とアダムは即座に否定し、壁を示す。
その壁は民家のものだった。住人が承諾していないのに、その所有物を破壊することは犯罪になりかねない。譬、それがルーブル相手でも、変わらないだろう。ルーブルが無理矢理にでもこの壁を破壊したならば、法で裁かれなくとも、市民からの心証はよくなくなるにちがいない。
とにかく、とニコラスがまとめる。
「あのバンクシーの絵が見られたというだけでも奇跡的ってことよ」
「……それにしても、不思議な絵だね」
リアリティーのあるどこまでも続くような薄暗い路地の絵である。もし、これがバンクシーの作品であるとして、バンクシーはここにどんな思いを込めたのだろうか。ニノンはじい、と絵を見つめた。
が、答えは出ない。むむむ、と眉間の皺が増えていくだけである。
ニコラスがやれやれ、と自分の解釈を口にした。
「今、AEPによる電力供給も、とても安定していると言えたものじゃないわ」
確かに、計画停電をしないといけない。電力が安定して賄えているとは言えないだろう。少なくとも、火力発電時代などに比べれば、違いはよくわかる。
まあ、火力発電も資源が有限だったからこそ、絵画エネルギーという新しいエネルギーが必要とされたわけではあるが。
「これはもしかしたら、絵画エネルギーに頼った世界の未来を表しているのかもしれないわね」
「まあ、ルーブルも色々、怪しいところがあるからな」
アダムは呑気に言っているが、事態は思うより深刻かもしれない。
バンクシーは一画家として、世界に何かを訴えかけたいのかもしれない。
「絵は消えても、人の記憶には残るよ」
それまで黙っていたルカが喋った。
「それが絵っていうもので、僕たちはそれを何度も見てきた」
「……そうね」
静かにニコラスが同意する。
それから、ぱんぱん、と手を叩いた。
「さ、深刻に悩むのはここまで。今日の宿を探さないとね。今日は雨の予報だったから」
「そういえばそうだったな」
アダムがラジオを思い出す。するとニノンがえっと声を上げた。
「じゃあ、この絵は今日、消えちゃうってこと」
「そうなるわね」
ニノンはバンクシーの絵に触れた。
「……すごい絵なのになあ、勿体ない」
ニノンが何を見たのか、一同は知らない。
ただ、雨が一滴、ぽつりと零れてきて、一同は急いで宿探しに戻った。
果たして、このバンクシーが残した絵を見た人物は何人いて、何人がその意図を汲もうとしたのだろうか。そのことを誰も知る由はない。
ただ、ニノンがきゅ、と胸元で手を握りしめた。
バンクシーとは?
バンクシーは世界的に有名となりつつある、謎の覆面絵師です。壁などへの落書きのようなスタイルで絵を描いていくことが特徴で、その絵には社会風刺などのメッセージ性に富んでいて、世界から注目を集めています。
シリアの戦場の中、壁に絵を描いたのも実話だそうです。
バンクシーは一人なのか、複数人なのかは意見が分かれるところですが、いずれ、バンクシーの名がどこかで途絶えようと、コルシカの世界観ならバンクシーのような存在が現れるのではないかと思い、このように書いてみました。
皆さまも、興味が湧いたなら、是非バンクシーを調べてみてください。もちろん、さかなさん作の「コルシカの修復家」もよろしくお願いいたします。