何故価値を求めるか
ニノンとニコラスに教えられたホテルにやってきて、ルカはロビーで頭を巡らす。ベルの白髪を探した。あんな印象深い人物、見失う方が難しいのだが、少し目を放した隙にふっと姿が見当たらなくなってしまったのだ。
「こんにちは」
「!?」
突然、後ろから声をかけられ、ルカは弾かれたように振り向く。背後にいたのは、ものすごく背が高く、がたいのいい黒い肌の男性。
「え、と、こんにちは」
「きみが、あの子の話していた絵画修復家さんかな」
「……あの子?」
挨拶で声をかけられたのかと思ったが、どうやら違うようだ。黒以外に表現のしようがない色合いの目で、男性はルカをじっと見つめる。表情筋が死んでいるのでは、と思えるくらい、ぴくりとも変化のない黒い顔が、じっとルカに真っ直ぐ固定されている。
「ベルと名乗ればわかるだろうか。血の繋がりはないが、俺はあの子の親でね」
「そうなんですか。……苗字だったんですね、それ」
男の子につけるにしては愛らしい名前だとは思っていたが、ファミリーネームというなら納得だ。
ただ、驚くほどあの商人とこの男性は似ておらず、言われないと、親子とはわからないだろう。
「それで、俺に何か?」
ベルから何か聞いたのはわかったが、こちらの黒い男性とは今が初対面だ。興味を持たれる理由がわからない。
「絵画というものの価値について、修復家としてのきみはどう考える?」
それは、初対面で聞くにはあまりに唐突で、なかなか踏み込んだ質問だ。けれど、絵画をエネルギーとして消費する時代、常に頭の隅に置いておくべき疑問でもあった。
「それを聞くのは、あなたも商人だからですか?」
「ああ。それに、俺はずっと考えている。自分に持てる価値は何だろう、と。
絵画がエネルギーとなり、人々の生活を支える時代、絵画を生み出すことができる人物は『価値がある』と言えるだろう。高いエネルギーへの返還率を出せる絵を描けるのなら、尚更。
——けれど、それだけが価値か?」
白髪のベルとは異なる方向性で、この黒い男性の声は耳に残る。彼の言葉はただの文字の羅列という以上に、深い意味を持って感じられた。
過去、絵画を「芸術」として楽しむための施設「美術館」が存在したというのは、聞いたことがある。絵画エネルギーが発見されておらず、必要もなかった時代において、絵画の価値は当然、今と違ったはずだ。
人はいつだって、進化と共に変化を求められる。その変化に良し悪しは問われない。けれど、物の価値を測る尺度として「良し悪し」以外の基準が存在せず、蟠ってしまう。それは人間の長所であり、短所だ。
絵画の価値の変化は、良いものなのか、悪いものなのか。旅の中で、ルカたちの前に幾度も立ちはだかった問いだ。ルカは答えの輪郭が見えてきたような気はするが、まだ、断言をできない。
答えないルカを責めることなく、黒い男性は続けた。
「きみの旅の同行者は、面白いことを言うようだな。処理をして出力し直した絵は、元の絵と同じと言えるのか。確かに、あの子がやろうとしているのは、『作品の品質を落とすことになっても、不正使用を禁じる意を前面に出す』ことにした作家の意図を完全に無視する行為だ。『作家』の意図を無視した加工を施して、元の絵のままというのは苦しいだろう。けれどね、修復家さん。それはきみにも同じことが言える」
「なぜですか」
「どれだけ科学的に分析して、論理的に最もあり得る可能性に則ったとしても、人の心は科学的でも論理的でもない。修復結果が本当に作家の意図した通りかは、作家本人に聞かないとわからない。気遣いはあっても、正しいとは限らないのなら、ノイズを取り除くのとやっていることは同じだ」
屁理屈、と切って捨てることはできる。
ルカは、六十年かけて作られた夕暮れの絵を修復した。あれは作家の意図を汲まねば完成させられない修復だった。あれが「正しくない」のなら、何が正解というのだろう。
けれど、サロン・ド・コルシカの際に依頼された絵画と修復結果を思い出す。ルカが修復家としての信条を通した形になったが、作家本人からの修復依頼で、依頼人の望み通りにならなかった一件である。その部分だけを表すのなら、ルカがあのとき行ったのは「作家の意図を無視した修復」だ。
自分は正しかったと断言できる。それでも、依頼人の、作家本人の願望を無視したことに変わりない、と言われてしまえば、それまでの事実なのだ。
「きみは、どう思う? きみは、何を目的に絵画を修復する? 自分の信条、自分の行動に、価値は生まれると思うか?」
「価値、ですか」
「ひとは価値を得たがる。価値がなければ、生きていてはいけないから」
「そんなことはないです」
「ああ。『価値なんてなくてもいい』と道徳の教科書は言ってくれるだろう。だが、実際はそうじゃない。人々は蔑ろにしている自覚すらないだろうが、価値を生まない人間を、人は評価しないんだ。貶すわけでも、貶めるわけでもない。ただ、存在の認知すらない」
ルカが息を飲む。
「せめて、存在くらいは感じていてほしいだろう? だから、価値を生もうとするんだ。絵画なんて、その最たるものだろう。今は高いエネルギー返還率が価値になるのだったか。
価値あるものになりたいから、人は価値あるものを生み出そうとする。それなら、価値ってなんだ? きみの持つ答えを教えてくれ」
きみは、価値のある人間だろう? ——そう問いかけてくる真黒い目が、ルカをまっすぐに射抜く。
価値のある人間。価値のある絵画。価値があるから、直すのか? そこに価値があると信じるから、依頼を受けるのか?
価値がなかったら、直さないのか。
どれも、何かずれている気がした。
「あなたの言う価値は、人から与えられるもののことばかりを言っています。でも、俺は、価値なら、自分で見つけたい」
筆を執るのは、衝動があるから。人を突き動かす衝動。動かされてしまうのは「価値があるから」ではなく、「価値を感じたから」だった。
今まで出会ってきたいくつかの修復は、そうだった。ボードレールの踊り子も、星空に隠した天体図も、笑顔の下の泣き顔も、価値の有無は関係なかった。修復家は仕事だから、賃金は発生するし、引き受けたからには、成し遂げねばならない。それでも修復を完成させるのは、
「絵画にはかつて、芸術として価値があった。それがどんな価値だったのか、具体的には知らないけど、俺は知りたいです。俺が絵画を修復するのは、エネルギーとしての価値を生むというより、絵画に人が込めた価値を、共有したいからです。誰かが価値だと思ったものを知りたい。誰かが、画家が、描くことで共有しようとしたものを知りたい。そうして自分を動かす衝動や感情こそが、価値なんだと思います」
きっと、アニメもそうだったのだろう。
贋作や盗作とは異なる「二次創作」という文化が日本のイラストレーション文化を著しく発展させた。アニメの魅力をもっと多くの人に知ってほしい。そんな思いが生んだ文化。それはまさしく「価値の共有」である。
ルカは詳しいわけではないが、同じじゃなくても、伝えられると信じたから、イラストを描いたのだろう。
ノイズを入れても「素敵だ」と伝わると、信じたから、人はイラストを掲載した。
「……なるほど」
黒い男は頷いた。
「価値の共有、か。確かに『誰かに肯定されたい』という思いの根本は、それなのだろうな。問いかけはしてみるものだ」
納得をしてもらえたようで、ルカは軽く息を吐く。緊張していたらしく、息を吐くと体の強張りが解けたような心地がした。
「……そう、共有。優しい考え方だ。押しつけがましいこともない。『わかってほしい』を具体的に表す言葉。……俺一人では、見つけられなかった答えだ」
「一人だったら、俺も見つけられなかったと思います」
一人だったら、絵画修復に掲げる自分の主義に疑念が生じても、胸を張って自分は正しいと断言できなかったかもしれない。向き合う時間を端折ったりして、疑念を解消しきれないまま、不完全燃焼な仕事ばかりを積む人間になっていたかもしれない。
寄り添って、時にぶつかって、目を向けなければいけないものの正体をルカに見つめさせてくれたのは、ニノンやアダム、ニコラスだ。
旅先で出会った絵画や人々との交流が、様々な課題や問題を提示していった。ルカ一人では思い至らなかったことも、たくさんある。
それらとの出会いが何一つとして無駄ではなかったと言えるのは、きっとニノンたちと一緒だったからだ。
ふと、疑問が生じる。
「あなただって、一人じゃなかったのでは? ベルさ」
ルカは続く言葉を飲み込まざるを得なかった。
黒い男は煙のように消えていたから。




