あなたの背中の矢
ルカはミアを庇いながら、絵画の修復を進めていく。
「ミアは、元の絵を知ってるの?」
「ううん。パパはミアが生まれるうーんと前からこの絵を持ってるの。リュカお姉ちゃんとリュカお姉ちゃんのママに似てるんだって」
リュカ。執事がルカのことをそう呼んでいたのを思い出す。だいぶ、点と点が繋がってきたような気がする。
執事が「リュカお嬢様」と呼んでいたことから、リュカというのはこの屋敷の亡くなったという娘さんの名前なのだろうと推測できる。濡れ羽色と呼ばれるほど美しいとされる日本人の黒髪は日本人だけの特徴だと、ルカも知っていた。リュカの母が日系人だったことは想像に容易い。
だが、ルカの手元にある情報だけだと、ミアが何者なのかがわからない。リュカの妹だったのなら、何故執事はミアを娘に含めなかったのか。
その理由が、ミアの傷ついている理由にある。ミアはふらふらとしながらも、ルカの助手をしてくれている。あれだけ「ルカだけに」作業させることに拘っていた執事が何も言ってこなくなったということは、ミアは疎ましい存在であるものの、例外的な、「リュカお嬢様」に近しい存在なのだろう。
もしくは、病床の屋敷の主人が、何か命令を出したか。
「長い作業になるけど、ミアは休まなくて大丈夫?」
「大丈夫。運命の人のお手伝い、する」
運命の人、とまた言われ、ルカは心の中でずっこける。……さすがに聞いてもいいだろう。
「その運命の人って何? リュカさんと何か関係があるの?」
ミアはきょとんと目を丸くしてから、首を横に振った。
「リュカお姉ちゃんがね、言ってたの。わたしが、将来結婚するならリュカお姉ちゃんがいいって言ったら、『それなら、黒い髪で青い目の日系の男の子がミアの運命の人ね』って」
幼いミアはそれを真に受けたらしかった。けれど、ミアは語りながら、苦笑する。
「あは。でも、そんなの、あるわけないよね。わたしはお嬢様じゃなくて、お道化て物乞いするピエロだもん。……知ってたよ。何がどう間違っても、わたしはリュカお姉ちゃんと結婚できないことも、リュカお姉ちゃんがいつか他の誰かと結婚することも。ピエロのわたしじゃ、お姉ちゃんに釣り合わない」
ミアとリュカは血の繋がった姉妹ではなかった。だが、姉妹でないことと、結婚はまた別の話になってくる。
同性婚。さして珍しい言葉でもなくなったが、化学燃料が枯渇しても、神への信仰が途絶えることのなかったこの世界で、それは忌避されることだった。令嬢として教養のあったリュカが、優しくミアを拒絶したのだろう。
黒髪青目の人が好きなら、それは女でなくて、男の人でもいいでしょう、と無知なミアを導いたのだ。
それが正しかったのかどうかはわからない。ただ、ミアが信じた運命が、ルカをこの絵画の下へ導いた。それは間違いではないと信じる。
絵画の全容を把握するのは骨が折れたが、ミアが手伝ってくれたおかげで、とんな絵かはわかった。ミアが「なおして」と言ったのもわかる。
これは昔に流行った風刺画の一種だ。特に名前のついていない、インターネットに流れたイラストの再現だろう。ルカもちら、と話に聞いたことはある。
黒く塗り潰されている中には向き合う少女とはまた別の少女が泣いていて、その少女の背中には一本の痛々しい矢が突き刺さっているのだ。青い目の少女はそれを慰めている。……が、青い目の少女の背中には、無数の矢が突き刺さっているという図。本当に優しい人は自分がどんなに傷ついていても、他の傷ついている人の手を取ることができる、ということを表したもの。
絵画がエネルギーとなる世界において、忘れ去られてしまった絵画の価値の一つだった。
ルカを真似て、洗浄液で青い目の少女の背中の矢を明るみにしていくミア。顔色が悪く、今にも泣きそうだ。
「絵を見るのがつらいなら、無理しなくていいよ。休もう」
ルカはアダムから言われている苦言を思い出した。「お前は一度熱中し出すとまじで時間忘れるからな……」と。ルカは絵画修復への責任感が人一倍あることもそうだが、絵画に触れていられる修復の時間が大好きだ。修復している間だけは、誰に責められることもなく、絵画の持っていた芸術性という価値に思いを馳せることができる。
それで、三日間飲まず食わずで倒れたことがあった。発見したニノンが動転して、ニコラスに助けを求めて、医者を呼ぶまでの沙汰になったのだ。それからルカは度重なる小言により、きちんと時間を気にするようになった。一人だとやはり、没頭してしまうが。
ミアがルカのことを「運命の人」呼ばわりするのには辟易してしまうが、健気に修復を手伝ってくれる姿を見ていると、ルカも心をとん、と衝かれることがある。ああ、きっと、この子にとっても、この絵画が大切なものなのだろうな、と思うと嬉しくなるし、胸が痛くなる。
「や、やだ。直すなら、早く直さないと、お父さんに怒られる……」
ふと、その言葉が引っかかった。「パパ」ではなく「お父さん」? 言い間違いの可能性もあるだろうが、この呼び方は呼び分けだろうか、呼び間違いだろうか。
「パパが壊れたのは、わたしがこの絵のお姉ちゃんを『天使みたいだ』なんて言ったからだから」
ミアの言葉を受け、ルカはまだ洗浄の終わっていない絵画を見る。確かに無数の矢の輪郭がぼけて、色褪せたことで、天使の翼に見えないこともない。
ミアをそっと抱き寄せる。天真爛漫なミアの無垢な感性が、好きな人によく似た少女を天使と見違えさせたのだろう。……絵の正体を知っている者からしたら、なんと皮肉に聞こえることだろう。
自分が傷ついていてもなお、他者に手を差し伸べる精神性はまさしく天使の慈愛そのものだった。
きっとリュカも優しい女の子だったのだろう。だからこそ、突き刺さってしまったのだろう。
けれど、それでミアの純真さを踏みにじっていいはずがない。
「……ミア」
ルカがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「パパが壊れたのは、ミアの言葉がきっかけだったかもしれない。でも、リュカお姉ちゃんに似た女の子が天使みたいだって、パパからしたら、褒め言葉だよ、きっと。……パパが壊れたのは、天使みたいなリュカお姉ちゃんが死んでしまったからで、ミアの言葉が悪かったわけじゃないよ」
「ううん、でもパパは、ミアを打つようにって──」
「お父さんがミアを打ったんでしょう?」
ルカの核心を突く言葉に、ミアがひぅ、と息を飲む。
「……どうして、わかったの?」
ミアはルカが「パパ」と「お父さん」が別人であることを見抜いたことに驚いているようだった。けれど、ヒントは充分にあったのだ。
「たくさん話して、疲れたでしょ。俺の膝でよかったら貸すから、横になって」
「あ、ありがと……運命の人」
名前を呼ぼうとして、ミアはまだルカの名前を知らないことに気づいたらしく、運命の人、ともごもごした。
膝にぽすんと収まったダークブラウンの髪を撫でながら、ルカは名乗る。
「俺の名前は道野ルカ。絵画修復家だよ」
「ルカ、おにぃ、ちゃ……」
「ルカ! 無事か!?」
ミアが眠りに落ちると同時、ばん、と扉が開かれた。騒々しく入ってきたのは旅の一行。何故だか外が騒がしい。
「助けに来たぞ!!」
そう叫ぶアダムに、ルカはしい、とミアを示した。アダムは口を押さえつつ、ふいー、と一息つく。
扉の向こうの深い夜空は、ルカと絵画の少女と同じ青の色をしていた。




