アダムと全盲
アイカが新たに持ってきたのは、もはや絵ですらなかった。
何も描かれていない真っ白いキャンバス。
「これが絵画?」
ニノンが疑問符を浮かべる。ニノンの能力すら反応しないのだ。戸惑うのも無理はない。
アイカはパネルで説明する。
『こちらは触ってもいい絵画です』
「え!?」
それはニノンでも知っている常識を覆す言葉だ。
かつて美術館と呼ばれた場所で展示されていた絵画は、そのほとんどが撮影禁止で、もちろん触れるのも駄目だった。誰かが絵画に悪戯をできないように防護ガラスまで張られていたほど、厳重に保管されていたのである。
その甲斐あって、かつての名作たちは一部の例外を除き、絵画エネルギーに還元され、世界に明かりが戻ったのである。エネルギー原理が確立できても、資源がなければ還元できない。当たり前のことだが、当たり前に、過去の人々が絵画を保管していたからこそ、絵画エネルギーが確立され、広く広まるに至ったのだ。
そんな絵画に関する管理の徹底をしていた[美術館]を名乗るのに、展示作品である絵画に触れさせるとは、と疑問が鎌首をもたげたが、真っ先にアダムが手を伸ばす。その手には躊躇がなかった。
「ちょっと、アダム」
ニノンが止めるが、アダムの指先はキャンバスをなぞり始める。すぅっと、絵画中をまんべんなく。
さすがに触りすぎじゃないか、とニノンがはらはらしながらアダムの顔を見ると、アダムは絵を見ていなかった。というか、目を閉じていた。
絵を見ない、という行動が矛盾していて、ニノンは困惑する。アダムは絵を描くのが好きなのは、もう旅の一行の知るところである。絵が人に見られて、その絵が人の心に何かしらの感情をもたらすことにエネルギー還元よりも価値を感じる少年だということを共に旅をしてきてよく知っていた。
ただ、目を閉じて、絵画に触れるその横顔が真剣そのもので、何も言えなくなってしまう。ニノンはアダムの横顔を眺めていた。
徐に、その目が開かれ、アイカに向けられる。アイカの目の緑は少し悲しげで、嬉しそうだった。
「これは盲人用の絵画ってわけか。それに、アイカちゃんも、目、あんまり見えてないよな?」
「えっ」
アダムの言葉に、ルカも驚く。ニコラスだけ、得心したように頷いていた。
「まあまず、ルカやニノンもこの絵の表面触ってみろよ」
「う、うん」
アダムに促され、ニノンは恐る恐る、ルカはぽん、とあっさり絵画に触る。
触って気づいた。白いキャンバスだと思っていたが、表面が不自然に凸凹している。
「点描?」
「点字だよ」
点字。目の不自由な人のために使われる文字だ。盲人は遥か昔より存在し、点字の文化も変化してきた。基本的に縦三、横二の六つの点の集合で一文字が表される。昔は八つだったこともある。
英語以外の世界の共通言語といってもいいかもしれない。もちろん、国によって使っている文字が異なるため、完全に共通とは言えないが、文字よりは垣根が低い。
「つっても、そういう障害持ってねーと、覚える機会なんてないだろうからな。アイカちゃんも完全な盲ってわけじゃないだろうし。文字書けるからな」
ルカとニノンがアイカを見るとアイカはこくりと頷いた。
「薄暗いとよくわからないだろうけど、アイカちゃん、瞳孔が開き気味なのよね。瞳孔が大きくなったり、小さくなったりすることで、光の加減を調整して、あたしたちは普通に景色を見ることができるのだけれど、それが当たり前であることはとても幸運なことなのよ。アイカちゃんは瞳孔……黒目の部分が閉じにくくて、あまり明るいと見えなくなるんじゃないかしら」
瞳孔。目の真ん中の黒い部分。そこから人は光を受けて、網膜で情報を受け取り、網膜の奥で錐体たちが光の色の情報を見分け、その錐体からの情報を元に、脳が景色を認識できる、というのが人間の目の仕組みだ。瞳孔は明るいところに行くと小さくなり、暗いところに行くと大きくなる。それは虹彩という人々が[目の色]と認識している部分が収縮することによってなされる。
では、どうやって虹彩が収縮しているかというと、虹彩は目の筋肉なのである。簡単に言うと、の話だが。筋肉ということは、使わなければ衰えるし、使いすぎても疲労して機能しなくなる場合がある。筋肉として虹彩が衰えると、瞳孔が開き気味になり、目に入る光の量を調整できなくなるのだ。
入ってくる光の量が調整できないと、ずっと目が眩んだままの状態になる。だからこの店が少し薄暗いのか、とルカは店内の灯りを見た。
「それに、パネルにも簡単なメモみたいに点字があったしな。手際がいいのは触って確認できるからだろ」
そういえば、アダムはアイカのパネルを片付けるのを手伝っていた。そのときに気づいたのだろう。
アイカはパネルを出した。
『これは全盲の方のための絵画なので、触ることで初めて作品として完成するのです』
『目が見えない人も絵画を楽しむ方法がないか、と試行錯誤していたとある画家が、点字を用いて色の名前を連ねることで、と試作したものになります』
『ですが、全盲の方は色の名前は知っていても、それがとんな色なのかは知りようがありません』
『この作品のタイトルは[失敗作]なのです』
「そんな、失敗だなんて……」
ニノンが手を口元に当てる。
しかし、失敗とするのも無理はない。趣旨が達成されない上に、普通の人々から理解もされないものなど、失敗以外のどんな言葉で表せばいいのだろうか。
ルカは自らの作品を[失敗作]と名付けるより他なかった作者の心情を慮る。本当に、悔しかっただろうに。
点字印刷というのは特殊な印刷機械と特殊な紙を使わなければならない。それを踏まえた上で[赤][青][緑][茶色]と点字で綴った作者の労力を思うと、胸が痛む。色盲と違い、誰にも認められないという悲嘆が[失敗作]というシンプルなタイトルに込められている。
「ただの失敗作なんかじゃねーよ」
アダムはそう告げると、アイカにメモ帳を貸してもらい、何かをさらさらと描き始める。それは美しい紅葉の山の景色だった。
それを見て、ニノンがあっと声を上げる。
「これ、そのキャンバスに描かれてる……」
「そ、写しだ。絵画とはいかなかったかもしんないけどさ、[未完の失敗作]なんじゃねえの? もう少し何か工夫ができればよかったってのか」
アダムが自分がさっと描いた写しを並べる。
「誰か気骨のあるやつが、こうして再現することでようやっと完成するってことだろ」
再現絵画。それはニノンには素敵な響きのように思えた。
アイカも目を見開き、驚いている。
「へったくそで悪いけどよ。これをこの絵の注釈にしたら、いくらか理解は得られるんじゃねえ? 他にも再現絵画を描くやつ募るとかよ。少なくとも、この作品を作ったやつは、盲人じゃなかったんだから」
アダムの言葉に、アイカはぱあっと笑って、メモ帳に走り書きをした。
『Merci』
と。
「いいお店だったわね」
「ほんと! あの後出してもらったくるみのパン美味しかった!」
「お前は食いもんのことばっかかよ。太るぞ」
無神経なアダムの言葉に、ニノンがげし、とアダムの足を蹴る。
いてーなこの野郎、とアダムが反撃する傍ら、ルカは地図とメモとチケットを見る。
「あ、あそこかな」
「わ、おっきい!」
「マジか……」
宿を探しているとアイカに相談したところ、優待券と共に渡されたホテルの場所だった。どうやら、[JOKERSHOP]の店主の親族が経営しているらしい。
「こんなでかいホテルの経営権より、理解されにくいコンセプトの喫茶店を営むなんて、天才の考えることはわかんねえな」
「まあ、いいんじゃない? いいところに泊まれそうでよかったわ」
旅の途中で見つけた小さなお店。
小さな出会いかもしれないけれど、それは一生に一度しか巡り会えないようなものかもしれない。足を止めたなら、一度、立ち寄ってみてはいかがだろうか。
九周年、おめでとうございます!!
今後も応援しております!!




