アダムの受難
2周年記念でブログに投稿していたものです。
どたどたどた、ばたーんっ
けたたましい音と共に開かれた部屋の扉をまだ半分寝ぼけ眼のような目でルカは見やる。
ほとんど転がり込むようにして入ってきたのは旅の仲間の一人、アダムだ。
普段はひょうきんな様子の彼だが、今は何か切羽詰まっているようで、決死の表情でルカを仰ぎ見る。
「ルカ! 悪い、少しの間匿ってくれ」
正真正銘泡を食って──実際、アダムの口元は何故か泡まみれだった──必死に請うアダムにルカは「いいけど」と即答した。
ルカは開きっぱなしの扉をぱたりと閉める。扉に背を預け、疑問の残っている顔でアダムに訊ねる。
「でもどうしたの? アダム。随分賑やかだけど」
「ニコラスに追いかけられてるんだ」
アダムが口早に答えるのに「またなんで?」とルカは首を傾げた。
「実はな……」
時は三十分ほど遡る。
旅の途中に泊まったこのホテルは寝室は個々にあり、それなりに快適なのだが、洗面所は共用だった。
故にアダムは目覚ましに顔を洗うため、洗面所に来ていたのだが、そこに旅の仲間の一人がやってきた。
ニコラスである。
「おはよう、アダムちゃん。あらまあ髪がぐしゃぐしゃじゃない」
起きがけで顔を洗い、タオルにもふっとしていたアダムがその声に顔を上げる。隣に立つひょろっと背の高いニコラスを見上げた。
ニコラスも起きがけであるはずなのに、身なりは既に整っていた。元サーカス団団長で、今でも旅の途中で路上パフォーマンスなどをして稼いでいるやつだ。身だしなみは常に意識しているのだろう。
一方のアダムはというと、まだ顔を洗っただけで男性にしては少し長めのオレンジ色の髪は寝癖で若干わさわさとしている。
「おはよ、ニコラス……ってか寝起きだから仕方ねーだろ」
普通はこうだ。
アダムの当たり前と言えば当たり前の反応にニコラスはくすりと笑いおもむろに手にしたヘアブラシ(どっから出た?)を示す。
「せっかくだから、直してあげる」
ハートマークのつきそうな語尾にうへぇ、となりアダムはふいと視線を外す。うがいをして歯磨きを始めた。
「いいよー、別に。後で結ぶし」
普段はこの髪を首筋のあたりで一つに括っている。それくらいなら一人でできるのだ。
だが。
「そんなこと言わずに!」
何故かニコラスはやけに食いついてきた。
曰く。
「アダムちゃんの髪、変わった色してるから一度弄ってみたかったのよね」
だそうだが。
(変わった色ってお前が言うか?)
ツッコみながらニコラスを一瞥。ニコラスの髪は明るい緑である!
しかしそこでもう一つ異様な光景を目にし、アダムはぎょっとする。
「何勝手に弄り始めてるんだ! つかなんだその尋常じゃないゴムの数は!?」
そう、アダムの髪に櫛を通し始めたニコラスの腕には無数のヘアゴム。黒や茶色や紺といったシックなものならまだいいが……じゃらじゃらと音がするほど装飾のついた飾りゴム、飾りはビーズからリボンから花まで多種多様。その上どこを見ても黒茶色紺のメジャー選手は見当たらず、ピンク、赤黄色など原色万歳なものが勢揃い。
度肝を抜かれたアダムにニコラスはいい笑顔で。
「髪を弄るって言ったら、そりゃ、ねぇ?」
その笑顔を見、走る危機感。
アダムは歯ブラシを放り出し、駆け出す。
「何の同意求めてんだ。俺は必要以上に結ぶのはごめんだぞ!」
迷うことなく、逃げる。その一択。
「あ、アダムちゃんてば待って~」
かくして、髪をめぐる仁義なき追いかけっこが始まったのである。
「なるほど、それは災難だったね」
ルカはアダムの話を聞きながら、手櫛で髪を整えていた。部屋のティッシュを指差し、拭きなよ、と指摘する。
おう、サンキュ、とアダムが口元を拭き始めたそのとき、扉に背を預けていたルカの耳がぱたぱたという足音を捉えた。
「ん、誰か来る」
「うおっ、やべ」
ルカの言葉にアダムは慌てて近場のクローゼットに立てこもる。それを確認したルカが扉から離れたところでちょうどぱたりと誰かが扉を開けた。
ニコラスである。
「ルカ、アダムちゃん見なかった?」
早速の質問。ルカは無表情のまま小首を傾げる。
「え? 見てないけど」
あ、でも、とルカは続ける。
「そういえばさっき、外を走っていく人を見たような」
「あら! いつの間に。ありがと、ルカ」
ぱたん。
静かに閉まる扉。そこからせかせかとニコラスの足音が去っていく。足音が遠くまで行ったところで、ルカはちらりとクローゼットの方を見た。
「行ったよ」
「ぷはぁっ」
ルカの言葉に文字通り息を潜めていたアダムが解放感を味わうように深く息を吐いた。
「ルカ迫真の演技だったな。芝居小屋とか入れんじゃね?」
「いや、別に人が走ってたのは嘘じゃないし。僕は絵画修復以外を特にやりたいと思うことはないよ」
アダムの褒め言葉に対する生真面目なルカの答え。ルカはやはり根っからの絵画修復家らしい。
「まあなんでもいいや。とにかくサンキュ。助かったぜ」
ルカの淡白な答えに気を悪くした様子もなく、アダムはにかっと笑みを向けた。クローゼットからひょいと出る。
「それはよかった」
「じゃ、行くな」
能面のようなルカの表情に苦笑いを浮かべつつ、アダムはかちゃりとドアノブをひねる。
「うん、気をつけて」
ルカにしては珍しく、仄かに笑みを浮かべて見送った。
さて、とルカの頭はすぐ仕事モードに切り替わる。依頼を受けた絵があるのだ。
早速準備をして続きの修復に取りかかろう、とエプロンを手に取ったところで、こんこんと控えめのノック。新たな客人のようだ。
「どうぞ」
「お、おはよう、ルカ」
「ニノン?」
緊張した面持ちで入ってきたのは旅の一行の最後の一人、ニノンである。
「どうしたの?」
「あ、あの」
ニノンは緊張で表情ががちがちである。何度か口をぱくぱくさせ、やがて一つ深呼吸をし、切り出した。
「アダム見なかった?」
デジャヴ感のある質問。ルカはアダム、今日は人気だななどと考えつつ、目線で先を促す。
「宿の人に手伝い頼まれちゃって。力仕事だから男手がいるかなーって」
「それなら僕が行こうか?」
まだニコラスと追いかけっこ中だろうアダムを思い、ルカが口にすると、ニノンは目を輝かせる。
「それは嬉し……って違う違う! ほら、ルカは修復のお仕事があるでしょ。そっちが優先だよ」
あたふたとするニノンの様子を少々不審に思いながらも、ルカはアダムの走り去った方向をすっと指し示す。
「アダムなら、あっちに言ったんじゃないかな」
「ありがとっ」
聞くなり、ニノンは去っていった。やましいことでもあるのか、何故か脱兎のごとく。
「なんだったんだろ」
ルカはぽつりとこぼしたが、直後にはもう頭は修復一色になっていた。
はて、ルカのおかげで難を逃れたアダムであるが。
「アダムちゃん見ぃつけた」
「げっニコラス!」
何故かほどなくしてニコラスにがっしり肩を掴まれ、捕獲される。
「なんで!?外に行ったはずじゃ」
ルカがそのように導いたはずだが、何故まだ屋内に?
ぐるぐると考え、頭を抱えるアダムに、ニコラスはご機嫌でうんうんと頷いた。
「ルカの演技は見事だったわ。でも私は元サーカス団団長よ? 演技かどうかを見抜く目は養っているの」
ルカの能面演技もニコラスの目は騙し通せなかったらしい。
とはいえ、あれで義理がたいルカが簡単にアダムのことをばらすとは思えないが……
そんなアダムの思考を見切ったようにニコラスは悪役令嬢もかくや、口元に手を当ててオホホと不敵に笑って告げた。
「私が行ったんじゃ、ルカも簡単には騙されてくれないでしょうからね。スペシャルサンクスさまに手伝ってもらったのよ」
「スペシャルサンクス?」
「ずばり──ニノンよ!」
ニコラスの宣告に合わせ、ニノンがやっほー、と出てくる。
アダムは目を剥いた。
「な、なんでニノンがニコラスに協力を!?」
何か得があるのか? と驚愕に染まりながらアダムは思考を巡らす。
そこへニノンはあっさり答えを示した。
「だってわたしもアダムの髪弄ってみたかったんだもん♪」
無邪気なニノンの発言にアダムの瞳を包む色が驚愕から絶望に変わる。
ニノンの腕にもどっから出た、というほどじゃらじゃらとヘアゴムがついていたのだ。
いい笑顔でアダムににじりよる二人。
「アダム、覚悟~!」
「う、うわあぁぁっ!!」
「ん?」
作業に没頭していたルカが顔を上げる。
今、アダムの悲鳴が聞こえたような……
…………
…………
…………
ま、いっか。
ルカは再び作業に没頭した。
そんな彼が編み込みやリボンなどで綺麗に飾りつけされ、おまけにナチュラルメイクを施されてなかなかの美人になったアダムと遭遇するのはまた別のお話である。