ニノンとホールケーキ
モナリザについての記述がありますが、諸説ありますゆえ、何かしらの説明不足、間違いなどありますでしょうが、多少目を瞑っていただければ幸いです。
勉強になったな、とルカが満足そうにする。
「色々お話ありがとうございます。わたし、色んなこと知らなくて」
ニノンが少し照れたように言うと、ラーシュエはいいさいいさと笑った。
「若いのは、昔の慣習に囚われるのはよぐねえげっとも、昔のことを知らねえのはもっとよぐねえんだ。知らないで捨てるのと、知ってから捨てることを選ぶのでは、それこそ『意味』が違うからっしゃ」
簡単な言葉を難しく使うな、とニノンはラーシュエを見て感じた。
けれど、一見簡単に見えるものも、実のところ複雑怪奇なものたちが絡み合って成り立つことがある。料理のようなものだ。トマトスープが美味しくなるのはトマト以外のものも入って、美味しさを引き出しているからなのだ。材料を一から全部数えるだけで大変である。
マッシュポテトもただ芋を潰せばいいというわけではない。人によってこだわりの潰し加減もあるし、味つけもブラックペッパーで済ませる人もいれば、ベーコンを入れたり、コンソメを混ぜたりする人がいる。何か単体では「料理」と呼べないのだ。
ただ混ぜればできるわけでもない。ケーキのスポンジも、小麦粉を篩にかけなければだまができる。ただかき混ぜるだけでもだまができる。火加減や焼き時間を間違えれば焦げて消し炭になってしまう。
そんな複雑なものを私たちは一口で食べてしまうのだ、とニノンはトマトスープの赤い湖面を見つめた。
「そろそろ俺、寝るわ。運転手しなきゃだし」
「私も先に休むわね」
「新聞、お返しします。ありがとうございました。……ニノンは?」
各々立ち上がり、寝室に行こうとする三人。ニノンだけが、立とうとしなかった。
ニノンは飲みかけのトマトスープを示して言う。
「わたしはもうちょっとおばあちゃんのトマトスープ飲む」
「おや、気にいってくれたかえ?」
「うん!」
「飲みすぎんなよ。胃もたれしても知らねえからな」
「しないもん!」
凸凹コンビの喧嘩が盛り上がる前に、ニコラスがずりずりとアダムを回収する。ルカがぺこりと頭を下げ、寝室へと向かっていった。
ニノンがトマトスープを啜る。野菜の甘味の中でハーブたちのスパイシーさが鼻に抜け、心地よい。そっと奥に潜んでいたジンジャーが体を温める。
ニノンはラーシュエに戸惑いの混じった笑顔で問いかけた。
「おばあちゃん、何者なの?」
ラーシュエはにこにことしている。
「わたしが見ているのは、女の人。……うーん、違う。わたしを見ているのが女の人なのかな。この宿に入ってから、女の人にずっと見られている気がする。おばあちゃんじゃなくて、黒い長い髪の女の人──の絵」
「おや」
ラーシュエの反応で、ニノンはようやく確信できた。
この元宿屋に来てから、ニノンは奇妙なものが景色に重なって見えた。最初は気のせいかな、と思う程度に薄いものだったが、次第に視線の圧も伴う実体に限りなく近いものとなってきたため、わからなかったのだ。女の人だということはわかった。ただ、あまりにも本物の女性のような気がして、絵だと確信できなかった。ルカたちも何も言わないから、ニノンの能力が反応しているものだと気づけなかったのだ。
ニノンの能力は絵画に秘められた想いを汲み取る力。ぼんやりとだが、そう認識している。
女の人からの視線は四方八方から感じていたが、その中心にいるのはずっとラーシュエだった。ラーシュエが見ていたのは、ニノンだけではないはずなのに。
ラーシュエは徐に、ルカが畳んでいった新聞を広げる。その中には環境活動家が起こした事件の標的となった絵画の写真が何点か載っていた。
その中の一つに、ニノンはあっと声を上げる。
ラーシュエはその絵を指差した。
「お嬢ちゃんに見えているのは『モナリザ』よ。不思議な絵と言われていたものさね。この絵はどこから見ても必ず絵の中の女の人と目が合うってことでね」
「それで、視線がそこら中から……?」
「けんども、お嬢ちゃんが見てるのはモナリザでねえよ」
ラーシュエは立ち上がると、とんとん、と戸棚のガラスを叩いた。
「モナリザはたくさんの事件に遭った名画だ。最後には防弾ガラスで守られるまでになった。……ガラスたちの記憶さね」
「ガラスの」
『私たちはね、ずっとリーザを守り続けてきたの』
『でも時代が変わって、リーザを守る必要がなくなった私たちは粉々に砕かれて、またガラスになった』
『リーザは今、どうしているかしら』
夜風が囁き合うような少女の声がニノンに聞こえた。
モナリザは環境活動家の事件以外にも、それまでに様々な事件に遭ってきたため、防護ガラスで保護されるまでになった名画だ。その事件の歴史は二十世紀初頭にまで遡る。
盗まれ、石を投げられ、スプレーをかけられた。モナリザは修羅場を潜り抜けてきた絵画といっていいだろう。幾度もの災いを生き抜いてきた絵画は、その最果てに、エネルギーに変換される世界へと辿り着いた。
『でも、リーザは必要とされなかった』
「ひとりぼっちになっちゃった』
『私たちはもうリーザの傍にいないのに』
『リーザはいつだって人の都合でひどい目に遭ってきた』
『もう終わったっていいはずじゃない』
「どういうことですか?」
ニノンが尋ねると、ラーシュエは眉を八の字にし、苦笑いを浮かべた。
「モナリザは有名な絵画だけんど、未完の作品なのさ。作者はとうに死んどるから、もう完成することはない。ルーブルもたまげたべな」
絵画エネルギーの還元率についてはまだ不明瞭の部分が多い。どういう絵の還元率が高いのかはまさしく今、この瞬間にも研究されていることだ。
ただ、少なくとも絵画が完成していなければならない。
ラーシュエによれば、作者はモナリザに関して……というか自分が携わった作品に関して、どれ一つ完成させることができなかったと語っていたのだという。完成しているかどうかなんて、作者にしかわからない。その作者が匙を投げ、投げられたことを忘れられ、災難ばかりに恵まれて、有名になり、名画と呼ばれるようになってしまったモナリザ。
「未完成のモナリザは絵画エネルギーに還元されていないという噂もある。どことも知れぬところにある、とも」
「そんな」
人の都合に振り回されて、保護されては傷つけられそうになり、そうでなくとも経年劣化で修復を重ねられ、そんな絵画が、エネルギーにすらなれないなんて。
こんなにもガラスに思われている絵画の女の人が、今はどこかでひとりぼっちかもしれないなんて。
「あたしゃあ、ね。リーザのためにも、トマトスープを作るのさ」
「え?」
リーザとはおそらく、モナリザのモデルになった人物だろう。ラーシュエは戸棚のガラスと何を語らったのだろうか。
「環境活動家たちの一連の事件は、二〇二二年の五月、ルーブル『美術館』に展示されとった『モナリザ』にケーキが塗りたくられたことから始まったのさ。芸術家たちに『考えろ』ってさ」
「環境問題を?」
いずれ尽きるエネルギー源のことではなく、エネルギーを消費することによって起こる環境汚染のことを環境活動家たちは考えてほしかったらしい。
だが、そんなもの、一年や二年でどうなるはずもない。ともすれば、明日には天災か戦争で国が一つ二つ滅んでいたかもしれない時代だったという。それが人間のもたらした環境問題のせいだとしても、どうしようもない。
芸術家にどうしろと? 少なくとも、絵画には何の罪もなく、何百年も前に存在したであろうリーザというこの絵のモデルは、未来にそんなことになるだなんて、知る由もなかっただろう。
「リーザ……モナリザのモデルについては色んな説があってねえ。何が正しいのかはさすがにわからないんだけど、病気だったとか、産後だったとか、色々あって……諸説の多くは食べ物を制限されそうな身体状態の話だったんだ」
そう考えたら、かわいそうでねえ、という呟きが、ほろりと夜の静寂に落ちる。
「ケーキを目の前に、食べられないのはあんまりだろう? だからねえ、お供えをしてるのさ」
「ケーキじゃなくて?」
「さすがにケーキは毎日買えないし、作れないさね」
だから、トマトスープを作っているんだ、と。
「これも、あの人が残していってくれたものだよ。要はこの子たちもさみしいのさ」
戸棚のガラスを撫でるラーシュエ。ニノンは彼女の言うことがなんとなくわかった。
ひとりぼっちになってしまったのはモナリザだけじゃない。モナリザを守るためのガラスだったのに、よくわからない理由で引き離された彼らもさみしくて、主人に先立たれたおばあさんもさみしくて、温かいトマトスープを作って、寄り添い合っている。
皮肉にも、環境活動家の誰かが言った通り「何にもなれなかった」モナリザを思って。
「ううん、リーザさんが何にもなれなかったなんてこと、ない」
ニノンが首をきっぱりと横に振る。その言葉にラーシュエはきょとんとした。
ニノンは優しいすみれ色を綻ばせて告げる。
「絵画を守って、何にもならないなんて、言い掛かりだよ。リーザさんはガラスやおばあちゃんに『こころ』を残してくれた。『生き甲斐』や『思い出』をくれた。……それじゃ駄目?」
小首を傾げるニノンに、ラーシュエはんふふ、と思わず笑った。
「きっとあなたみたいな子が、絵画に愛されるんだろうねえ。お嬢ちゃん、近くの美味しいケーキが食べられるところを教えてあげる。明日にでも行ってごらんなさい。お連れさんたちも一緒に。
そして、この不思議な思い出を誰かにお裾分けして。お嬢ちゃんたちが、リーザを覚えていて」
「うん!」
ニノンは夜空に煌めく星のように笑ってみせた。




