ルカとメイ
直してほしい、とメイは言った。
無論、メイの絵画修復依頼はセドナから受けているから、ルカは修復をするつもりだ。だが、謎の空間に飛ばされてしまって、どうしたものかと考える。
辺りを見回してもメイらしき影もなければ絵画らしきものもない。川だけがある荒野だ。頼れるのは自分とニコラス。メイについてはあてにしていいのかまだわからない。
ただ、メイの言葉の中に引っ掛かることがいくつかあった。
その最たるものが「彩らないで」である。絵画は色彩を持ってこそ輝くものであり、その方がAEPの還元率が高いという事実は世界的にも広く知られている。ルカも当然承知している。だが、道野工房の方針である「絵画を元の姿に戻すだけ」というものに従い、AEPの還元率如何に拘わらず、ルカは絵画を元の姿に戻すだけだった。
それで批判を受けたこともある。勘違いしている画家がいるのだ。修復家は絵画を直すだけ。決して絵画をより良いものに作り替えるために存在するのではない。劣化したり、褪せたり、傷ついた絵画を修復するのが絵画修復家の役目である。
修復家の役目は絵画を直すことであり、それに付随して以前よりきらびやかな姿を絵画が取り戻すことがあるのだ。修復前より還元率が良かったり、他者からの評価を得られるのはあくまで副産物。そこを履き違えられても困る。
そうして、修復された絵画に鮮やかさを求める画家が多い中、メイが「彩らないで」というのは、何故だろう。メイを描いたのが、モノクロの絵画でものすごいAEPを叩き出したアルルだからだろうか。それはそれで納得がいくが、セドナはメイに関して、一言も「モノクロの絵画」だなんて言っていない。
セドナはメイが「塗り替えられてしまった」と言っている。メイはルカたちを「元に戻してくれる人」と称した。そこから導き出される答えは「何者かに別の色を上書きされた」ということだ。おそらく、作者であるアルルの意図ではない状態で。
それだと辻褄が合わないというか、むず痒いのが、これまで訪れた修復家たちが「修復の必要はない」と判断したことである。ルカはそれが許せなかった。
ルカはニノンのように絵画の声が聞こえるわけではない。けれど、傷ついた絵画があるのに、ろくに検証もせずに仕事を放棄するなんてことは絶対にしない。助けを求める人がいるなら、絵画を見捨てたりしない。
だからきっと今、ここにいる。
謎なのは、ニコラスがこの空間にいるということ。何故ニコラスなのだろう。こちらには絵画の声を聞くことができるニノンがいる。メイがアルルの描いた絵画の意思なら、ニノンに呼び掛けた方がよかっただろうに。
そこでヒントになりそうなのは「あなたの色だから拾ってくれる」と「あなたは色を失くした人」だろう。
色を失くす、ですぐに思い浮かぶのは、申し訳ないがやはりニノンだ。ニノンは脱色症という髪の色がない病気の少女で、脱色症の患者は時に「イロナシ」と揶揄される。
ニコラスの髪は染めたものだ。黄緑色の髪が元々何色だったのかはわからないが、これだけ綺麗に染めるからには、一度色を抜いているはずである。つまり任意で色を失くしているはずなのだ。
いや、これが髪の色の話なら、だが。
「ねえ、メイちゃん」
考え込むルカの脇でニコラスが声を上げる。
問いかけを待つように風が凪いだ。
「メイちゃんはどうしてあたしたちをここに呼んだの?」
「メイを元に戻してもらいたいの」
「メイちゃんは今、どこにいるの?」
「メイはここにいるよ」
こことはどこだろう。どこかもわからないこの空間のどこかということだろうか。
メイは語る。
「セドナはメイを守ってくれたの。ずっと守り続けてくれるの。セドナはアルルのことが好きだから。だから気づいてほしくないの……」
語尾が尻すぼみになっていく。どうやら、メイがルカとニコラスをこの空間に招いた理由にはセドナが関わっているらしい。
ルカとニコラスはある推論に辿り着いた。目を合わせてから、ニコラスが中空に問う。
「メイちゃんを修復することで、セドナちゃんが傷ついちゃうの?」
「……気づかれたら、傷つくと思う……」
何に気づいてほしくないのかは語らない。ただ、本当に気づいてほしくないのだろう。声には悲しみと寂しさが滲んでいた。
ルカが確信を持って紡ぐ。
「つまり、セドナがそのことに気づかないように、修復してほしいってことだね? だからここに俺たちを招いた」
「…………うん」
頷いたメイの声は風が吹いていたら聞き取れなかったであろうほど掠れていた。
なるほど、ニノンの力だと、伝わりすぎてしまう。いらないことを伝えずに済むほど、ニノンの力は使い勝手がよくない。
どういう力がはたらいているのかはわからないが、この空間はメイが外界から隔離するために築いたものだろう。非現実的なのは百も承知だ。そんなことを言ったら、ニノンの力も、絵画エネルギーさえ、非現実的と言える。
「メイはアルルのところに行きたいの。でも、アルルの目に映ったままの姿で行きたい。だから、お願い」
アルルの目に映ったままの姿──塗り替えられる前の、絵画の本来の姿だろう。それなら、修復家の仕事にちがいない。
「わかった」
ルカは頷くと、ニコラスと相談を始めた。
「ここがメイの世界なら、何もないってことはないはず。何かしら、修復のヒントが隠されてると思う」
「そうね。きっと、メイちゃんがセドナちゃんに気づいてほしくないものについてもわかると思うわ」
となればあとは探索である。何を探せばいいのかはてんでわからないままだが、見渡す限り何もない荒野の中だ。何かあるならすぐに見つかるだろう。
「じゃあ、ルカは川の周辺を頼むわね。あたしは川の向こうに行ってみるわ」
「川は渡らない方がいいと思う」
「え」
なんとなく、嫌な予感がした。それが主な理由だが、後付けでいいなら、川というのは生と死の境界にある。日本では「三途の川」と呼ばれるものだ。
この空間の川が三途の川かどうかはわからないが、川は渡らない方がいい。その予感めいたものが、川に近づいて確信に変わった。
川の向こう岸には真っ赤な花が咲いていたのだ。血で染めたような赤さの花。葉がなく、茎のみで立つ花は「ヒガンバナ」という。ヒガンとは日本では「あの世」のことを指す言葉だ。
「こっちには青い花が咲いてるわね。勿忘草かしら?」
「勿忘草の話では、確か恋人がいる岸に勿忘草を投げたんだっけ。こっちが生きてる人の岸ってことかな」
ただ、勿忘草に混じって、別な花も咲いている。目にも鮮やかな青色は勿忘草のそれと似ているが、ルカにとっては勿忘草より身近なものだった。
「露草……? なんで」
露草は青い花の代表格といっても差し支えない。花びらから青色を抽出して作る色水はポピュラーな色の作り方の一つだ。快晴の空のような青ができることで遊びとしても人気である。
メイが言っていた「拾う」という言葉。あれはかなり重要な単語だとルカは考える。花は摘むものだ。露草は何かのヒントではあるが、答えではないように思えた。
「あら、今度は向日葵ね」
川岸としては滅茶苦茶な花だ。これもヒントなのだろうが、一つ、気がかりなことがあった。
「露草は元気に咲いているのに、向日葵は俯いているし、花の状態が良くない」
「太陽がないから……だけではなさそうね。ってうわ」
向日葵の方に足を踏み入れると、ニコラスの足がずぼ、と埋まる。同時に鼻をつく臭いがした。
「何これ……土がどろどろじゃない」
「水のやりすぎというよりは肥料のやりすぎ? これ、牛の……」
そこまで口にして、ルカは閃いた。ニコラスは水辺に寄る。
「まあ、足を洗うくらいは許してね……っ」
川を覗き込んで固まったニコラスにルカが不思議そうにしながら近づく。ニコラスは水面を見て凍りついていた。
ルカはどうしたんだろう、とぼんやり考えて、水面に目を落とす。軽く目を見張った。
水面には、亜麻色の髪のニコラスの顔が揺らめいていたからだ。
今のニコラスの髪は黄緑色。ルカは真剣な面差しで実物のニコラスと水面のニコラスを見比べた。水面に映るルカはそのままの色だ。
「色を失くした……そうか」
ルカの中でメイの言葉が整頓されていく。川を覗き込むルカの目の部分がきらりと光り、唐突にルカはその部分に手を突っ込んだ。
「君はこれを拾ってほしかったんだね、メイ」
ルカの手が握っていたのは星空のような輝きを秘める宝石、ラピスラズリだった。




