春子の旅立ち
遅刻最後
そういえば、とアダムはふと一つの懸念を思い出した。
ニノンが思い切り能力を使ったわけだが、さすがにあの距離はバレているよなあ、と。
「あ、あの、春子さん。ニノンのことなんすけど……」
「ん?」
お、と思った。気づいていないのならそれはそれでいいのだが。
「なんか色々事情があるんでしょ。私は野暮なことはしないから気にしないで」
「ぐ」
見事に見抜かれていた。まあ、気の回る人でよかった。ニノンのあの能力はよくわからないが、簡単にばらしていい類のものではないだろう。なんとなく、嫌な予感がするのだ。ニノンが能力を使うたびに。
今後は自重してもらわないとな、とアダムはペンを滑らせていく。ざっくりと全身を描き、顔の形や体をかりかりと修正していく。鋭い美しさの中に儚さを兼ね備えている辺りは描き応えがある。
背もすらりと高く、足が長いので、立ち絵映えする人だな、と思いながら描いた。なんでもない椅子に座って頬杖をついているだけでも絵になるし、雑多な街中でただ立っているだけでも目を惹かれる。容姿がいいのに声だけの仕事なんて、ちょっと勿体ないような気がする。
さぞや男にモテるんだろうな、とは思うが、アダムはさすがに口説かなかった。恋に年齢は関係ないというフレーズを聞いたことがないわけではないが、誰にだってストライクゾーンと身の程は存在する。
それを抜きにしたって、この人もアダムも、ここにいたいと思える仲間がいて、どちらかを選ぶなら躊躇いなく、仲間を選ぶだろうことはわかった。思いやり、思いやられる人物なのだから。
「上手いもんだな」
「素材がいいんすよ。春子さんは絵は描かないんですか?」
「あー、うん。別に下手なわけじゃないけど、特別上手くもないかな」
課題として出されたらそつなくこなすイメージはある。
「あいつらの作画に加わるのは躊躇われるな。クオリティの邪魔をしそうだ」
「絵は好きですか?」
「嫌いだよ」
「え」
まさかの即答にアダムが筆をぴたりと止める。思わず春子の顔をまじまじと見ると、その顔は悪戯っぽく破顔した。
「嘘」
「そ、そうっすよね……」
「でも、種類によるかな。こう、難解な絵は無理だな。宗教画とかさ」
宗教画。今は絵という絵はすべからくエネルギーに替えられてしまうため、描かれなくなった絵の一つだ。日本は美術や歴史でそういうものを習うらしい。
「私が好きなのは、誰かが幸せになれる絵だよ。宗教画はその点、よくわからないから。逆にアニメはわかりやすく人の感情を引き出せるからね」
「……笑顔とかじゃないんですか?」
「笑っていることばかりが、幸せではないだろう」
春子の表情が曇る。それは小さな傷痕に触れられたような痛みを伴っていた。過去に基づいた実感のある感情だ。
ひとときの出会いに過ぎないのに、なんでもかんでも無遠慮に聞くのは躊躇われた。人の傷に触れるのは神経を遣う。アダムは今、絵を描くことに心を割きたかった。
「アニメは絵が連なって、物語になるからね。でも、すごい絵画ってのは、見ただけで人の心を震わせるだろ。それは笑顔ばかりじゃない、感動して、涙が出ることだってある」
腕を組み直した春子が、ふい、とよそを見た。
「そういうのを絵画が持つエネルギーって、昔は呼んでたよ。だから、絵画エネルギーなんて即物的なものが生まれて、私はちょっと悲しいかな。でも、涙を流すほどじゃない」
絵画が持つ、エネルギー。それは本来、人の感情を奮い起たせ、切り開いていくものだったはず。そう語る春子の姿は、とても新鮮なものでありながら、アダムもどこかでわかっていたような気がした。
例えば、路地裏の魔法使いが描いた林檎とか。なんでもないものなのに、アダムはいたく感動した。それから、絵じゃ腹は膨れないとか言って怒ったりもした。
あれは腐りかけだったアダムの心に灯りを灯してくれた、紛れもない[エネルギー]だ。
「絵がエネルギーを持つのは知ってるけど、その正体はAEPじゃないことを、あたしは知ってる。それでも、こういう方法を採らなきゃいけないのは、無力感があるよ」
「やっぱり、あの絵、提出しない方がいいんじゃ……」
「ここまで来て?」
まあ、それもそうである。日本から遠路はるばるやってきたのだ。今更引き返せる距離ではない。
「でも、意味はあったよ。コーヒーが零れて、私は今、君と話してる。そうしながら、最後の未練と向き合って、弔うのさ」
「絵画を?」
春子は首を横に振る。
「気持ちを、だよ。息を吹き返したアニメを生き続けさせるための計画だ。簡単に振り返ることができないから、ある程度気持ちの整理はしないとね」
私が描いた絵でもないのにね、と春子は笑った。でも、アダムにはわかるような気がした。
ルカたちと旅をして、様々な経緯を持った絵画が修復と共に手放されていくのを見てきた。提出前の[修復]というのは、絵画への弔いのようでいて、それを手放すための心の準備の時間なのだ。
大切なものとの別れはつらい。だから、時間の魔法でなるべく痛みを和らげて、別れを待つのだ。
絵を描かないという春子がそう感じているんだから、そこに画家か画家でないかの線引きはないのだろう。
「君らに会えてよかったよ。一期一会ってやつだ」
「いちごいちえ?」
「そ。たったそれきりの出会いでも、出会ったことに意味はある、みたいな意味さ。……へえ、随分美人に描いてくれたね」
春子がスケッチブックを覗いてくる。春子の立ち姿がそこに描かれていた。
きっとこの絵には永遠に色を塗らないだろう。アダムはそう感じた。
春子の桜色の目は、記憶の中にあればいいと思うから。春子がニノンに言ったように、ふと思い出して、よかったなあ、と思えれば、それで。
絵画エネルギーなんてなくても、心に灯りは灯るから。
コルシカの修復家、七周年おめでとうございます。時間がかかったけど、こうしてお祝いすることができて、とても嬉しいです。
尚、今回は独自解釈が多いので、正しいかどうかはわかりませんが、原作者のさかなさんに背中を押されて思いっきりやりました。コルシカの修復家の応援になればと思います。
いつもよりちょっと長くなりましたが、お読みくださり、ありがとうございました。また来年もお楽しみに。




