アダムと漫画
遅刻その2
「必要だよ」
しん、となった三人の中に芯のしっかりとした声が落ちた。その言葉に迷いはなかった。
春子はニノンを真っ直ぐ見た。その桜色には悲壮など一切なかった。覚悟を決めた目だ。
「認められたいから絵を描く。これは画家も同じことだろう? 何も今活動している画家の全部が全部、AEP還元のことばかり考えているわけではない。確かに、趣味嗜好の範囲で留めている者もいるだろう。私たちは、趣味嗜好から始めたことであっても、やはり[認められたい]から続けているし、本腰を入れる。そうすることに決めたんだ」
「描いたわけでもない、あなたがですか?」
あまりにも直球を投げるニノンにアダムが睨みを送る。それでニノンが臆することも、遠慮することもなかった。
これだから困る。頑固者め、と思いながら、アダムは春子に目を戻した。怯んでいないのは春子も同じだったのだ。だから、興味が湧いた。
それほどまでに揺るがない目をできる理由が気になった。
春子がふっと柔らかく笑う。
「確かに、その通りだ。それは私が描いたものじゃない。私の仕事は声優。アニメに声を当てるものだ。絵なんて描かない」
「それなら、なんで」
「それでも、私は知っている」
春子は原画を取り出し、胸に抱えた。
「描いていなくても、描いてるやつらの傍にいた。ずっと見てきたんだ。あいつらがどれくらい、一枚一枚に愛をかけているか、心を込めているのか、私は知っている。あいつらとは昨日今日の関係でもないしな」
聞いたところ、幼なじみと学生時代の友人らしい。何度もぶつかり合ってきた仲で、今更意見の食い違いで縁を切ったりはしないくらいには融通の利く仲なのだとか。
ニノンは気づいた。早とちりだったのだ。ニノンが見た絵画の記憶の一片は、本当に一欠片に過ぎなかった。
「そりゃ、この件については大いに揉めたけどね。あいつらが原画を大事にしたいのもわかるし、学校で一緒だった頃から絵を描くのが好きなやつらだった。百年以上前の本がさ、家にたくさんあるんだよ。漫画って言って、白黒で描かれた絵本。絵画エネルギーにはとても変換できないだろうって、没収されなかったらしいやつらを、何度も読んで、面白いってさ。授業中にファンアート描いたり、ノートに落書きしては先生に怒られてた」
日本では、アニメの原作として漫画の文化も発展していた。中には週刊誌もあり、その当時の人々は好きな作品が更新されるたび、喜んだり、展開に胸をときめかせたりしたという。
今はなくなってしまったものだ、とアダムは気づく。絵で見る人の心を一喜一憂させるなんて。しかも、モノクロの絵で、だ。日本の漫画家にはどれほどの技術があったのだろう、と思うが、それはたぶん、技術ではない部分のものだ。もっと言葉で表現するのが難しい、根本的な部分の話のはずだ。
「ライトノベルなんかも生き残っていた。漫画よりずば抜けてアニメ化されていた時期もあったけれど、中身は小説だからな。原作にまで手出しはされなかったんだ。友人の父から聞いたところによると、暗黒の時代、明るい昼に人々は小説や漫画を読んでいたという。見られなくなったアニメを惜しむ声も多くあった……それを聞いてさ、漫画やラノベを見てた私たちはいてもたってもいられなくなったんだよ」
学校を卒業して、技術や知識を身につけて、大人になって。何年も試行錯誤して。ようやくアニメを作ることができるようになった。
日本ではやはりそれが注目された。やはり、DNAに刻まれたようなアニメへの興味と期待があったのだろう。絵画エネルギーの発達によってテレビも復活した現代、日本人はアニメが放送されるという知らせに心踊らせた。
そうして放送されたアニメは、春子たちの拘り抜いた部分が確実に伝わり、一度きりではなく、最初は月一回、気づけば毎週放送されるほどになった。
さすがに準備していたとはいえ、スタッフが充全とは言えない状況で放送を続けるのは不可能だった。だが、それにより、アニメーターを目指す者が増えた。「もう一度、ジャパニーズカルチャーを取り戻そう」と。
「娯楽を楽しむ精神を、根底では忘れていなかったんだ。もちろん、アニメは絵だけじゃない。声、音楽、ストーリー性。様々な要素が詰まって一つの作品になる。それが楽しいんだよ。普段は音楽しかやってない人が、普段は小説しか書いていない人が、絵しか描いてない人が、みんな一緒になって自分の得意分野を生かして、それで楽しいんだ。最高じゃないか」
そう言われて、ニノンの表情が華やぐ。違うことを好んで、ともすれば出会わなかったかもしれない人たちが、アニメというものに携わることで楽しく交流ができる。作る人も、作らない人も楽しい。確かに、こんな素晴らしい文化を廃らせたままでいるのは勿体ない。
──今なら、わかるかもしれない。原画がニノンに伝えたかった真意。「ルーブルに引き渡すのは反対」という言葉にも、悪意ばかりがあるわけではないだろう、と、そう思えるのだ。
「あの、春子さん」
「なんだ?」
「もう一度、原画を見せてもらっていいですか? 春子さんたちの[思い]を」
おい、とアダムが声をかける。
ナチュラルにやっているが、ニノンの能力はアダムにもその声を聞かせるほどになっている。その能力の危険性とやらはよくわからないが、今この場で発動すれば、春子にはバレるだろう。春子の人となりを疑うわけではないが、出会ったばかりの見も知らぬ大人を安易に信頼するほど、アダムは単純ではない。
懸念を抱えたアダムの心境を知ってか知らずか、ニノンは思い切りウインクを決めてみせた。伝わっているのかいないのかはわからないが、ニノンは大丈夫と思っているようだ。
アダムが溜め息を吐く傍らで、ニノンは春子が快く出してくれた原画を受け取った。
「好きなだけ見るといい。目に焼き付けて、いつかふと思い出してくれたら嬉しい」
言うと、春子はウェイターを捕まえ、コーヒーのおかわりを頼んだ。きっと春子も、これを運びながら、仲間が描いた渾身の絵を目に焼き付けていたのだろう。ルーブルに提出することを提案したのは春子のようであるが、こう、さばさばと話してはいるものの、やはり未練はあるのだろう。
ニノンが原画に触れると、それを証明するような映像が流れてきた。映像の中の人物たちが話すのは日本語だ。複雑な言葉の羅列ではないので、なんとなくわかる。
「春さんの言うことはわかるよ。でも、そうなるとは限らない」
「そうなる可能性もある、だろ。前向きに捉えてくれ」
「あのさ」
春子と話している青年の顔が見えた。黒い髪の向こうから覗く青を帯びた黒い目。感情的にルーブル提出に反対した青年と一緒に製作に携わったのであろう。けれど、そこに春子を責める色はなかった。
むしろ労るような、悲しみを孕んだ色がある。
「春さんがわざわざ、矢面に立たなくてもいいだろ」
「何を言ってるんだ? 哀音くん」
「先輩はわからないっすか? 原画のルーブル提出は、今春さんが提起するまでもなく、いつかは提起されていたはずの問題なんです。つまり、春さんはみんなに反対されることを承知の上でこんな提案をしてきたんです」
哀音と呼ばれた青年が淡々と語る春子の姿はどこか不器用だ。そんなことしなくたって、春子の人柄なら嫌われないでこの議題を片付ける方法だってあっただろうに。
絵画を所持していることは、今や犯罪である。それはアニメの原画も同じだろう。春子の提案はきっと、仲間を守るためのものだった。
「嫌われ役なんて、わざわざ買わないでくださいよ、春さん。俺たちはあんたのことを嫌いたくないんだからさ」
青年の言葉に春子は何と答えたのだろうか。
それを聞くことは叶わなかった。
「も、申し訳ございません!!」
コーヒーを運んできたウェイトレスが、盛大にコーヒーを落としたのだ。しかも、原画にコーヒーがかかってしまった。
絵画が不完全な状態だと、ニノンの能力は上手く作用しない。ニノンもアダムも苦い顔をした。
春子が謝りまくるウェイトレスを宥める。
「大丈夫ですよ。お嬢さんに怪我がなくてよかった」
うーん、言い方が気障である。できればアダムが言いたかったところだ。
それはさておき、コーヒーカップが割れているので、本当に怪我をしないでほしい。
「せっかく素敵な絵ですのに……」
「それなら、大丈夫だぜ」
アダムがニカッと歯を見せて笑った。ニノンもうんうん、と頷く。
「連れに絵画修復家がいるんすよ。見てもらいましょう」
「それはありがたいな」
春子も少し心配だったのか、アダムの言葉にほっとしたようだった。
そうして、三人は喫茶店を後にした。色々頼みたいメニューもあったが、原画の修復が最優先だ。
アダムは記憶を頼りにフェイスペイント屋に向かう。そこにいた御仁にぷっと噴き出した。
「ふっ、くく、ルカ、お前、かなり面白いことになってんじゃねーか」
「そうするために置いてったんだろ、はあ……」
花に緑の星のペイント、顔全体は黄色と白の細かいストラップで、目の睫毛の延長線が目立つが、更に面白いのが、ルカが瞬きをするたびに現れる青の円らな瞳である。たぶん本人は気づいていないだろうが、その方が面白いからアダムは黙っておく。
憮然としているが、当初の目的通り面白い顔になったのでよしとしよう。
「ニコラスも喜ぶぞ」
「喜ぶかな……」
「それはそうと、お前に修復の依頼だ」
また突然、とは思ったが、まあ、絵画の修復は嫌いではないルカは絵の状態と依頼人を見る。
春子はルカのフェイスペイントにぎょっとしていたが、会話の内容で概ねアダムのせいと明らかになったため、特に追及はしなかった。賢明である。
「へえ、アニメですか」
「え、わかるんだ」
「善哉さんがすごいアニメがあるって前言ってたよ」
「え、お前カナコちゃんと仲悪くなかった?」
仲は悪かったが悪いなりに色々あった。そういう日本自慢の一つや二つはあったかもしれない。
「派手にやりましたね……」
「そう時間は経っていないが、どうにかなりそうか?」
「はい」
「よかった」
本当に安心しきった春子はやっと気が抜けたのだろう。その場にへたり込んだ。
「大丈夫ですか?」
「平気だ。……まあ、時差ボケが出ていなかったからな。疲れたのかもしれない。少しすれば立てるから」
「よかったら俺、送っていきますよ」
アダムが手を挙げると春子は大丈夫だ、と遠慮したが、ニノンがアダムを春子に押しつける。
「役に立つときに使っておいた方がいいですよ、アダムは」
「ニーノーンー?」
言い方があんまりだが、ニノンは言い終えるが早いか、ルカの手を取り、ホテルの方角へ行ってしまった。
妙なウインクもしていたので、変な勘違いをされているかもしれないが、まあいいだろう。紳士アダムはレディに優しいのだ。
とふざけるのは心の中だけにして、アダムは春子の傍らに座った。行儀の良い座り方ではない。
「なあ、教えてもらえねえか?」
「何を?」
「あんたが知ってる日本の暗黒の時代ってやつを」
アダムはへら、と笑って告げた。
「知りたいからさ。あんたがもがいてる、本当の理由を」




