ニノンと愛着
遅刻分投稿第1弾
ルーブルへの提出は反対、という叫び。それが何を意味するか、ニノンにもアダムにもわかった。
つまり、春子はきちんと許可を得て提出しに来たわけではない、という疑惑だ。おそらく聞こえた声の主は、春子が言っていたアニメの製作チームの者だろう。
考えてみれば、道理である。絵を一枚描くのにだって、十分や二十分かかるし、こだわり抜けば、何年もかかったりする。中国だったかの「推敲」という話があるが、絵にだってそれは適用される。ここは緑か、黄色か。光の向きは右からか、左からか。
アニメの原画、と言っていたそれは、数十枚もの絵でようやく一つのシーンになる。こだわり抜いたものにちがいない。そう説明した春子の言葉に嘘はないだろう。
けれど、ルーブル発電所に提出してしまえば、これらの絵は失われる。修復だってできない。絵画エネルギーの原理を詳しくは知らないが、絵からエネルギーを抜き取るとしたなら、絵は残らないのではないのだろうか。火力発電のために燃やした燃料が戻らないように。
それに、これは原画だと春子は確かに言った。原画はこの世にたった一つしかないものだ。コピーなんかがあるかもしれないが、元となった絵は保管されるはずだ。そうやって、「原画展」などが過去に開催されていた時代があった。アダムも見たことはないが、聞き齧ったことはある。
原画はそれだけで価値があるのだ。
春子は日本のアニメの文化は失われつつある、と言った。そんな中で、手書きでやっとこさ作ったアニメ、そしてその原画。それが製作チームにとって、どれほど大切なものかは計り知れない。
何より「失われつつある」アニメの「原画」を絵画エネルギーに還元するということは、「原画」を失ってしまうことになる。ようやく取り戻したのに、それを簡単に手放すのか?
ニノンは不安げに呟いた。
「この絵は、この絵を描いた人たちは、消したくないって叫んでるのに、それを春子さんが持っているっていうのは……」
つまりはそういうことだろう。
春子は仲間の意志を無視して、ここまで持ってきたのだ。
アダムはその理由と思われるものを紡ぐ。
「まあ、質のいい絵画を提出すれば、エネルギー還元率が上がって、その分の報酬がもらえる。還元率が高くなくとも、還元するだけで報酬がもらえる」
「お金がもらえるの?」
「似たようなモンだよ。アニメを作るにはコンピュータが欲しいんだ。もっと楽に製作するためにな。コンピュータにも当然動力源が必要になる。つまり、それを動かす電気だ。今の時代、電気エネルギーは何を元手にしてる?」
「……絵画エネルギー……」
ニノンは恐る恐る呟いた。つまり、アダムの言いたいこととは。
絵画エネルギーに還元率が高いであろう原画を還元することで、よりよい設備を整えようという計画……つまりは、自給自足のような考えだ。
「でも、それは還元できたとしても、原画はなくなっちゃうんだよ?」
「それなんだよなあ」
原画がなくなることをプライドの高いアニメ製作者たちがよしとするか、だ。アニメーションの文化はアダムも直接目にしたことはないが、歴史の中でどういうものがあったかは耳にしたことがある。原作者や作画監督が描いた原画は特に大切に保管され、昔はそれをテレビなどで公開する貴重な機会などもあったそうだ。アニメの原画などのための美術館もあったとか。それくらい、日本にとってアニメとは重要な文化資源だったのだ。
それに、絵画エネルギーが発見されたとて、すぐに暗黒の時代が解消されたわけではない。フランス近辺はすぐだっただろうが、全世界に行き渡るまでには時間がかかっただろう。代用エネルギー源がなかったわけではないだろうが、原子力は危険視されていたし、天然エネルギーは雀の涙だ。日本がどうだったかは知らないが、照明も点かないのに、アニメを見るためのテレビなど点くはずもないだろう。
その当時あった日本のアニメの原画がどうなったかはアダムの知るところではないが、そうやって長年大事にされてきたものを易々と手放すほど、日本人は困窮に負けるような心は持っていないはずだ。ルカはクォーターだが、日本の心は持っているだろう。それを踏まえれば、どれだけ拘り深く、執念深いかもわかる。
「何か考えあってのことだろうと俺は思うんだけどなあ……」
「誰が、何を、考えるんだ?」
「そりゃあ……は、春子さん!?」
戻ってきた春子を見上げ、アダムもニノンも慌てふためく。
「も、戻ってきたんですね」
「ああ。それで、何の話をしていたんだ? そんなにアニメに興味を持ってくれたの?」
春子は元の席に座りながら、ニノンが手にしている原画を見て言う。ニノンが何か言おうとするが、アダムが必死になって「そうなんすよ!!」と返した。
「俺は絵を描くのは好きですけど、毎日毎日同じクオリティの絵を描き続けられるか、画家を仕事にしたいかっつったら別です」
論点を大きく逸らされたことで、ニノンがむっとする。が、アダムの言い様も気になった。
「アダムは画家を目指してたんじゃないの?」
ニノンが問いかけると、アダムはふっと寂しげに笑った。いつも陽気な彼らしくなかったので、ニノンは少し驚いた。
「好きなことを仕事にするのは理想さ。でも、続けてるうちに負担に思うようになるやつもいる」
「好きなのに、負担なの?」
「だって、仕事にしたら、[好きだからやる]ってよりは[義務]になんだろ。義務になったら、きっといつか苦しくなるんじゃねえの?」
それを越えて[好き]という気持ちを保っていられるのなら、それは誰も否定のしようがない[好き]だ。……ルカのような。
そんなことを語るアダムを、春子はその桜色の目で静かに眺めていた。ニノンが気づく。春子も何故だか寂しそうに見えた。
そう見えると、疑問をぶつけにくくなる。春子が悪い人なんじゃないかという疑問を抱くこと自体が罪のように思えてくるのだ。例えるなら弱い者いじめだ。
別に、東雲春子という人は弱くないのかもしれないけれど、寂しそうな顔をしている人に悪口をぶつける気にはならない。ニノンはそういう普遍的な優しい心を持っていた。
いや、そういう心を持っているからこそ、絵画の声や記憶が読み取れるのかもしれない。
「だから、本当に[好き]を[仕事]にする人を俺は純粋にすげーって思うよ。細かい動きまで不自然にならないように、何百、何千って枚数描いてんだ。途方もねえよ。な、ニノン」
「……うん、そうだね」
アダムの言う通りだ。春子の仕事は絵が出来上がってからのものだとしても、そういうことをしているチームの一員なのである。その苦労を理解していないはずがないのだ。例えば、ニノンがルカの仕事を傍で見て、一所懸命だとかすごいとか思うみたいに。
けれど、だからこそ、尚更疑問に思った。
「春子さん、これ、本当にルーブルに提出しちゃうんですか?」
「こら、ニノン」
ニノンの口から真っ直ぐと放たれた言葉に、アダムは焦りを見せる。せっかくフォローをしたのに台無しだ。
ニノンもアダムの気遣いを理解していないわけではない。それでも、全てをわかった上で、やはり疑問だったのだ。こんな貴重な努力の結晶を、簡単に手放してしまえるのか、と。
それは、現代において画家と呼ばれるものは絵画エネルギーへの変換のために絵を描く生き物だと言われればそうなのだが。春子が持ってきたアニメの原画はそういう目的で描かれたものじゃないだろう。春子もそれは理解している。理解しているのなら何故、とニノンは思うのだ。
春子はコーヒーを一口含み、こくりと飲み下してから答えた。
「提出するよ。理由は色々あるけど」
「色々ってなんですか?」
「ニノン! 不躾にすみません……」
「いいよ。私が少し話したいから」
春子は原画を仕舞い、ニノンに向き直った。その目はもう寂しそうではなかった。むしろ強い目だ。例えるなら、そう──戦う人の目。
戦争は知らないが、旅をする中で、矜持を持って何かに立ち向かう人の目は何度も見てきた。ルカの瑠璃色。アダムの琥珀色。
春子は桜色をしていた。桜ほど淡くはない。赤というには淡い。それでいて、強い意志を灯した瞳だ。
「まず、アニメを製作するのは日本では職業と認められている。職業なら、給料が支給されるのは当然のことだ。その資金の一環として、ルーブルに提出するのが望ましい」
それはアダムが先にニノンに説明した目的にも似ていた。ルーブルに原画を提出することで得られる利益は電力だけではない。
お金や職業が絡むと大人の事情という言葉が頭をよぎっていく。どうしても納得できない、けれど必要なこと。お金がないと生きていけないのは人間が社会を築いたからだ。
ニノンやアダムはまだ子ども扱いされる年齢である。それを否定的に捉えるつもりはないが、一人の人間として、大人よりは経験に劣るものの、瑞々しい感性を持ち合わせているからどちらがいいとも断定できない。ただ、時に大人の割り切り方を非情に感じることもあるだろう。
春子はそれをわかっているようで、どんな言葉が返ってきても、受け入れる色を浮かべている。ニノンもそれがわかったから、まずは何も言わずに聞くことにした。
「それから、製作に必要な電力の確保。AEP還元率によるアニメの価値の可視化。この価値の可視化というのは世界へ向けて再びアニメを発信する足掛かりになる」
「世界へ向けて?」
突然壮大になった話題に、ニノンが首を傾げる。薄桃色の髪がさら、と揺れた。
春子は少し熱が入ったように、テーブルに手のひらを押しつけて続ける。
「私たちが小さなグループで作ってきたアニメは世界から見ればお遊びに過ぎない。けれど、それが現在の世界を補う絵画エネルギーに大きな影響を与えられるとしたら? 人々の見る目は当然変わるだろう。個人的な趣味嗜好の範囲だったものが、多くの人に認められるんだ。それ以上に嬉しいことなんてあるか?」
その言葉に、アダムは胸の痛みを覚えた。趣味嗜好、お遊び、そうとしか捉えてもらえない絵。そういう絵には、価値がない。今がそういう時代であるということを突き付けられて、殴られたような気がした。
下手に体を殴られるより、遥かに痛みは大きかった。けれど、その通りだ。
例えば、アダムがこれまで回ってきた様々な街で描いた旅の四人の絵の下書きは[絵画]ではないだろう。まず完成していないというのもあるが、やはり、[好き]の気持ちは他人に易々と届くものではなく、付加価値がなければ認められないのだ。
春子が持ち込んだアニメの原画も、ルーブルに提出しなければ同じ、お遊びの娯楽だ。個人の娯楽に他人は興味を示さない。だからこそ、[役に立つ]という価値が必要なのだ。
だが、ニノンはそうは思わなかったようだ。
「その[価値の可視化]って、作ったみんなが大切にしているものと引き換えにしてでも必要ですか?」
ニノンの言葉は真っ直ぐだった。原画に触れて、声を聴いたからわかる、原画を作った彼らの[愛着]と即物的な利益をニノンは天秤にかけさせようとしていた。
認められるために手段を選ばないのか、認められなくてもいいから大切にしたいのか。
答える前に、春子はコーヒーを飲み干した。痕跡の残るカップの焦げ茶色は掠れたインクのように淡く、小さな泡を象っていた。




