月白に染まる夜、貴方を想う
いつか、貴方に伝えたいと思っていた言葉があります。
粉雪が舞う。かつて過ごした場所もまた、雪が良く降る地域だった。真白く染まる庭先。雪に影は黒ではなく薄い青色をしている、そう教えてくれたのは幼馴染みの少年だった。
「薄氷の、写す花火は移ろいやすく」
差し出した手のひらに舞い降りる淡い氷の、解ける様を見て少女は歌を紡ぐ。濡羽色の髪を結わえていた灰桜の組み紐を解けば、癖のないその髪は肩から流れ落ちた。
かつて暮らしていた優美な屋敷に比べ、比べるのも烏滸がましいほどに質素な寺小屋の二階。小上がりの窓に腰を下ろし、木目も露わな手摺りに身を預けたまま少女は歌い続ける。手慰みに組み紐を弄びながら彼女が口遊むのは、かつて共に庭先を掛けまわり、笑いあった少年が好んでくれた唄。
ずっと隣にいられると思っていた。身分の違いのことは分かっていたつもりだった。だが、結局自分は何も分かっていなかったと思い知った裳着の朝。着飾った少女は屋内にいて、彼女より一足先に元服を済ませていた少年は屋外で膝をつき、臣下の礼をとる関係に変わった。
「氷輪淡く照らす宵の果てなら彼の人は居りましょうか」
童歌のように歌っていたこの歌が、切ない恋の歌と知ったのはいつだったか。歪む視界を避けるように目を閉じれば、鮮明に思い出されるあの日の記憶。
――行って参ります。
優しさが滲む、彼によく合う柔らかな声音が好きだった。
――僕は、僕の願いのために行って参ります。
突如襲い掛かってきた戦禍。つい先日まで友好国として長年ともに歩んできた筈の隣国が、予兆もなく矛を向けてきたあの日。王たる父と妃の母は交流の為に招待されていた隣国の城内で護衛ともども無残に害された。国元に置かれた兵も精鋭とはいえ小国ゆえに相手の物量に押され、もはや国の終わりは時間の問題。せめて戦えぬ民たちを救うべく立てられた計画に紛れ込ませた、唯一の王族にして国の象徴たる姫巫女の脱出。それが決まった日に彼が見せた、決意を秘めた目を忘れない。いや、きっと忘れられない。
本当は止めたかった。共に来てくれと請いたかった。国を愛してくれる民たちが、その象徴とも言われる立場の自分を護る為に戦い、そして、その多くが命を散らせていることも知っていた。
だから、この気持ちが我儘で傲慢だとも分かっていた。しかし、それでも彼には行ってほしくなかった。少女を護るというのなら、自分の傍で護ってほしかった。共に在ってほしかった。
そして、きっとそんな彼女の胸の内を分かっていたのだろう。彼は少女が願いを告げることを良しとしてくれなかった。募る言葉を飲み込まざるを得ない覚悟を秘めた目に、それでいて幼き日と変わらない優しい眼差しに、先に制されてしまった。
「共に、いきたかった・・・!」
何故、彼は臣下だったのだろう。何故、自分は姫なのだろう。何故、巫女などに選ばれてしまったのだろう。そうでなければ出会えたかどうかも分からないのに、もし違ったら、或いは――その可能性を考えては現実にはどうしようもない苦悩に胸を焼かれる。
「姫巫女様」
一筋の涙が少女の頬を濡らした時、扉を隔てた先から侍女の声が届く。そう、この寺小屋は中継地点に過ぎず、まだ敵国の勢力圏内だ。もっと先に逃れなければ、追っ手に追いつかれてしまう。
「麻姑、私は問題ありません」
頬を拭い、立ち上がった少女の顔にもう憂いはなかった。少女としての心など、表に出してはいけない。彼女の立場がそれを許さない。
「すぐに出立を」
まだ大人になり切れない少女の顔は胸の奥深くへ隠し、嶺染國次期国主にして姫巫女たる桂花となる。この身を護ると誓ってくれた多くの民の為に。
「急ぎましょう、私は生きねばならないのです」
そして、きっと今も戦い続けてくれている『彼』に再会するためにも。
いつか、貴方に伝えたいと思っていた言葉があります。
そのいつかは、なかなか掴めないままこのような状況になってしまいましたが、それでもそのいつかを夢見て、私は生き抜きます。力を蓄え、必ず故郷の地に立ちましょう。
だから、どうか――
「あなたも生きていてくださいね、翡翠」
真白い雪景色に黒一点、夢幻のように去りゆく小さな背中は凛としていた。
それから数刻の後、寺小屋から少し離れた山で数発の銃声と馬の嘶きが響く。雪によって薄まっていく少女の残した足跡の傍に音無く落ちた「それ」は、誰にも気付かれることなく雪が覆い隠していった。
やっぱり上手く書けない。。。
拙作をお読みいただきありがとうございました。