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Track. 3

 蒼い月明りが、カーテンのレースを縫って窓から射しこむ。

 彼女にはハーブティーを飲んで酔いを覚ますよう促した。いくらお酒が強いとはいえ、あのペースでジャックダニエルのロックを3杯はまずかったらしい。


「あんまり無茶すんなよ」

「確信犯なんだけどね」


 唇しか見えていないのに、したり顔ということが分かる口元だった。

 

「――普段はあんまりお酒とか飲まないんだよ」

「へえ、タバコは吸うのに」


 ふたりして月を仰ぎ見るような格好で、三角座りで並んだ。


「ほら、酔いすぎると意識遠くなるでしょ。吸い込まれるみたいに眠って、意識が飛んじゃう。――その感覚が怖いの。そのあと目が覚めないんじゃないかとか考えちゃってさ」

「普段眠るときもか」

「ちょっとね。だからさ私すっごい寝つき悪いよ」


 乾いた自嘲が、静かな部屋に木霊した。死ぬことを怖がるだけではダメだとか、美しく死にたいだとか。そんな言葉をかつて言ったカンナがひどく弱く見えた。いや、酩酊の中紡ぎ出す弱さこそが、カンナの本心なのか。あの発言は自分を鼓舞していたということなのか。


「死ぬことが怖いのと、眠ることが怖いのは似ているんだと思う。どっちも意識がなくなることを恐れている。――でもね、一緒にいるとね。夢中でさ。そんなこと何も考えられなくなっていた。

 ――ねえ、楽しかった?」


 僕は首を縦に振った。紛れもない事実だ。――思えばここが、僕と彼女の分岐点だったと思う。

 賽は投げられた。


 彼女は僕の方に向き直って覆いかぶさるようにして、僕を壁に押さえつけて固定した。


「――カンナ?」

「ねえ、私はさ。耐えられないの。このまま誰の温もりも知らずに死ぬまで、檻を着て生きていくことが――」


 檻を着ている。自由と引き換えに命の保証を自分に与える無菌衣をなじった表現。KAORIのデビューシングル“White Baby”で使われていた表現だ。


「ねえ、私と一緒に死んでくれる?」


 彼女が僕を磔にして言った言葉。

 それは、KAORIが捨てたもう一つの未来を僕らが背負うことを表していた。


 僕は、カンナの顔を知らない。それは無菌衣に包まれて、摂食の際に口元が露出するだけだ。僕が知っているものは、澄んだ声とそれとともに鼻孔に届けられる、甘くて苦いタバコの匂い。あとはほとんど彼女の内面的な情報。ジャックダニエルのウイスキーが好きなこと。僕よりお酒に強いこと。

 ――でも僕はカンナの姿を知らない。

 髪色も、髪の長さも、鼻の高さも、耳の形も、目の色も、肌の色も、肩幅も、腕の細さも、胸の膨らみも、おへその形も、お尻の丸みも、太ももの柔らかさも、膝の綺麗さ、脚のラインも、足の小ささも、爪の照りも。

 知らない。知らない。


 僕は知りたかった。


 その代償の大きさを知ったかぶって、僕は彼女の願いを受け入れた。

 

 彼女は僕の前で、無菌衣の袖口のボタン。赤と緑のボタンを長押しした。ぷしゅうという音を立てて、彼女の無菌衣は背中が開いた。僕の目の前で彼女は無菌衣を脱ぎ捨てた。蛹から羽化する蝶のようだった。

 透き通るような白い肌。儚げな銀色の髪。――それは日光に当たらない無菌衣を着た人間の一般的な特徴らしい。でも自分以外でそれを見たのは初めてだ。それも異性のものは。薄桃色のブラジャーに包まれた胸部の膨らみ。縦長のおへそ。つきだしたお尻。細長い脚。少し痩せすぎた、儚げな印象を醸し出す彼女の真の姿に、僕は釘付けになった。一晩で咲いて散る、美しい花がある。月下美人。彼女は、その花そのものだった。


「ほら、あなたも」


 僕の口元を指でなぞり、震える声でそう言った。

 ――そして、僕らは一糸まとわぬ姿となって、互いに互いの口を吸い合うようにして舌を絡め、指を絡めた。フローリングの床を、ごろごろと転がりながら互いの背中や胸をさすりあった。血管に流れたことのない量の血潮が満ちて、下腹部が熱を持つ。

 彼女は笑った。生まれたての姿に似合う屈託のない笑み。


「ねえ、心臓がすっごくはやく動いてる。――あなたも?」


 そう言って僕の武骨なくせに、弱弱しい色をした右手を胸の膨らみにあてがった。左の乳房。人肌の温もりと柔らかさの奥から命を歌う鼓動が聞こえる。二つの鼓動が共鳴し、互いに競い合うようにリズムを早めて行くのが分かった。それを感じて僕らは、噛み締めるような笑みを鏡合わせのごとく同時に漏らした。

 彼女が首筋にピンク色の舌を這わせた。

 かすかに粘りを帯びた彼女の唾液が、僕の骨の浮き出た皮膚に照りを与えた。やがて声を出して笑って、泣いて。

 僕らは、月夜に照らされながらじゃれ合う猫の(つがい)になった。


 好奇心は猫を殺す。


 その言葉の意味を、このときの僕らは忘れていた。


*****


 次の日の朝。――僕は、爽やかな朝日ではなく、息苦しさで目が覚めた。鼻が詰まっている。意識がはっきりとしだすとともに、のどの奥が鈍く傷みだす。口で息を吸うとぜーひゅーという音がした。――あのまま裸で寝たのが、早速身体に障ったらしい。


「――裸で寝たら風邪をひいたなんて、子供みたいね」


 彼女が掠れた声でそう言った。

 僕は、昨夜に咲いた一輪花が、まだしおれていないことに胸をなでおろした。

 彼女は昨日脱ぎ捨てた下着を着用し、「アンダーウェアを借りていいかしら」と尋ねた。無菌衣には体温調節機能もあるが、そこまで優れているわけではない。冬季は、中にも肌着の他の服を着用していないと、寒さに凍えてしまう。

 丈は合わないだろうが、出かけるには服を着なければならない。しばらくして、僕らはアンダーウェアに身を包んだ。外に出るということを意識していないデザイン。僕らは上から下までカーキ一色になった奇妙な格好を、互いに笑った。――笑った拍子に咳が出た。喉に痰が絡んでいる。


「もう、私たちもどれないのね。これから、少しずつ私たちは死んでいく」

「ああ」


 がらがら声で、喉に疼きを抱えながら会話をする。


「やっぱり、海に行きたい。死ぬなら海がいいかな」

「じゃあ、海に行こう」


 僕が即答すると、彼女は目を丸くした。


「どうやって行くの?」

「人気のいない山間部だと海岸線への侵入を阻むバリケードが簡略化していく。金網や有刺鉄線で済ませているところもある。――バイクでそれを突き破る」

「――いいわね。映画みたい」


 互いに悪童のような笑みを浮かべた。


 ――オーディオカスタマイズされた車体に、ジャンク品の音楽プレーヤーを繋げた。イヤホンジャックを差し込むとともにぶつりと音がした。バイクのオーディオシステムを作動させるのは、少し久しぶりだ。ノイズが数度入った後に、荒々しいギターサウンドが食いこんできた。


「“White Baby”ね」

「全シングルが入った、KAORIが最後に出したベスト盤だ」

「もう私たち、“White Baby”じゃないけどね」

「違いない」


 腹を抱えて笑いながら、車体に跨るふたり。

 マフラーの音と爆音で鳴らすKAORIの楽曲。早朝からなんとも近所迷惑なカップルの登場だ。見た目は上から下までカーキ一色のアンダーウェア。僕らを見て周りは、沸き起こる笑いを抑えきれないだろう。――でも僕らにはそんなこと関係ない。


「あなたは神に恵まれただけ――なんて綺麗ごとは糞くらえええええっ!」


 彼女が背後で歌詞の一節に合わせて叫んだ。

 それに「ホウーッ!」などとファルセットの合いの手を入れて、アクセルをふかして法定速度を超えていく。交通量の少ない夜明けの街を走るのは痛快だ。

 恐ろしく速く流れる電柱や街頭。そして街行く人々。

 そして、僕らは街中を外れてさらに交通量の少ない山間へと入っていく。


「どこの海に行くのーっ!?」

「このまま山道を抜けて北上するーっ!」


 ヘルメットをしているうえに、車体は揺れ、爆音の音楽とエンジン音。僕らは互いに大きな声で叫ばないと意思疎通ができなくなってしまった。排気ガスと、清浄度の保たれていない外気は、僕らの喉をじくじくと刺した。

 それでもフィルターや、無菌衣の陽圧に阻まれていない空気は、ずっと美味しく感じた。スピードに逆らって皮膚を撫でる風も、すべてが心地いい。――やっと生きることを許されたかのような感触だった。


 山道にはところどころ枯葉が落ちていた

 それがそのまま風に誘われて森の中へと溶けていく。少しずつ、風の吹いてくる方向が定まり始めるのを感じた。木々も風にそよがれて揺らめいている。――海に近づいてきている。

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