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Track. 2

 通りに面した喫茶店のテラスで、僕は舌を巻いた。

 僕がコンビニで口ずさんでいたデビューシングル“White Baby”はもちろん、活動停止とともに出したベストアルバムまですべて押さえていた。彼女がKAORIのファンであることは、まごうことなき事実だったのだ。

 彼女は、グラス注がれたアイスコーヒーにフレッシュを注ぎ入れる。


「フレッシュは、植物性油脂でつくった牛乳の紛い物なの」

「知ってる。――でも牛乳は、僕らには禁じられている」

 

 話しているうちに同年代であることを知り、敬語は解けた。


 彼女の名前は、カンナ。花の名前からとったらしい。

 花言葉は、“永遠”。――「私たちには縁遠い言葉ね」と唇が笑う。僕は、彼女の顔を知らない。

 タバコとアイスコーヒーのために、露出させた唇だけが、僕が知る彼女。


「私たちには、禁じられていることばかりね。――ミルクの味も知らない。タバコだって、私たちの中で吸っている人は少ないわ。みんな、死が来るのを怖がっているのよ」

「カンナは、怖くないのか。僕らは、伝染病に対する免疫がない」


 彼女の会話の途中で、僕はまた殺菌灯の光をテーブルに照射した。口を露出させているときは、数十分おきの殺菌灯(こいつ)が欠かせない。


「――怖いわ。でも、思うの。いつまでも怖いだけで生きてちゃダメだって。いつか死ぬという運命は、私たちに課せられた唯一の普通の宿命なの。だから、後悔のない死に方をするために生きたい」


 紫煙をくゆらせて、カンナはそう言った。

 

「私は、美しく死にたい」


 その煙が、陽圧の無菌衣の中へと微かに香ってくる。ヤニの匂いとメンソール、ラベンダーの香りも混じっている。そして、彼女自身の匂いも。――少し、頭がぼうっとしそうになった。

 彼女が口にした言葉には、聞き覚えがあった。


「“VEIL OFF”の歌詞にあったよね」

「そうっ」


 ベストアルバムにも収録されている、KAORIのラストシングル。出かける前に部屋で爆音で聞いていた曲だ。歌詞では、無菌衣の中であらゆる感染の脅威から守られた世界を、“過保護な世界”と歌っていた。

 その中で夢見たものは、海を見て死ぬこと。


「――あれはね。彼女が先天性免疫不全と決別するためのレクイエムだったと思うの。彼女は、お金を払って普通の人間になることを選んだ。それと同時に、普通じゃない彼女は死んじゃったの」


 沿岸部には検問があって、僕らは高額のパスを買わなければ、そこを通過できないようになっている。そんなに裕福な生活をしていない僕には縁遠い話だ。


「壁の向こう側には清浄度を保つ設備がないからね。私たちには特殊な警備がつくわ。その費用としてパスの購入が求められる。彼女も夢を見てたのね、無菌衣を脱いで海を見ることを」

「でも、今の彼女はそれができる」

「彼女が言った美しいという言葉は、容姿もだけど、清浄度の保たれた無菌衣に守られた身体のことも暗喩していたんじゃないかな。そうすると、“この身体が穢れを知る前”にというのも、理解できる」


 カンナの解釈に僕は、ハッとさせられた。タイトルにもあった“VEIL”というのは無菌衣の俗称のようなものだ。“OFF”、それを脱ぎ捨てる。それは、普通の人間になるという決断をしなかったKAORIの望む最期を刺していた。


「私たちも、この無菌衣を脱いでも、感染さえしなければ生き永らえていられる。――ただ、そのリスクが異様に高いだけ。そして、それを社会が許さないだけ。でも、私たちが感じている壁は結局は、感じているに過ぎない」


 ようやく、KAORIが最後のインタビューで発した言葉の意が、汲み取れた気がする。


“――私はきっと強い人間ではないと思います”


「カンナは、あのとき裏切られたって思った?」


 僕がぶつけた質問に、彼女は乾いた笑いを交えて、首を横に振った。

 

「まさか、ただのファンが彼女の人生に口出しは出来ないわ。彼女が幸せならそれでいいの。――ただ、アーティスティックな生き方ではなかったんでしょうね。彼女もそれを自覚して、活動を停止したんだし、それ以降の復活を望む声にも一貫してNOと言っているわ」


 そうだな。僕も乾いた笑みを添えて賛同した。

 KAORIの生き方を否定することは僕もできない。仮にそれをすれば、KAORIはあのとき死ぬべきだったと言うようなものだ。

 ――でも、同時にカンナが言った、「アーティスティックな生き方ではなかった」という言葉にも、同感だ。もし、KAORIがその夢を叶えて美しく死んだなら。それこそ、その生き様を伝説と称えて、カンナと盛り上がっていたのかもしれない。


 そんなことを思い浮かべながら、僕は彼女と別れた。

 僕のアドレス帳に、彼女の連絡先が新たに加わった。――連絡先が増えたのは、5年ぶりかそんなくらいだった。


*****


 それから僕は、彼女と頻繁にやり取りをするようになった。週に何度か顔も合わせるようになった。でも、僕は彼女の顔をまだ知らない。


 住宅街の一角。

 趣のある重たい木製のドア。鎖樋のぶら下がる庇の下に、燭台が置いてある。そこに灯りがともれば、店が開いている証拠だ。


「本当にここなの?」


 彼女は首を傾げている。行きつけだから分かるが、知らない人が見たら、少し古い一軒家にしか見えない。――僕は、まるで彼女を異界への入り口へと誘う案内人のよう。まごつく彼女の様子を見てにやけていると、彼女は「この意地悪っ」と悪戯っぽく言った。――こつんと僕のつま先を蹴りながら。

 いい加減にしないと彼女が怒りそうだから。僕は、彼女を異界へと招き入れた。 

 中では控えめなボリュームでジャズが鳴っていた。間接照明が柔らかく店内を照らしている。フィルターを通して無菌衣の中に流れ込んでくる匂いだけじゃ、この場所を楽しむことはできない。僕は、袖口の赤色のボタンを押して、口を外界へと露出させた。彼女も遅れて開放する。

 鼻孔にアロマキャンドルとウイスキーの香りが流れ込んできた。アロマキャンドルは、香りを添えるとともに、カウンターの手元をほの明るく照らしている。そしてカウンターの向こう側はひときわ明るく、スキンヘッドにちょび髭がトレードマークのマスターがグラスを拭いていた。


「いい雰囲気の店ね」


 僕がカウンターの椅子を引くと、彼女は小さく礼をして座った。


「カンナは何飲むの」

「そうね。ジャックダニエルをロックで」


 ジャックダニエルは、度数の高いウイスキーとして有名で40度を誇る。喉を熱くさせるとともに、強い香りが鼻に抜けるのが特徴だ。そんな香りも度数も強いウイスキーを彼女が頼むのは意外だった。――もしかして蟒蛇(うわばみ)だったりするのか。変な反抗心が湧いて、僕も久々にジャックダニエルを頼んだ。


「知ってるでしょ。30度以上のアルコール類は、殺菌灯の照射なしでも飲用が可能なの」


 なるほど。彼女はお酒本来の風味を愉しむために、敢えて度数の高いものを選んだのか。殺菌灯の照射は、風味を著しく殺すものではないが、気持ちの持ちようというものがある。

 丸氷がカラカラと音を立てるタンブラーグラスを傾ける。冷やっこい温度が口の中に広がり、口中で蒸発するアルコールの熱とともに芳醇な香りが鼻に抜ける。


「美味しいっ」


 ちびちびと飲む僕と比べて、彼女の飲みっぷりは威勢のいいものだ。僕がやっと2割を飲んだかというところで彼女はそれを飲み干していた。


「よく飲めるな」

「うん、ここで飲むとより一層美味しくて」


 つきだしのナッツをかじりながら尋ねると彼女の唇が笑った。酒に濡れた口元はいつもより艶やかに見えた。


「ねぇ、あの映画また見たいな」


 彼女は、3杯目のウイスキー。僕は、彼女に追いつくことを諦めた。多分命が危ない。――それに、彼女も呂律が怪しくなってきている。


「あの映画って」

「ほら、あのさ。顔を知らないネットで出会った他人どーしが、実際にあって恋に発展していくやつ。女の子がさ、惚れっぽくてめっちゃかわいかったー」

「ああ。あの映画良かったな」


 タイトル忘れたけれど。


「あーいうのって男が惚れんじゃん。でもそこで敢えて女の方がってのが意外性あった」

「照れ隠しとかいちいち可愛かったなー」

「ねー。最後はキスしたんだっけ」

「最後のキス、妙にがっついてなかった?」

「それまできゅんきゅんだったのに、むっちゃエッチいキスで笑ったわー」


 映画の内容を話しながら、彼女は身体を揺らして頻りに笑っていた。相当出来上がって来たらしい。会話は出来ているが、時折うつらうつらと目を閉じてはびくりとはね上がるようになった。


「帰れるかー、カンナ」

「うーん。帰りたくはないかなー」


 なんだよ、それ。半ば呆れていたところ、彼女はゆらっと僕の肩にもたれかかった。そしてまるで僕の匂いを嗅ぐように、くしゅくしゅと頭部を擦り付けた。

 思わず背筋が伸びて、背中の毛が逆立ったところを汗の滴が撫でた。


「――ねえ、今日はさ。一緒にいようよ」


 彼女がもし帰れなくなったらを考えて酔いを抑えていた俺は、そこで別の酔いに襲われた。

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