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Track. 1

 しゅーっ。フィルターを通して空気を吸う。

 こーっ。吐いた息は再び、フィルターを通して外へ出る。

 青い青い海の中。褐色のサンゴと色とりどりの魚たちに囲まれながら、ごぼごぼと泡を出すダイバーのような呼吸音。――でも僕は泳いでいない。僕はきっと、母なる海の冷たさも温かさも知ることはないのだろう。


 僕が自分以外の体温を知らないように。


 僕らには特別な性教育が与えられる。

 夢も希望もない内容だ。――僕らの中にも男と女がいる。ぱっと見でそれを見分けるのは難しい。僕らは性差のない格好を強いられている。真っ白でてらてらと光沢を放つのは、内部の機密性を保つチタンを練りこんだ無菌衣(クリーンベール)。それをつま先から、指先、頭まですっぽりとかぶる。身体の凹凸も、逞しい筋肉も、長く美しい髪も、全て奪われて僕らは記号化される。


 僕らの子孫は弱い。

 僕らの精子や卵子には、悪い遺伝子が入っている。

 それが片親にでも含まれていたら、その子孫は僕らと同じ生活を強いられる。それでも子孫を残したければ、精子と卵子を体外で混ぜるより他はない。――配偶者は触れ合いもせず、隔離されたままでだ。


 僕らは、あらゆる菌から隔離されなければいけない。

 だが皮肉にも、僕らは害悪遺伝子を持つものとして、重篤な伝染病の保菌者のごとく、腫物の扱いを受ける。


 ――これは、愛を歌えない先天性免疫不全症患者(ぼくら)が歌う、愛の物語。






 ステレオスピーカーの音量つまみを最大まで上げる。ジャンク品で買った音楽プレーヤーに繋がれた振動子が唸りを上げる。コンパクトディスクなる前史の円盤から紡ぎ出される音色。

 ステレオスピーカーが空気を振動させ、サブウーハーが床を拍動させる。――荒削りのレスポールの音色が爆音で流れてきた。なんとも男臭い音色。その演奏に切り込んでくる声は、蹴たぐりつけるようなハスキーな女性の声。――いつ聞いても彼女の声は、背骨を電撃が走るようだ。


 無菌衣(ベール)越しに伝わる音色はどこか曇っている。

 近所迷惑も甚だしく、最大音量でスピーカーを震わせるのも、全身を外界から遮断する無菌衣こいつが邪魔だからだ。無菌衣には内部に向けて音を放つスピーカーもあるが、音楽プレーヤー付属のイヤホンがあまり音が良くないのと一緒で、大したものではない。なにより、合計10数万円も注ぎ込んだ2.1チャンネルのスピーカーを持っている僕からすれば、そんなもので音楽を聞く気にはなれない。――そんなもの、彼女には失礼だとすら思える。


 彼女は僕の初恋であり、最初の失恋。

 9年前。彼女は遺伝子手術とともに活動を停止した。

 彼女も先天性免疫不全症患者のひとりだ。ライブにも何度か足を運んだが、無菌衣の中身を見たことはなかった。彼女の本当の姿を見たのは、活動資金を使って受けた遺伝子手術が成功し、彼女が晴れて普通の人間となった時だ。


 免疫レベルも普通の人間と同じぐらいになり、無菌衣無しの生活を許された彼女の姿。憧れた金色に染めたという髪。まだ青さの残る唇、白い肌。どこか儚げな美しさだった。――この時彼女は28歳。デビューして10年の月日が立っていた。


 彼女の名前は、KAORI。

 僕の心に傷を残した曲が、スピーカーから流れ出てきた。“VEIL OFF”――彼女が最後に出したシングル曲だ。


歌を聞かせて 過保護な世界に

生きる保証を 自由と引き換えに

強くなれない あたしは翼じゃ

飛べないくらいに肥えて 這いつくばっている


見上げられたものじゃない

もっと早く決めるべきだった 

この身体が穢れを知る前に

美しく死にたかった


どこまでも飛んでいく 純白のこの衣を

脱ぎ捨てて 海の青さを 

この目に焼き付けて 壁の向こう側へ


『この歌は、もう一度自分が生き直すことが出来たら、こんな風に生きてみたいなって思って作りました。――私はきっと強い人間ではないと思います。こうして、私が普通の人間のように生きているということを望んでいた人も、それで裏切られたという人もいるんだと思います。私はこうなった以上、KAORIとしては死んだんだなと思います。

 ――ですから、これは私の新しい声であり、最期の声であり、後悔の声です』


 頭の中で彼女の最後のインタビュー映像が流れる。

 彼女の言うことはよく分からない。「私はきっと強い人間ではない」――どうしてそんな謙遜を彼女が言ったのか。彼女は僕らの声として10年間をひた走ってきた。そんな彼女が強くないだなんて。

 それから数年後、彼女は一般人の男性と結婚したことが報道された。心の奥底で、何かがくしゃくしゃに丸められるような音がした。


 そんな幼い憧れを心の中で思い返しながら、冷蔵庫からミントスカッシュの瓶を取り出す。スペアミントを加えた炭酸水だ。ミントも炭酸も菌の繁殖を抑える効果があり、こいつは僕らのシンボルのような飲み物だ。味は悪くない。ホップで苦みを加えたものもなかなか乙な味がする。

 さて、僕らが外界に触れることのできる数少ない機会が食事だ。しかし、それはいささかスリリングな体験である。


 まず無菌衣の左手首に、液晶画面が埋め込まれたデバイスがある。こいつはセーフティーウォッチと言って、無菌衣の外部と内部の温度、湿度、清浄度が示されるようになっている。清浄度とは大気中に含まれる微粒子の量を表し、僕らにとって感染リスクを見極める重要な指標だ。

 液晶画面の横には緑色のINと記されたボタンと、赤色のOUTと記されたボタンがある。赤いボタンを押すと内部が陽圧になった状態で口の部分が開閉し、露出する。――ちなみに、このINとOUTを同時に長押しすると、背中が開いて無菌衣を脱ぐことができる。 

 そしてポケットから、銀色のペンライトのようなものを出す。これは殺菌灯。電子線のフラッシュで照射範囲を一瞬にして殺菌する。殺菌してから10分は、清浄度が持続する。その間に食事を済ませるのだ。まあ、危なくなったらもう一度殺菌灯を使えばいいのだが。

 僕らの食事は、どこか忙しなく、風情がないのだ。


 急ぎがちに流し込んだミントスカッシュが、喉に突き刺さる。グラスに注いだ分は必ず一口で飲まなければならないから、誤って一気に注いでしまったときは焦る。軽く咳き込む。ここで常時服用が義務付けられている抗生物質の飲み忘れに気づき、もう一度ミントスカッシュをグラスに注ぎ入れる。ポーチの中から抗生物質を取り出そうとしたが、こちらも切らしていることに気づいた。

 ――こいつは弱った。また買いに行かなくては。

 幸い、かったるい診察は受けなくても、抗生物質の一部はサプリメントの感覚で店頭で購入することができる。

 コンポゲージの電源をぷつりと切る。

 築数百年のおんぼろアパートは、扉の油が足りず、ぎぎぎと音を立てる。いいかげん油を挿したいところだが、管理人の許可も得ずにやるのは気が引ける。――最もその管理人も、いてもいなくてもいいような存在なのだが。

 

 かんかんと朽ちた鉄製の階段を降り、アスファルトの地面を踏みしめる。赤さびのついた鉄柵にハンドルロックで括り付けた僕のバイクを解放する。音楽プレーヤーと同じくジャンク品だが、よく動いてくれる。YAMAHAというロゴが刻まれたいかつい車体に跨り、エンジンキーを回す。


 街には何人か、宇宙服のようなスーツを着用している人がいる。――無菌衣を着ている僕らの仲間だ。無菌衣は、いろいろデザインもあるが、多くはスマートフォンのように、マイナーチェンジに過ぎず、概ね同じような見た目をしている。外見から誰が誰かを判別するのは難しい。僕らから個性を奪う格好だ。


 大昔に舗装された道路は、ほころびを見せている。車輪がなぞるたびにアスファルトの欠片たちが表面をころころと駆けて行く。西部劇で荒野を転がる回転草のようだ。

 この道路がまだ新しかったころ。人々はもっと夢を見ていただろう。ずっと前から撤去する声明を政府が出している電柱もまだ残っている。車もまだ空を飛んでいない。――せいぜい、電気自動車が普及したぐらいか。燃料が電気に変わったぐらいで、自動車の見た目はそれほど変わっていない。

 代わりに変わったところと言えば、それこそ、僕らの存在だろう。


*****


 自宅からほど近いコンビニにバイクをつけた。

 雑誌を買ったり、飲食料を買うときはたいていここだ。――新聞の紙面が目に入る。


”先天性免疫障害者、過去20年にわたり、増加の一途”


 僕らの人口は、どんどんと増えているらしい。そうも珍しい存在ではなくなってきた。僕らの暮らし方、人権、幸せな人生の築き方など、市の単位での講習会もかなりの頻度で開かれている。――何度か受けてはみたが、それで納得のいく幸せな人生が送れるとも思えなかった。


ありのままが良いなんて そんなプライド持てやしない

幸せが権利だなんて謳うセミナーたくさんだ

しがらみも壁も脱ぎ捨てて 素っ裸で歌いたい

こんな気持ち我儘ですか?


あなたは神に恵まれただけ

――なんて綺麗ごとは糞くらえっ!


Baby Baby White Baby! 僕らはみんなWhite Baby!

Baby Baby White Baby! 病に愛されちゃったのよ

Baby Baby White Baby! 死ぬのが怖いのWhite Baby!

Baby Baby White Baby! 檻を着て今日も歩いてる


 頭の中で激しいギターとともに、KAORIの歌声が流れた。まだ僕らが珍しい存在だった頃に出され、過激な歌詞がマスコミを騒がせたデビューシングル、“White Baby”。過激で赤裸々なメッセージに、僕は一発でノックアウトされた。

 ――気がつけば、小声で口ずさんでいた。


「そーこ、邪魔ですよ」


 背後から声が聞こえた。

 抗生物質や風邪薬、健康食品が置いているコーナーで僕は後ろから声をかけられた。あまりにも夢中になっていた僕は、肩をビクンとはね上がらせて飛び跳ねた。その驚き様に、その人は噴き出してお腹を抱えて笑った。


「驚きすぎっ」


 こもっているが、声色で女性と分かる。体格も男である僕と比べると小柄だ。――だけど、どんな容姿かは分からない。彼女もまた、僕らと同じ身の上だった。無菌衣は個性を否定する。


「――思いっきり聞こえてましたよ。好きなんですか、KAORI」


 彼女に鼻歌を聞かれていた。――思わず赤面する。こういうとき、無菌衣は便利だと思う。彼女に僕の表情は見えない。


「え。ええ。好きです。デビュー当時からずっと聞いています」

「本当ですかっ! 私も大ファンなんですっ!」


 今度は、彼女が小動物のように飛び跳ねた。

 

 ――抗生物質を2日分購入した。合わせてスナック菓子とミントスカッシュも。僕のすぐ後で彼女も会計を済ませた。驚いたのは、タバコも買っていたことだ。


「そんな珍しいですか? KAORIも吸ってましたよ」


 彼女は、無菌衣の上からでも僕の表情が分かったみたいに話しかけてきた。――もしかしたら、僕が赤面していたのもバレていたのだろうか。

 そして何より、彼女もKAORIの音楽が好きだ。KAORIが活動停止して9年も経つ。コアなファンもいるが、自分の周りでファンだという人とは会ったことはない。――僕は彼女に興味が湧いた。


「あのっ」

「はい」


「よかったら、KAORIのこと、お話しませんか?」


 思えば、女性を誘ったのは、これが初めての経験かもしれない。――そう考えると、どうにかなってしまいそうなくらい緊張した。

 タバコを吸いかけていた彼女は、それをケースに戻し、首を縦に振ってくれた。心が風船のようにふわふわと飛んでいくのを感じた。あまり魅力的に思ったことはないタバコが、無菌衣の狭い視野を通して僕の脳裏に焼き付いた。細くて長いそれは、女性の線の細い指を思わせる。――僕の胸に彼女の灰が降り注いで、焦げ跡ができるような感覚を覚えた。


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