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ところが、
そんなよいおしょうさまであるにもかかわらず、
一部のひねくれものの村人たちは、こう噂します。
「なんで、あの坊主だけ、たくさん儲けているのだ。」
「どうせ、裏でなにか悪いことでもやっているに違いねえ。」
「悪いことでもしなければ、お金はてにはいらねえべや。」
「ボーズは、豪邸なんぞに住まずに、ただ祈ってたらそれでええんだ!」
お坊様はその声をきいて、どうしたらいいかわからなくなりました。
「なぜ、立派に生きているのに、こんなことを言われなければならないのだろうか。」
ほかの村人たちは、こういいます。
「おしょうさま、気にすることはありませぬ。
あいつらは、もともと性格が悪いですから、うらやましがっているだけなのです。」
しかし、おしょうさまは深く考えたのち、
「ああ、私が彼らのことを知らない、気持ちを分かってあげられないのももっともだ。」
と、言いました。
その日の晩、
おしょうさまが寝ていると、
夢の中に、光の中から雲に乗った天女が出てきていいました。
「あなたの今のありかたは、まちがっていますよ。
あなたにはまだ、手に入れていないものがあります。
あなたには、まだ、すてていないものがあります。
あなたは、まず、すべてをすてなければなりません。
もっともっとよいことのためにあなたを使いなさい。」
目を覚ますと、おしょうさまは、その天女のいった意味をしばらく考えました。
「ううむ、やはり、この御殿も、馬車も財産もみんな捨てて、
貧しい人たちに寄付しなければならないのだろうか。」
すぐに、おしょうさまは、
豪邸も馬車も売り払って、
お金にしました。
そうして、旅にでることにしました。
村人たちは、驚いて口々に言いました。
「いったいどうしてしまったんだ!?
そこまでするこたあねえのに。」
と。
道を歩いていると、
自分の悪口を言っていた村人たちが、うれしそうな顔をしてやってきました。
うれしそうといっても、喜びの顔ではなくて、なにかものほしそうな顔です。
「おしょうさま、お金ができたんですってね。
わたしらにも、お分けください。」
おしょうさまは、その村人たちに、運びきれないほどの小判を与え、そして、いいました。
「さあ、これでどうだ。
しっかりと分かち合って豊かになりなさい。」
「え?本当ですか?」
「本当だとも。」
信じられないというような顔をしていた村人たちも、
のことを聞くと、一斉に小判に群がりました。
おしょうさまが、その場を離れさると、
小判の近くでは、殴り合いの大喧嘩が始まりました。
「これは、俺の分だ!」
「何を言っている!俺のものだよ!」
「ボーズは、俺にくれるって言ったんだ!」
「なにお!このお!?」
そんなことをしている間に、どこからともなく大風が吹いて、
そして、土砂が崩れてきて、
すべての小判は流れ去っていきました。
村人たちは落胆し怒り狂い、
お互いに、「お前のせいでこんなことになったんだ!」
と責め立てあいました。
さて、次の日、
おしょうさまが、別の村を歩いていると、そこの村人たちがやってきて言いました。
「おしょうさま、隣の村でのうわさは聞いております。
なんでも、村人に小判を上げたんですってね。
わたしたちにも、なにかください!」
「では、この馬車と馬をあげよう。」
村人は大喜び。
おしょうさまは、歩いて、その場を離れ去り、次の村に向かいました。
おしょうさまが、その場をはなれさると、
また、大喧嘩がはじまりました。
「馬は俺のところに。」
「馬車だけあっても何にもならねえよ!」
「村で一番馬が使えるのは俺だから、俺がすべてもらう!」
「なにおー!」「このー!」
ということをしているうちに、馬が急にいななきごえを上げて、暴れ始め、
馬車ごと岩に突っ込んで、馬車は大破し、
馬も、頭を打って気を失って倒れてしまいました。
さて、
おしょうさまが、次の村をあるいていると、
そこの村人たちが、話しかけてきました。
「隣の村での噂は聞いております。
私たちにもなにかください!」
「もう、財産はすべて、あげてしまったんだ。
着るものと、食べるものだけで精いっぱいなんだ。ごめんよ。」
村人たちは、残念そうな顔をして
「えええー。」
と、ため息をつきました。
「なんかくださいよ!なんかくれなきゃ困りますよ。」
さすがに、おしょうさまは、
心の中で、
「うるさいな!いったいどうすればいいのだ!?」
と思いました。
村人たちは、声をあげ、
「貧しい人になにもしてあげられない。
それでも、あなたは、お坊様ですか!?」
と、嫌味を言ってきます。
おしょうさまは、怒鳴りたくなる心をおさめ、
心のなかでこうつぶやきました。
「わかりました、天女様。すべてを捨ててきたつもりですけれども、これも捨てろということですね。」
「わかった!諸君。
この、私の袈裟と、衣服をきみたちにあげようではないか。それでいいかね。」
村人たちは大喜び。
おしょうさまが、その場を去ると、
またまた、そこで大喧嘩が始まりました。
「上着は俺のだよ!下着はお前にやるよ。」
「そんなのせこいよ。全然平等じゃないじゃないか。」
「なにおー!」「このー!」
村人たちが、衣服を引っ張り合うと、衣服はびりびりに破けてしまいました。
「あ!お前のせいだ!お前が悪いんだぞ!」
「何を言う!?もとはといえばお前から始まったことじゃないか。」
おしょうさまはすでにそこにはいませんでした。
さて、おしょうさまは、すべてを村人にあげてしまい、
あま布いちまいをまとって、夜の寒さにぶるぶると震えながら、月を見ています。
自分の財産をすべてあげてしまったら、
偉い修行僧やお釈迦様のように、さぞかし、すっきりした気分になるかとおもえば、
まったく、そんなことはありません。
「ああ、自分は、立派になるために、一生懸命頑張って頑張ってきたのに、結局なにもこの心に手にしていないではないか。」
そして、今までであって来た村人の態度を思い出しては、嫌な感じをかみしめ、
できるだけ、それを忘れようとするのでした。
震えながら、夜が明けると、
無一文で、着るものも食べるものもない、おしょうさまは、
これからさきどうして生きて旅を続ければいいか、さっぱりわからなくなって、
「あの寺にとどまっておく方が正解だったのかなあ」
と、しきりに後悔しました。
そこに、ある村人がやってきていいました。
「おしょうさま、おしょうさま、
知っていますか?
あなたが、村の奴らにあげた財産のすべてが、誰の手にもわたることなく、無駄になってしまったってさ。
小判は、流され、
馬車は壊れ、
服はびりびりになったってさ。」
気の毒そうに、笑いながらいう村人が去っていった後、
おしょうさまは、いよいよ我慢ができなくなって、地面を思いっきり叩きつけ、天に叫んでいいました。
「神様!仏様!
わたしは、お金をあげ、財産をあげ、衣服もあげ、
みんなみんな、差し出したんです!!
もう、これ以上捨てることはできません!
それなのに、村人はそれをすべてダメにしてしまいました!
いったいなんだったんですか!?
なにがあるというのですか!?
もう、これ以上無理です!」
叫び疲れはてて、そのまま眠りについてしまったおしょうさんのところに、
また天女がやってきてニコニコしながら言いました。
「まだまだですよ。
まだまだ、あなたは何も捨てていません。
すべてを捨てることです。」
「なぜあなたは、そんな風に笑っていられるのですか!?
わからない!わかりません!
もう、これ以上何ができるというのですか!?
私に、野垂れ死にしろとでも!?」
と、叫んで、目が覚めました。
すっかり、意気消沈して、あるいていた村のはずれに、一件のの粗末な小屋がありました。
その小屋から、ある女性が出てきて、泣くように言いました。
「おしょうさま、助けてください。」
おしょうさまとて、自分が仏さまでもなんでもなく、煩悩にまみれたひとりの人間だということを深く自覚しながら、いいかげんうんざりして言いました。
「つけあがるのもいい加減にしたまえ!!
もう、いいからどこかに消えなさい!!」
「うちの娘が病気で死にそうなんです。
なにか、手を施してください!」
「お前たちのような強欲なものが自らの不摂生のゆえに死ぬのは自業自得じゃ。
残念ながら、薬を買ったり、医者を呼ぶお金も持ち合わせておらんのだ・・・。
あげるものは、なにひとつないのだ・・・。
すまん。」
「それでもいいです!
なにか、なんでもいいから、してください!」
それこそ、溺れるものがわらをつかむとはこういうことなのだろう。
自分につかまっても沈むのはわかっているのに。
それでも、やってみようか、と思いました。
それに、この母親の願いは、他の村人の願いとは何か違ったのです。
家の中に入ると、
布団に横たわって、高熱を出して苦しんでいる少女がいました。
おしょうさまは、なにもしてあげられることができません。
ただ、手をぐっと握って、少女の脈拍が不規則になっていくのを見守るしかありません。
もう、どうしようもできない。
自分には、何の力もないし、もう、何も持っておらんのだ。
「おしょうさま、祈ってください。」
母親のその言葉に、はっと押されるように、
おしょうさまは、少女の手を握り、頭に手を当てて、うずくまったかと思うと、
深く深く懸命に念じ始めたのでした。
気が付くと、
おしょうさまは、少女の体の中にいました。
少女の命が、一生懸命戦っているのがわかります。
おしょうさまは、少女の魂に向かって、大声で叫び続けました。
「がんばれ!
がんばれ!
君はまだ死ぬときじゃない!
君にはまだ力がある!
さあ、勇気をを振り絞って、息を吹き返すんだ。」
負けそうになる、少女の魂に、一生懸命応援を続けました。
今にも、少女の魂は倒れそうになります。
「そうだ!私の魂をさしだそう!
それで、少女が生き返るなら安いものだ!」
少女の心臓が、強く再び打ち始めたかと思うと、
少女は再び目を開きました。
汗だくになった、おしょうさまは、それを見ました。
自分の命は、まだあるようです。
少女の命も助かったようです。
少女は、こちらをみて、微笑みました。
そして、息を切らしながら、
「ありがとう、おしょうさま。
私を力づけてくれたのはあなただったのね。」
といいました。
気が付くと、
少女の病気はすっかり治っていました。
おしょうさまと、お母さんは、
顔を見合わせて、手を取り合って喜びました。
ふと、おしょうさまは、気が付いたかのように手をたたいたかと思うと、
裸足のまま、家の外まで出て、
喜びのあまり天に向かって叫びました。
いままで、人生で生きてきて、こんなにうれしいことはありません。
そこに、天がひらけて、
天女が降りてきて声が聞こえました。
「わかったようですね。
本当に、捨てるということ。
そして、あなたが本当に得たものとは。」
おしょうさまは、はいとうなづきました。
「
多くのものを持って自分のものだといって手放さないこともそう。
しかし、
ただ、ものだけをあげること。
自分が嫌な思いをしてまで、人にやさしくすることは、本当の慈悲ではないのじゃな。
そして、また、
形だけをしっかりして、自分は立派だと思いこむこと。
どちらも、自分自身にとらわれておった。
本当にたいせつなのは、まごころを込めて、いのちを助けるためにしたことなのだ。
そうなのだ、ほんとうにたいせつなのは、こころじゃ。
こころなのじゃな。」
その後なぜか、おしょうさまのもとには、
それまで以上の財産が集まり、十倍も百倍も豊かになったということです。
しかし、それは小さなことでした。
それから、おしょうさまのやさしさにつけこんできた村人たちに対して、
おしょうさまは、その村人たちが本当の意味での豊かさを得ることができるよう祈りつつ、
毅然として追い返すようになったということです。
では、おしょうさまは、村人たちに嫌われるようになったのでしょうか?
いいえ、そんなことはなく、
厳しく言われた村人の中には、
「ここまで真剣にワシを叱ってくれた人ははじめてじゃあ。
いままですまんかったです。
おわびに、わしのできることをさせてください。」
と言ってくるものもあり、
その人は与えることによってますます豊かになっていきました。
あの村人たちも、おしょうさまや改心した村人たちの姿をみて、何かに気が付いたようです。
一生懸命働き、
そして、村同士で、ゆたかに分かち合うことで、栄えはじめました。
以前のようにねたみあったり、奪い合ったり、喧嘩をすることはなくなりました。
お寺のものは、村人みんなのもので、
村人たちは、お寺をもっと素敵にしようとお手伝いやお米を持ってきたりして、
貧しい人も、ものに不便がないようにしたのです。
それが、幸せになる唯一の道だということに気が付き始めたのです。
あの、病気の少女も、すっかり健康になって、家も豊かになりました。
今度、結婚する予定もあるそうです。
おしょうさまは、村の風にあたりながらふっとほほえみました。
めでたしめでたし。
とっぴんぱらりんぷう。
この童話ですが、清貧を旨とするお坊さんのところに富が集まる様子をふつうに描いています。
「本当の清貧って何ぞや」ということで考えたいと思うわけです。
四国遍路をしていたころ、
「寺は堕落して坊さんが愛人を五人作って、高級外車に乗って・・・」と寺を非難するお遍路さんたち。
しかし、「あいつは金ばかりとるからいかん」とお金持ちを非難ばかりしていると、かえってその嫉妬心って醜いですよね。
一方、たくさん税金を納めて成功者といわれるような人もたくさん稼いでいますが、
素晴らしい人格者だったり、人をたくさんしあわせにしているケースも多い。
つまり、お金を持っている=悪、醜い
お金を持っていない=善、つつましく清い
という単純な図式は当てはまらない。
単なる嫉妬や引きずり降ろしの心理が入りこんでいるケースも多い。
清貧もあれば、汚貧(貧乏)もある。
清豊もあれば、汚豊もある、ということです。
また、
「お金持ってんだからおごってください、これ買ってください。いいでしょー?」
と当然の権利のごとく主張してくる「クレクレ君」に頭を悩ましていた時期だったのかもしれません。
仏教では、「どんなときにも怒ってはいけない。」という教えがあって、
たとえば、「盗賊がやってきて五体バラバラにして殺してしまおう」というときでもわずかにでも怒りを持ったら地獄行きとか、
困った人が「お前の目玉が必要だからくれ」と言われて目玉をくりぬいて差し上げたところ、その人が「なんじゃこれ、いらんわ」と地面に叩きつけても怒ってはいけない、という教えがある(笑)
かといって、
与えること、言われるがままにされること=やさしさ
でもないんですよね。
本当の意味での豊かさってなにか。
清らかさってなんだろう。
モノを持たないことそれ自体が清らかなのか、
清らかにふるまうこと自体が清らかなのか、
本当に大切なのは内面の状態にあるんじゃないかなあと。
考えていただける機会があれば幸いです。