振り返り方、教えます③
「……あの、大丈夫、ですか」
息を吸おうとして、鼻の奥に詰まっていたものに気がつく。どうして。なんで。私が、泣いているんだろう。
「愛良さんは、きっと、振り返りたいんですよね。それは、わかりましたよね。野山先生は……振り返り方を、教えてくれますよね」
野山先生の言葉は状況を整理して多角的に考察しているだけで、このまま彼女を追い詰めるだけでは、愛良さんの欲しい言葉も、未来を選ぶ勇気も、与えてくれはしないのではないのか。
鼻を啜るだけに留まらなくなって、目元を袖の端でおさえる。先生のノートに、一滴だけ涙のしみを作ってしまった。傷付いて、傷を癒したくて、けれどそれを塞ぐ方法に逡巡している人に、試すような言葉をかけるなんて、あまりにも痛々しいと感じてしまう。私には、堪えられない。
野山先生を睨むように見やっても、彼の表情は涙で滲んでよく見えない。けれど、私の言葉を待っていたかのように、息を一つ落とした。
「まず、亡くなった人の見ていた世界を変わらず保つことはできない。けれど、君が見たくないのは、お父さんがいた景色に別の何かが入り込むところだ。であれば、それを見ないためには、お母さんやお兄さんが新しく未来を生きていくところから離れるしかないのではないかな。しかしながら、君は家族と別れたり、家族を壊したりしたいわけではない。つまり、受け入れなければいけないことは、君の見たくない景色は見なければいけない未来だということだ」
先程と同じように言葉数の多い野山先生の台詞は、けれど、愛良さんに突きつけられるような色ではなかった。空に放たれたそれは、独り言のようで、私にも愛良さんにも、痛みを感じさせないように気を配ったのだと感じさせられる。
「大きな痛みには、目をつぶることしかない」
自然と、扉に貼られていた紙切れのことを思い出す。目の、つぶり方。それは瞼の動かし方でないことだけはわかるけれど、彼のこの目的不明の活動を見ても真意はわからなかった。けれど、そうか、彼は。
「お父さんがいない景色がこれから新しく作られていき、それが君と家族の未来であることに、傷つく必要はない。傷つかないよう目をつぶる必要がある。それでも君は、振り返ることができるよ。その未来に、余白は必ず生まれるから」
その目的は、ただ、人に救いの手を差し伸べることだ。何かを抱える人にとって、寄り添う者がカウンセラーだとしたら、野山先生はそれとは違う方法で誰かを救おうとしているのかもしれない。愛良さんの中にある矛盾は、解決できないものとして、彼女と共に歩ませるのだと。
「安心して。愛良の気持ちは、初対面の涙が共感するくらい普通のものだ。お父さんを忘れたくない、お父さんとずっと共に生きたいという気持ちは、捨てたりしなくていいんだ」
「……はい?」
しみじみと彼の比較落ち着いた声色を聞いていたはずが、唐突に明るくなったそれが耳に引っかかる。胡散臭い無精中年の顔をした野山先生が、私を見てにやにや笑っていた。
「ありがとうございます、詩臣さん……。私はやっぱり、そういう風に言ってもらいたかったのかもしれないです。未来を生きていいんだって。それでも、たまにお父さんのことを考えることが、振り返ることでいいんだって」
野山先生には言いたいことだらけだったけれど、落ち着いた様子で話せるようになった愛良さんが、ほのかに笑みを浮かべているのを見ると、そんな気持ちも忘れてしまうようだった。初対面の人の抱えたものなんて知りたくない。けれど、彼女の態度から、彼女の父親への愛情の尊さを感じずにはいられなかった。野山先生に責め立てられるように問われた彼女の気持ちに、つい共感してしまったのだった。
「いやー、やっぱり思った通り、助手がいた方が捗るねえ」
背伸びなんてしながら振り向く先生のズボンからは、しっかりワイシャツがはみ出ている。ころころ表情の変わる人だけれど、ちっともちゃんとしているだなんて思えない。頭は、回るのかもしれないけれど。
「先生。私、何のためにいさせられたんですか」
薄々、彼の小汚い戦法に気付きつつも、何が何でも逃げればよかったという後悔を認めたくない。手渡したリングノートを閉じながら、野山先生はとぼけるように首を傾げた。
「しかし、教えてくれますよね、って涙声で言われた時には、なんかもう心臓ドキドキしちゃって何故か僕が緊張しちゃったよ。涙は僕をその気にさせるのが上手だよねえ」
「……セクハラで通報してもいいですか」
急にクネクネしだして、言わなくていいことをすぐに言う。そういうことはSNSにでも書いておいて欲しい。鍵をかけて誰にも見せないで欲しい。少なくとも本人に言うな。
「待って待って、ごめんって。……ホントに、少しだけ悩んでいたんだよ。最初は知り合いとか学生とちょっと話すだけだったのが、人づてに紹介されて相談に乗っているのはいいんだけれど、ほら、僕って口が立つから。あれこれベラベラ喋って、本当にこれでいいのかわからなくなることもあってねえ。向こうは僕を信用して来ているわけだから、間違ったことでも流されてしまうかもしれないし」
相談に乗っていること自体は、そう驚くようなことでもない。悩みのある人もそうでない人も、心理学を研究しているような人と話すことは非常に面白いはずだから。けれど、そういったことに前のめりとも思えない変人教師である野山先生が、こんな風に成り行きらしき相談室を、扉に意味深なメモを貼ってまで開いていることは少し不自然だとも思う。
「さすがに、もう帰りますから。コーヒー、ありがとうございました」
「ええ⁉︎ 正式に助手をお願いしようと思ってたのに」
「申し訳ありませんけど、やれませんから。レポートのことも、ありがとうございます」
さすがに扉が開いていると他の研究室員に聞こえてしまうからか、強引に部屋を後にした私を、野山先生は引き留めはしなかった。
2017/6/20
あいら
兄と話した 怒られた
振り返ること
お父さんがいない未来を見ることに 目をつぶる
「レポートは、来週の金曜日までにこのアドレスに。……あーそれと、水木さんは、後で僕のところに来てください」
50人以上も参加している授業でも、比較的真面目な私は、教室の前過ぎない良い位置に場所を確保している。だから、あれ以来顔も見たくないと思っていた野山先生の授業も、意外にも何も感じず受けることができた。できたのに。
教壇の野山先生は、あの日コーヒーをウキウキで淹れてベラベラ喋り、髪をかき上げてキザぶって変態台詞を言っていたど変人と同一人物とは思えない。三十代、実家暮らし、彼女いない歴イコール年齢みたいな、行き場がなくて研究をやっている成れの果てみたいな、そんな見た目をしている。
それでもやっぱり、目を合わせると俄に嬉しそうに薄い頬を緩ませて、にやにや顔を浮かべる。同じ人だ、あの変態と。
「…………」
「そんな目で見ないでって。どうしても涙にしか頼めないことがあるんだ。五限の後、僕の部屋に来てよ」
そういえばこの男、さりげなく勝手に呼び捨てにしている。特段気にしているわけではないにせよ、やっぱり野山先生に無闇に距離を詰めさせてはいけない気がする。
「他の学生に頼めないんですか。ゼミの人とか」
「こないだ話そうと思ってたのに、帰っちゃうからさ〜。涙が適任なんだよ、君じゃないとダメなんだ」
自分で言っていたけれど口の立つこの人の話を聞いてはいけない。自分が流されやすい方であるという自覚のあることを置いておくにしても、野山先生には、この柔和というかちゃらんぽらんな態度で人を油断させるスキルすらもあるのだ。
「先生の趣味に巻き込まないでくださいよ」
「って言っても人助けなんだから。ねえお願いだよ、正式にやってくれるなら、バイト代も出すから、助手になってくれよ」
趣味ということを否定しなかったけれど、バイト代を出すのか。それなら、ゼミの学生に任せた方が絶対にいい。授業を一つ受けているだけの野山先生に、私があんまり個人的に会いに行きすぎるのもどうかと思う。先生の仕事と関係ないことに、先生自身がお金すら出すと言うのだから、余計に、だ。
「私じゃないとダメってなんですか」
口の立つ彼を論破させられると思ったわけではない。けれど、一つもきちんと理解できそうにない野山先生の行動が、少しだけ気になってしまった。野山先生の長い前髪が、彼の細長い指にかきわけられる。
「涙はきっと、思考で間違えることはないだろうと思って。罪悪感を抱きながら人に偏見を持つタイプだろう。僕の顔を見ている時、申し訳なさそうにしてるから」
野山先生の言っていることが、わかるようで、わからない。彼の素朴な目元が湛える感情が、何なのかわからない。
ほんの少し話しただけで、まともな会話も交わしていないのに、そんな風に勝手に評価されても、反論もできない。私自身にだって、よくわからない。
「彼は人が苦手なんだって。友達がいない涙となら、気が合うかもって思って」
「相変わらず躊躇なく失礼ですね」
「ごめんごめん、つい事実を述べちゃうんだ。君が物凄く傷付いている可能性を、こうして探りながら、わかりやすく不機嫌になるのを面白がってしまうのは、涙が相手だからだけど」
本当に、失礼な人だ。友達がいない子扱いをされて今更どうとも思わないけれど、可笑しそうに言う言葉はあまりにも皮肉臭くて、さすがに挑発に乗ってしまいそうになる。
「ともかく。相談室を手伝ってくれるような意欲のある学生が、人に後ろめたさを感じるような子と対等に話せると思うかい? でも、僕だけじゃ何の意味もないだろう。初対面の君と、どうしたら話せるか考えたら、彼を救えると思わないかい」
野山先生に協力する義理も、その人を救う義理もない。けれど、先生の言っていることはわかる。相談室と言うと、態度には出さないまでも前のめりに人間を評価するのではないかという気が、どうしてもしてしまう。こうして目の前で私を見つめている男だって、勝手に人を判断して、勝手に適任だのと押し付けてくるのが、良い例だ。
「……あくまでバイトとして、でいいですか」
この際、自分が先生をどう思っているのか、先生が自分をどう思っているのかには目をつぶろう。私はたまたまバイトを持ちかけられた。きっと割は悪くない。そして、目先の気持ち悪さは解消できる。
野山先生は、上手いこと口で話を持っていったことに満足そうにしながら、それ以上余計なことは言わずに地味で冴えない教師の姿に戻っていった。