振り返り方、教えます②
「あれ? 僕の名前、知ってた?」
あんまり得意気な野山先生は、やっぱり子供っぽく見える。良い意味でなく、20代なのだろうと確信した。少なくとも、精神年齢は。
「……まあ」
「へえー。やっぱり、涙ちゃんは思った通りの子だな~」
ニヤニヤした顔で見ないでほしい。意味深な言い方は気になるけれど、もうわかっている。そんな風に挑戦するみたいに言うのは、私から何かを引き出したいに違いない。
あえて無視して何も答えないでコーヒーに口をつける。鼻を通り抜ける香りが、あまりにも良くて目の前の野山先生を見ると、ニヤニヤ顔はそのままに、どう? と首を傾げた。
「美味しいです。あの、ありがとうございました」
なるべく早く退散したい。野山先生は、変な人だ。明らかに、一学生でしかない私個人に興味を持っている。これ以上掘り返されたら、今後どんな顔をして授業を受けたらいいかわからなくなる。
「ちょっと待ってよ。んー、つれないなぁ」
まるでナンパ男のように、野山先生は髪をかき上げる。すると、無精で伸ばしているようにしか見えなかった髪型が、いきなりすっきりする。意外と整っている顔立ちをしていることに気がつき、どきりとする。
「涙ちゃん友達いないでしょ」
「……とりあえずその呼び方やめてもらえませんか」
「じゃあ、涙ちゃん」
「友達いないでしょって聞かれて、そうなんです、いないんですって答える人はいないと思います」
自分も随分とひねくれている。野山先生の探りを逃れるために、頭をフル回転させているつもりだった。けれど、結局名字を覚える気がない彼に名前を呼ばれることを良しとしてしまったことに気がついた。
「それもそうだ。じゃあ、俺基準で、友達いない」
「そうですか」
すごく嫌な感じがする。コーヒーを啜りながらこちらを鋭い眼光で見つめる野山先生は、ヘラヘラした緩い口元はそのままに、先ほどとは明らかに違う雰囲気を纏っている。
「だから、友達になってやるよ」
「…………」
ふざけてるのか、と思う。いきなり上から目線になったと思えば、現実世界でこんな台詞を言う人がいるなんて信じられないようなことを口走る。ツンデレではなく、本気で言っている顔だ。だって、表情だけ見れば、すごく優しい笑顔なのだ。
「いや、いいです」
面倒事のにおいしかしない。そもそも、教師と友達ってなんだ。もし、本当に私に友達がいなくたって、教師と友達になる必要はない。ましてや、今現在授業を受けている相手なんて嫌だ。
「じゃあ、友達になってよ。コーヒー飲んじゃったでしょ?」
「その代償は話に付き合うだけだって言ってましたけど」
「……ああ、もう。ホント面白いね」
野山先生は突然腹を抱えて大きな声で笑い出した。どんどん私の中の、今すぐここから立ち去りたい気持ちが強くなっていく。と、その時、扉がノックされる。
「あー、はいはい。どうぞー」
来客があるのをわかっていたようで、野山先生は笑うのを何とかやめて扉に声をかける。そして、私に立つよう促して、先生と対面する形から、机の横に座る形に移動する。
「あの、こんにちは」
来たのは、いたって普通の、強いて言えば大人しそうで、清楚な印象の女学生だった。この学科にもたくさんいるタイプの人で、知り合いではなかったけれど、私にとっても驚くような来客ではない。野山先生に挨拶をした彼女は、私を見て少し不思議そうにしていたので、反射的に頭を下げる。
「久しぶり、愛良」
「はい。お久しぶりです。あの、詩臣さん……」
どんな関係なのか知らないけれど、自然に名前で呼び合う二人に、何か心地よい違和感のようなものを感じる。それは、ここにいる誰もがそれなりに珍しい名前を持っているからかもしれないし、そうではないかもしれない。
「彼女は涙。今日から僕の助手をしてもらうことになった」
「……はい?」
私のことはお構い無く、と事情もわからないけれど逃げようとタイミングを見計らっていたというのに、先生はちゃっかりとそれを阻止してきた。突拍子もない発言に、彼を睨み付ける。相変わらず、何事でもないように笑っている。
「あ、あの、よろしくお願いします」
気まずそうな愛良さんの声が私たちに割って入る。ああ、もう、いいや。何か難しいことや面倒なことをしろと言われたわけでもないんだから。
「涙、今から俺たちが話す内容を、好きなようにでいいからメモにとっておいてくれる?」
耳打ちされたと思ったら、鮮やかな手つきで小さいリングノートを手渡される。聞き返す間もなく離れて行ってしまった先生の代わりに、ノートをめくる。
2017/6/20
三年生
水木 涙
友達いない 助手にする!
……なんだこれは。思わずそう口から溢れそうになるのを我慢する。扉に貼ってあった不思議な紙切れを思い出す。ノートの字は、あの紙切れの字とおそらく同じで、癖がないとは言えないけれど、とても美しい字だった。そしてそれは、おそらく野山先生の字なのだ。
ぺらぺらとめくっていくと、同じように、一ページに少しずつ、日付と名前、他に一言が書かれている。これがなんなのか、と考えている間に、二人は話を始めた。
「それで、どうなった?」
「……はい。お母さんとはまだ話せていないんですけど、お兄ちゃんと話したんです。お兄ちゃんには、怒られました。そんなことで今更家族の関係を悪くしたくないって」
日付と、漢字がわからないので小さくあいら、と書き、兄と話した、怒られた、とメモする。何のことだかわからないし仲良くもない他人の事情なんて知りたくもないけれど、野山先生に押し付けられた役回り、振りでもやらないといけない気がした。
「そう。最初言っていた通り、何かを変えたいなら、二人ともと情報を共有する必要がある。お兄さんがそれを拒んでいるとしても、そうする?」
「私は……自分がどうしたいか、わからなくなってしまいました」
私のペンは止まらをざるを得ない。助けを求めるように野山先生の顔をこれでもかと言うほど注視する。貼り付けたような微笑は、私の視線に応えることはない。なのに、彼の表情は、他のどんな表情よりも真剣に見えた。どうして、と思ったその瞬間に、視線は外したまま彼の手が伸びてきて私の手の中にあるノートを数ページめくる。
2017/5/5
花大生
幸田 愛良
父親死別 母親が友人男性と交際
兄あり
相変わらず、特徴的な筆跡だった。普通のペンで書いたとは思えないような細い線が、神経質に流れていくのが目に浮かぶようだ。
その場の流れで普通に読んでしまって、後悔する。ああ、知りたくもないようなことだ。誰かの家庭事情のゴタゴタなんて、口も出せなければ興味も持ちたくない。なるべくならこんなことに遭遇した経験が役に立ってほしくない。
「……耐えられないと思ったのは、どうしてだろうね」
野山先生のその一言で、決定的に空気が変わった。それは、上手く言い表せない程曖昧で、けれど肌に直接触れてきた鋭利な針のようであった。
愛良さんは、俯いてしまった。当事者と、この場を統べる先生と、置き去りの私。手持ち無沙汰に任せてページを戻すと、先生は淡々と語り始めた。
「君は何も関係ないはずなんだ。お母さんはそれが幸せだからそうしているはずなのだし、お父さんはもういないのだから気を配らざるを得ない毎日を送っているわけでもない。ならば、何が愛良を苦しませるのだろうね」
知っている。この人は、わかっていて呟くんだ。その問いの答えは、自らの中に必ずあるはずだと言い聞かせるのだ。向き合うのは、今だ、と。
「振り返ることしか、できないんです」
彼女の言葉は、途端に耳につくようになった時計の針の音と同じようにして部屋の隅っこで消えてしまうほど細くてか弱かった。振り返る。その言葉がどういう意味で使われているのか考えあぐねて、ノートにペン先をつけることができない。
「お父さんは過去の人だから」
他人の搾り出したような言葉を逐一書き記すことに、俄に一抹のやり切れなさを覚える。諦めて、ペンを置いた。話が終わってから、自分の所感を書く方が適切な気がした。
「君がお父さんにしてやれることが、昔の家族の姿を見つめることだったのかな」
野山先生は、まるで用意していたかのようにすらすらと述べる。彼の断定的でない言葉尻は、今は膝に置いた拳を見つめることしかできない愛良さんを責めずに、しかし彼女自身を内側から刺激するかのような危険な香りがする。
「執着することは上手く振り返る方法じゃない。何故なら、ずっと執着している人は前を向いてなんていないからだよ。忘れることが罪だろうか? 否。忘れなければ思い出せない。覚えていようとしがみついて、進む方向にある未来を直視しないで、ただもう動かない過去を見つめて、果たしてそれは君のしたいことかな?」
大きく息を吸う音が、まるで弓矢を引く動作であったかのように、先生のはっきりした声が通り抜けていく。打って変わって断定的になってしまった言葉に、愛良さんに少しばかり心を寄せていたのか、何故か私の胸がズキリと痛む。そんな風に、否定されたら。
「過去を見続けなくていい。未来を見ることが振り返らないことではない。君のしたいように、振り返ればいい」
先生のしていることは、一体なんなんだろう。人生相談? お悩み解決? それとも、占いだろうか。愛良さんの反応を見る前に、その高い鼻の先ばかり見つめてしまう。全てを受け入れるような態度をとったり、今の行動を否定してみたり、揺さぶりをかけられたら、誰だって。
「君は何かを変えたくて僕のところに来たんだ。それは、今のままで良いと思い直す、という風に変えるということも選択肢にあった。けれどそうではないんだろう。父親のことをすっかり忘れたように未来の幸せを選んでいくことに、なんの摩擦熱も生まれないことに疑問を抱いているように、僕には思える。決してそれだけが、父親といた過去を振り返ることだとは僕は思わない」
愛良さんが口から息を吸った。彼女の決して強気そうでない目元が、硬直していると気付いた。私だったら、きっと。
「涙も、そう思うでしょ?」
唐突に私を向いた野山先生は、あれだけ厳しい語気で語っていたのが嘘のように優しい笑顔を張り付けていた。私に、何を期待しているのだろうか。
愛良さんに追い討ちをかけるようなことはしたくない。それだけを考えて、彼女の方を見ると、双眸とばったり合ってしまう。不安そうな彼女の瞳は、なぜだか、思っていたのと違う色を示す。