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振り返り方、教えます①

 「目のつぶり方、教えます」。


 ルーズリーフ、否、ヴィンテージ風のオシャレな手帳を手で丁寧にちぎったみたいな紙きれに、すごくしなやかな字でそう書かれているのが目に入った。それがいくら気になってもこの扉をノックしなければいけないのに、手が止まってしまった。


 積み上げたダンボール箱に窓を塞がれて薄暗い廊下は、部屋の中に入り切らない荷物が置かれているせいで非常に狭い。左右どちらかから一人が歩いてくれば、入室を躊躇している私はすぐに邪魔になる。だから、少しだけ焦ったのに、手の甲を向けたまま止まった右手は何故か動かなかった。

 動け、と昔何かのアニメで聞いた台詞を心の中で唱えたのと、ドアノブが一人でに動くのはほぼ同時だった。ドアノブが動くはずはない。勿論、誰かが部屋の中から扉を開けたのだ。

 私は慌ててドアノブの方に手をやった。さも、今ちょうど開けようとしていたかのように。本当はノックしなければいけなかったから、それは間違っていたのだけれど。


「あっ、野山先生──」

「うわっ!? 何、なんですか」


 扉を開ける人と、扉に向かう私で、一瞬にして至近距離に詰め合う形になる。大人であっても、こういう時は結構素で驚くよなあ、と心の中で何故か冷静に感想を述べる自分が憎たらしい。


「レポートのことで、聞きたいことがあって」


 本当は、先生を直接訪ねるなんてしたくなかった。でも、友達はみんなそんなこと屁でもないようで、代わりに行ってきてよと言われたら断るのも格好悪くて引き受けてしまった。だから、今部屋を出ようとした人を引き留めることをするのはいかがなものか、と後悔の念を覚えて一人反省会を並行しかけた。


「あー、三年生か。……ええと、何さんだかわからないけど、今、時間ある?」

「水木です。ええ、まあ、ありますけど」


 野山先生は、一言で言ったら適当そうだし、ヨレヨレのワイシャツを着ていて、どうせ面倒だからスーツみたいな格好してるんだろうな、とみんなに言われるような男性だ。年齢は30代くらいだから、ちゃんとしていて格好良ければもっと女の子に人気も出たのに、というような感じだ。おじさんじゃないし、清潔感がないわけではない。ただ、引きこもりニートみたいな雰囲気がある。


「じゃあラッキーだ。ちょっと付き合ってよ」


 そう言って、ニカッと笑った。あれ、この人ってこんな若々しかったんだっけ。上がった口角に持ち上げられた頬があまりにつややかで、ややもすると、20代に見える。もしかして、20代なのかもしれない。助教授だし、あり得なくはない。不思議な動揺のせいで断る間もなく、野山先生に導かれるまま部屋の中へ入った。


 野山先生の上司はこれまた結構適当な先生で、良い言い方をすれば、自由だ。仕事でもそれ以外でも自分の部屋をあまり使わないからって、野山先生が助教授の身分で結構なスペースを占領しているようだ。ゼミをやるような大きな机のある部屋と、そこに繋がる小さな机の置かれた先生の作業部屋。ここに来るのは初めてだったから、キョロキョロと見てしまう。壁の本棚には分厚い専門書がお決まりのように並んでいるけれど、埃をかぶってくすんだ背表紙は、まさにアンティークのオブジェと化している。大きな机の脇の狭い通路を通って、作業部屋に通される。


「森先生のお土産を開けてみたら、めっちゃ良いコーヒーでさ。あ、学会でイギリス行ってたんだけどね。先着一名に飲ませてあげようかと思って。僕の話し相手になってもらう代わりに」


 そう言いながらいそいそとお湯の準備をする。ズボンからシャツの右側だけがはみ出ている。いい歳こいて、格好悪い人だ。しかも、女子学生を捕まえて話に付き合わせるなんて、もしかしてとんでもない人なんじゃないか。


「座って座って」


 背もたれのない丸い椅子を勧められる。小さな机は、ちょうど人が一対一で向かい合って座って話すくらいのサイズで、もう一人横につけないこともない。たかがコーヒーを淹れる程度であっちへ行ったりこっちへ行ったりしている先生が向かいに座れば、面談みたいな形になってしまう。そう考えると、急に緊張してきた。

 驚くことに野山先生は研究室据え置きの電気ポットから、私なんかじゃカフェでも見たことがないステンレスのコーヒーを淹れるためのポットにお湯を移して、ハンドドリップでコーヒーを淹れ始めた。途端に良い香りが部屋一杯に広がる。なんとなくずっと見ていたら、カップを持って振り返った彼とばっちり目が合う。面白そうに笑われて、しっかり目をそらした。


「お待たせ。いや、驚かれるんだよね。僕、コーヒーにはうるさくてねぇ」


 授業の時に薄々感付いてはいたけれど、すごくお喋りな先生だ。まあ、学科の性質上、人と話すことがすごく好きか、すごく嫌いかのどっちかの人しかいない。野山先生は前者なのだろう。話し相手を取っ捕まえてまで話したいことがあるらしいし。

 もしゃもしゃの髪の毛を乱暴にかきあげて、野山先生は私の向かいに座る。目の前の人があんまりヘラヘラしているから、思ったほどは面談のようにはならなかった。けれど、膝の上に置いた拳をいつの間にかぎゅっと握り締めている自分がいた。


「忘れちゃったらいけないから、用件を先に聞いておこうかな」

「……え、あ、はい」


 野山先生が担当する授業は臨床心理学概論というもので、解説以外にも定期的に仮想の事例について論述するレポートが課される。


「前回の授業のレポートなんですけど、授業の趣旨としては精神疾患の支援が背景にあると思うんですが、この例ではごく普通の人がたまたまこんな風になってしまった、という仮定で話を進めていいのか、と」


 野山先生はいつもご機嫌そうにニコニコしている。だから、正直、何を考えているのかはよくわからないタイプの人だ。だけど、私の話を聞きながら、先程までふわふわしていた彼の雰囲気が少しだけ堅くなったのを感じる。

 課題は、こういう人に相談を受けたらどうしますか、というような簡単なものだ。ざっくりしているけれど、大抵は授業で習う典型的な事例を取り扱っている。


「うーんと、まあ、教員のコメントとしては、どっちでもいいよ、なんだけど」


 私を見つめていた視線が、つるりと滑っていく。私の顎から下へ、机を通り抜けて、壁の向こうへ飛んでいった。不思議な感覚だった。野山先生の思考が駆け巡るのを、見てしまった。


「お勉強の話じゃないと思って聞いて。ええと、何さんだっけ……君は、精神疾患を持つ人が知り合いにいるかい?」

「水木です」


 次の言葉が出てこない。考えは、した。きっと先生がわざわざそういう風に聞くということは、単純な意味ではないのだろう、と素直には考えられず邪推してしまう。そのことがあまりにも邪魔をして、ストレートな言葉が出てこない。


「水木さんね、覚えとく。──僕はたくさん知ってる。言い換えると、僕にはほとんどの人は精神病に見える」


 あと一回は絶対に名前を聞かれるだろう、と思うような適当な返しについてきたその言葉を、野山先生はふんわりとした笑顔で述べた。あれ、もしかしてこの人は、社会不適合者というか、この歳で中二病を引きずっているというか、そういう人なんだろうかと一瞬脳裏を駆け巡る。けれど、きっと違うのだ。人の思考を考え、学んできた教員ともあろう人の、長年の結晶としての考えなのだろう。興味深く耳を傾けている自分がいた。

 真っ直ぐ座っていた身体を横にずらして足を組み、静かに机に肘が乗せられる。手首に視線を滑らせると、指先に導かれるようにその唇に注目が行った。野山先生は、静かにそれを開く。


「正常かどうかを決めるのは文化だ、と授業では教えられるよね。でも、そもそも人によって違うその基準の、今最も主流とされる流れを文化と呼んだって、正常でないものが存在しなくなるわけではない。つまり、マイノリティーが正常でない、異常だ、と呼ばれる限り、誰にとっても異常でない人もまた存在しない、と考えた」


 薄い唇は、血の気が多いとは言えない淡い赤紫をしている。けれど、真っ白な頬と一緒にせっせと動いて言葉を紡ぐのが、あまりにも激しい。そうか、心理屋にとって、武器になるのは言葉だ。それは、表情や、雰囲気や、全てに影響されて、相手を「絆す」ために使われる。


「自分は自分にとってマジョリティーだから、自分と違う人、自分にとってのマイノリティーは異常に──精神病に見える。そう考えると、どうだろうか。君は精神病の人が身の周りにいないと言える?」


 おそらく、極論をわざと言っているのだろう。いくら心理学者に変わり者が多いとはいえ、本気でそんなことを思っていたら生きていけない。……もしかしたら、大学教員という狭い世界に生きる人は、それで生きていけるのかもしれないけれど。


「同意してくれると思うんだけどな。君が一人でここに来たってことは、そういうことだと思ったんだけど」


 野山先生の煽るような言葉の意味を考える。つまり、だ。自分がマイノリティーだとでも言うようだった彼の意見に同調しそうだと思ったということは、私が野山先生と同類だと判断されたということだろう。それにしても、一人でここに来た、というのは──。


「まあ、それはいいよ。ええと、何さんだっけ」

「……水木です」


 カマをかけられたというのに、彼はあっさりとふざけた表情を取り戻す。ふにゃりと意思の弱そうな眉毛が垂れ下がって、人懐っこそうな印象さえ与える。


「いやーごめんごめん。名字ってどうしても覚えられなくてさ。水木さんねえ~……あっ!」


 突然、マグカップを持ったまま嬉しそうに私をじろじろと見る。悪いことを考えている顔だ。口元が歪んだ笑顔を作ってにやにやしている。自動的に不快感を覚えていると、野山先生はやがて歯を見せて笑った。


「水木さんって、ティアちゃんか!」

「違います」


 信じられない、とでも言えば同情してくれるだろうか。いや、絶対にそれはない。彼だって、地で変人を行っているような人間だ。面白くて常軌を逸していることの方が好き好むに違いない。


「思い出したよ。目についてたんだけど、名字覚えてなかった。もう忘れないよ、ティア」


 まるで甘い言葉のように、大切に舌で発せられるその子音に、首筋がぞわりとする。野山先生が気持ち悪いというよりは、そんな風に呼ばれることに慣れていない。


「やめてください……」

「嫌だな。僕の初恋の人がねえ、ティアって名前なんだよね。RPGのヒロインなんだけどね。主人公の名前が──」


 どうせ、あれだろう。聞くまでもないその言葉を振り払うみたいに、自然と頭が揺れる。


「シオンっていうんだよね」


 気持ち悪いっていうんだと思った。心底嬉しそうに、一回りくらいは離れているであろう女学生に向かってそんな風に言うんだから。

 けれど、多分、私もたいがいなのだろう。シラバスに載っていた野山のやま 詩臣しおんとかいうキラキラネームを、ちょうど今思い出したのだから。



2017/6/20

三年生

水木みずき るい


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