脱出
ティカリの口から発せられたのは、恐ろしい魔法使いの声だった。僕の腕を掴み『黒き鍵』を奪おうとしている。
「やめ……るんだ、ティカリ!」
「ぐ……うっ『貴様ら……逃げ出すつもりかァアア! ムダ、無駄! 無駄なァアアことをォオオオッ! 死の運命からはノガレ……ラレヌゥウウウ……!』」
小さな女の子とは思えない力、ギリギリと指先が僕の腕に食い込む。けれど表情は苦しげで辛そうだ。ティカリが魔法使いの支配を拒絶しようと歯を食いしばっている。
掴みかかられた勢いで、ティカリに押し倒された。頭を地下牢の床にぶつけた拍子に『黒き鍵』を奪われそうになる。
「ダメだ……これは……! アギュを助けられない……!」
「う、やだ……『奪え……! そして地下牢の外へ投げ捨てろァア……!』」
これを奪われたら全てが終わりだ。必死で抵抗していた、その時。
「きゃ!?『んなっ!?』」
バグン……! とティカリが大きな口に飲み込まれた。
短い悲鳴と魔法使いのヒキガエルのような叫び声が消える。唖然とする僕の目の間で、竜の歯の隙間から細い手足がジタバタしている。
「え、えっ!? えぇえーっ!?」
目の前でアギュラディアスが大口を開けて真上から迫り、バックリとティカリを食べたのだ。白い牙の隙間から垂れ下がるティカリの手足から血が流れ出す。
「や、やめてアギュー! どうしちゃったの!?」
もうパニックだ。逃げ出す計画どころじゃない。ティカリは首輪で魔法使いに操られ、竜までもが裏切ってしまったのだろうか。アギュラディアスを僕は……信じていたのに。
アギュラディアスはモニュモニュと口を動かしている。まるで噛み砕いているかのように。
『――ふむ……加減が難しい……のうっ!』
「アギュー!?」
ぺっ、と巨大な口からティカリが吐き出された。頭から身体まで唾液まみれ。べちゃんと床の上に落ちる前に咄嗟に真下で受け止める。
「痛たた……大丈夫、ティカリ!」
「ひゃ……あ、わぁあああああ!? 食べられたよね!? 私、いま……たべられたよねっ!?」
もう顔面蒼白、涙目だ。
僕の両肩を掴み、涙目で叫ぶティカリ。そりゃ驚くだろう。
でも、食べられてはいなかった。噛みつかれた事で出血した手足の傷は、既に治癒しはじめている。
何て言うか、全体的に小奇麗になり、肌もつるん……と一皮剝けた茹で卵のようにのように艶やか。顔も髪もまるでお湯で洗いたてみたいに湯気を立てている。
アギュラディアスは正気だったみたいだ。きっと助けてくれたのだろう。
「ハル、怖かったよ! 大きな舌でレロレロって……」
そこで気がついた。ティカリは今、普通の女の子みたいな声でしゃべっていることに。
「ティカリ! 君の首輪が……」
「あ、あれっ!? 無い! 首輪が無くなってる!? やった!」
自分の首を確かめて、ぱぁあ……! と嬉しそうな笑顔に変わる。今まで全然気が付かなかったけれど、目がパッチリしていて、笑顔が可愛い。
無表情で声も小さかったのは呪いの首輪のせいだったんだ……。
『――歯の隙間に、挟まったぞな』
顔を寄せ顔を近づけるアギュラディアス。歯と歯の隙間には銀色の首輪が引きちぎれて挟まっていた。
「ひえっ!?」
ティカリはまた食べられるのかと僕の背後に慌てて逃げ込む。
「大丈夫……って説得力無いよね」
苦笑しながら呪いの首輪を歯の隙間から取り外し、遠くへ投げ捨てた。
「今、足枷を外すからね!」
僕はそのまま、竜の足へ駆け寄って、金属の足枷の鍵穴に『黒き鍵』を突っ込んで回す。
カチリ……! と音がして、表面の文様に水が流れてゆくように青い光が満ちてゆく。それが足枷の表面を一周すると、あっけなく金属の足枷は外れ、床へと転がり落ちた。
『――お、おぉ……! 忌々しい足枷が……外れたぞな……!』
「や、やった!」
『――礼を言うぞ、ハルトゥナ……勇敢なる、我が友よ!』
アギュラディアスが身を起こす。カシャカシャ……と鱗が乾いた音を奏でながら、足を動かし確かめる。
雄々しく、勇ましい伝説の竜が地下牢の中で立ち上がった。
もうアギュラディアスを縛るものは何もなかった。
「エサ以下のゴミムシどもがぁあアアアアアッ!」
怒号が地下牢に響き渡った。心臓が止まるかと思った。僕とティカリ、そしてアギュラディアスがギョッとして声のした鉄格子の方を見ると、黒い人影が居た。
眼は血走り、赤い髪は逆だっている。その形相に僕は背筋が凍りついた。思わずティカリを背後に庇うようにして立ち上がった。
「死ね!」
ゴォオンと鉄を怒り任せに殴りつける魔法使い。
「下がって! ティカ――――」
衝撃を感じ、一瞬何が起きたかわからなかった。視線を下げると、一本の鉄のヤリが僕の胸に突き刺さっていた。
目にも留まらぬ速さだった。魔法使いが殴りつけた鉄格子が瞬時に槍に変化、心臓を狙い伸びてきたのだ。
ゴガァアア! と竜が怒りの咆哮をあげる。
『――ハル! ハルトゥナ!』
「ハル……や、やだ! ……こんなの……や……だ」
僕の後ろから、ティカリが抱きついてきた。
「ギャハハハ!? エサが! 虫けら以下の存在が! 知恵を働かせたつもりか!? 逃げおおせると思うてか? 次は小娘、そして薄汚いドラゴン貴様もだ、下等な畜生めが!」
ゴガァア……アアアアア……! とアギュラディアスが怒り唸る。
「畜生は……お前だろ」
「ぬっ!?」
僕は、胸に刺さった鉄の棒を掴み、魔法使いに向けて言い放った。
『――ハルトゥナ!?』
「ハル……うそ……!?」
不敵に微笑んで、シャツをめくり上げてみせた。心臓の上には「竜の鱗」を5枚重ねたお守りがあった。魔法使いの「鉄のイバラ」の魔法による槍は、三枚の鱗を貫いて、4枚目で止まっていた。
『――なんと! あの時の鱗のお守りか』
「ね、役に立ったでしょ?」
「き……貴様ぁあああッ!? 殺す! ブッ頃すぁあああ!」
魔法使いは全身からどす黒い魔力を放出した。髪やローブが爆発したみたいに逆立ち、両手で鉄格子全てを槍に変えた。その数は全部で数十本。
「う、そ……!?」
「ハル!」
「死ぃネェエエエ!」
魔法使は躊躇いもなく一斉に鉄の槍を撃ち放った。何十本もの鉄の槍の雨が、僕達めがけて放たれた。
世界の音が消える。
逃げ場なんて無かった。
全てがスローモーションのように見えた。瞬きほどの間に、無数の槍が全身を貫くだろう。
もう、だめだ。
僕はティカリを抱きしめた。
けれど、竜――アギュラディアスの声が聞こえた
『――魔竜障壁――』
目の前で、全ての鉄の槍が、一斉に折れ曲がった。
まるで目の前に透明な壁でもあるみたいに、何十本もの鉄の槍が直角に曲がり、床や壁に突き刺さってゆく。
驚愕の叫びを上げたのは、魔法使いだった。
「な、なにぃぃいいっ!? ばかな、バカなぁあ……!?」
白目をむき、額には今にもブチ切れそうな血管が無数に浮かんでいる。
ゴガァ……! とアギュラディアスが唸り声を上げて、ドスンと一歩踏み出し、魔法使いアーリ・クトゥ・ヘブリニュームを威嚇する。
顔を低めて、ギョロリを睨みつけた。
『――何を驚いておる? 貴様の魔法は……魔力は、元来ワシのものじゃろう。ハルが身を挺し僅かな時間を稼いでくれたお陰での……取り戻せたのじゃ』
言葉は僕の頭に響いたものだ。けれど唸り声と殺気立った竜の鼻息で、その意味は魔法使いにも伝わったらしい。
「おのれ! だが……逃しはせぬ! ここで殺し、竜の血を一滴残らず飲み干してくれるわあああッ!」
魔法使いが両手を掲げた。青黒い雲のような瘴気が集まってゆく。額の血管から血を吹き出しながら邪悪な魔法を使うつもりなのだろう。
『――ハルトゥナ、その娘と背中に乗れ。……飛ぶ』
「え!? あ、うん!」
「きゃ、うそ……竜の背中に……?」
「大丈夫、アギューが乗れって!」
僕はティカリの手を引いて、尻尾の方から竜の背中によじ登った。僕たちはふたりとも裸足だから、登るのに苦労はなかった。
背中に生えているトゲは無数にあって、手で掴み、隙間に足を突っ込めば身体は固定できそうだ。
「ティカリ、大丈夫?」
「う、うんっ、平気」
「いいよ、アギュー!」
『――うむ、ではしっかり掴まっておるのじゃぞ!』
「はいっ!」
次の瞬間、アギュラディアスの鱗が頭の先から尻尾の先まで一斉に色を変えた。くすんだ鉛色だった鱗が、朝日を浴びた水晶のような白色へと変じてゆく。
「わ……!?」
「綺麗……!」
背中の翼を一度羽ばたかせると、フッ……と浮き上がった。
でも、すぐ上の天井には木の屋根がある。
「ぶつかる!」
けれど、さっきと同じようにまるで見えないガラス玉に押し上げられるように、天井が崩壊して破片が舞い散った。
「すごい……! これが竜の魔法……!」
『――守りの結界魔法を展開しているのじゃ。槍や弓矢など届きはせぬ、風や雨に濡ることもなかろうが……落ちない保証にはならぬぞな……』
僕たちはその言葉に再び二人でしがみついた。ティカリの背中に手を回し、落ちないように支えながら。
はっとして下を見ると、古城の屋根を突き抜けて、更に上空へと舞い上がったところだった。視界が一気にひらけて広大な世界が一望できる。
いつの間にか夜は白んで、東の空から明るくなりはじめていた。
「空だ……!」
「外に出たわ!」
僕とティカリは叫んでいた。ついに、魔城を抜け出したのだ!
眼下では魔法使いが何かを叫び、黒い瘴気の塊をどんどん膨らませていた。上空の雲が怪しく渦を巻き始める。魔法使いは空飛ぶ蛾のような、不気味な生き物に姿を変え空を飛び、追いかけてくるのが見えた。
「待てァアア! 貴様らァア! 許さぬッ……」
「ハル! 追いかけてくるよ!」
「アギュー! なんかヤバくない!?」
『――そうじゃったの。行き掛けの駄賃……いや、きっちりと世話になった礼をせねば……のぅ!』
優雅に翼を動かしてゆっくりと上空で反転すると、アギュラディアスは息を吸い込んで、そしてカッと口を開けた。
次の瞬間。
コォアァアア……! と光球が開いた口の前に生じ、まばゆい太陽のような光が炸裂した。
それは、火炎を吐く「竜撃の吐息」なんて生易しいものじゃなかった。
光の柱、まるで太陽を引き伸ばしたみたいな一条の光だった。
眼下で赤黒い魔法円が一瞬、傘のように広がった。魔法使いが防御の結界を張ったのだろう。けれどそれは一瞬で四散して光に押し流されるようにして、魔城の中へと消えた。
僅かの間を置いて、魔城の窓全てから一斉に真っ赤な炎が吹き出して大爆発を起こした。爆音とともに崩され去ってゆく魔城は、黒い煙と瓦礫を撒き散らしながら完全に崩れ去っていった。
「や、やった! アギューすごいよ!」
「すごい! ドラゴンさんすごい!」
『――いやぁ、すっきりじゃわい』
ゴファ……! と竜は翼を動かした。空は群青から白へ、さらに温かな黄色へと変わってゆく。
向かうは東、暁の空だ。
<つづく>