僕は美味しいエサでした
気がつくとそこは竜の口の中だった。
最初は自分の身に何が起こっているかわからなかった。腕や身体は大きな顎で噛みつかれ、無数の牙が突き刺さっている。とめどもなく溢れ出した血が身体や腕を赤く染めてゆく。
――な、何これ!?
「って、痛ッ!? 痛ぃッ……う、ああッ!?」
脳裏に浮かんだ疑問を吹き飛ばす激痛に、取り戻した意識を再び失いかける。
大きな顎に真横からバックリと捕われた僕の身体は、宙に持ち上げられていた。胸から腰にかけて、氷柱のように鋭い無数の牙が深々と食い込んでいる。
ここに至る記憶は完全に抜け落ちていた。突然の状況に放り込まれた僕はもう完全にパニックだ。
叫び声に反応し、竜の眼がギョロリと動く。蛇の百倍もありそうな大きな眼球。その冷たく暗い光に本能的な恐怖がこみ上げる。
「嫌だ……ッ! 離して……! 嫌だ! 食べないで……う、うわあっ!」
ジタバタと足掻いてみるけど無駄だった。物凄い力で噛み付く顎は、簡単に外れるはずもない。最後の力を振り絞り、両手と両足で踏ん張ってこじ開けようとしたけれどビクともしなかった。自分の血でズルリと滑り、最後の抵抗は虚しく空振りに終わる。
途端に全身から力が抜けてゆく。
首を巡らせると捕食者の全身が見えた。鈍色の鱗に覆われた巨大な身体は、トカゲをずんぐりと太らせて背中にコウモリの羽を生やした異形そのものだ。鋭い鉤爪のある腕に全身を支える太い脚。長い尻尾がゆっくりと左右に動いている。
間違いない。滅んだと言われている伝説の竜、ドラゴンだ。
――嘘……こんなの。食べられちゃうなんて………。
血の滴が地面に向けて落ちてゆく。まるで時間の流れを引き伸ばしたみたいにゆっくりと。心臓の鼓動は弱く、今にも止まりそうだ。
エサとして喰われるという恐怖と絶望は、命の終焉を前にした生物にとって、共通の根源的なものだろうか……? こんな時だというのに、本当にどうでもいい事を頭の片隅で考えている自分に気がつく。
あぁ……そうだ。ひとつ思い出した。孤独だった僕はいつも物思いに耽り、思索する事が好きだった。って今はそんな事はなんの役にも立たないけれど。涙と鼻水を流しながら情けない呻き声をあげるのが精一杯だ。
「う、うぅ……」
『――ガァ……あ、あ……暴れるでない、美味なる少年よ。本当に飲み込んでしまうであろうが?』
幻聴だろうか。
意識が朦朧としてきたせいか、変な声が聞こえた。
って……今、聞こえた声は何?
周囲は薄暗くよく見えない。けれど人がいるようには思えない。ぼやける視界を必死で凝らすと、深い穴の底のような場所にいる。上を見上げると円形に切り取った灰色の空が見えた。
でも声は「本当に食べるぞ」と、まるで困惑しているように聞こえた気がした。
「って、もう食べてるじゃん……」
これは苦笑いするしかない。
相手が幻聴でも皮肉の一つぐらい言ってやりたい気分だった。僕なんて痩せっぽちで美味しくないのに残念でした、と。
けれど、絶望した気持ちの中に僅かに余裕が生まれた。最後の記憶の糸を手繰り寄せるほどの、余裕だけれど、これがきっと走馬灯というものだろう。
僕――ハルトゥナは戦災孤児として、エフタリア王国の孤児院にいた。
13歳になったある日、施設の義母は「いい働き口があるのよ」と言って、迎えに来た馬車に僕を押し込んだ。怪しげな御者の男から金貨三枚を受け取るのを見たとき、嫌な予感しかしなかった。
そもそも、邪悪な魔法使い同士が起こした魔竜戦争で疲弊しきった王国に、まともな働き口なんてあるはずもなかった。
最悪、奴隷として地下の秘密工房でタダ働き……ぐらいに考えていた。
そんな最悪の予感は見事に裏切られた。
最悪以下の、もっと悪い方向で。
急に眠くなって、どこかへ運ばれて……。というところまでは覚えていた。そして目が覚めたらもう竜の口の中、というわけだ。
「エサにするなら、もっと美味しいのを選べばよかったのに」
せめてもの一矢、最後の捨て台詞だ。強がりの不敵な笑みを添えて。すると、冷たい光を放つ黄金色の光彩が、ゆっくりと見開かれた。
『――少年。……ワシの声が聞こえるようになったのか? 真祖竜の血、ワシの魔素が脳に達し……耐えられた者は稀有じゃが……何か恩寵が……あるのやもしれぬな』
途切れ途切れに、頭の中に言葉が流れ込んでくる。性別もわからない、若いようで年老いているような不思議な声だ。
信じられない事だけれど、頭のなかに語りかけている声の主は、僕を食べようとしている竜らしかった。
黄金色の瞳がじっと見つめている。
難してくて分からない言葉もあるけれど、竜が発している声を聞けるようになったとしか思えない。
「……本当に、ドラゴンが……喋ってるの?」
『――そうじゃ』
「嘘……」
『――嘘ではない。ワシは、アギュラディアス。嘆きの竜。真祖竜109代目の直系の眷属じゃ』
「アギュラ……ディアス?」
混乱に次ぐ混乱。こんなの信じられない。百年の永きに渡る、邪悪な魔法使いたちの魔竜戦争で竜は滅んだと言われている。
魔法使いの魔力源や、魔法兵器として使役され、使い捨てられたからだと歴史書には書いてあった。竜は邪悪で狡猾、凶暴な魔獣とも書かれていたことを思い出す。。
こうして実際に丸呑みされているのだから「凶暴」である点は証明積み。違うのは、少なくとも話をする「知性」を持っていることだろうか。
『――これが禁忌とされていた人間の血か。なんたる甘美、全身に満ちてくる滋養。しかし、高潔なるワシの魂が汚れ、堕ちてゆくのを感じる……。実に忌々しい……美味なる少年よ』
アギュラディアスの声は歓喜に震えつつも、悔しさを滲ませ、悔いるような響きを伴っていた。
「僕が……美味い?」
瞳を守る薄膜が素早く動いた。竜の瞳には、先ほどとは明らかに違う、まるで星の煌めきのような光が宿りはじめていた。
『――もうすこし血をくれぬか。竜の知恵を……取り戻せそうじゃ』
生温かい何かが僕の腹をくすぐった。竜のザラザラとした舌がでろん……でろん、と行き来する。
「あっ!? ちょっ……! や、やめろって!? どこ舐めてんだよ!?」
ジュルッという艶めかしい音と共に、ヌルヌルして熱い大きな舌がヘソやお腹、下半身あたりを舐めまわす。妙に厭らしい動きの舌が下腹部と腹をしつこく行き来しているのがわかる。
「きゃはは……!? やめろバカ!」
人間、痛いときにも「くすぐったい」と感じる事にまず驚く。いつしか痛みも忘れ、必死に身を捩っていた。
『――丸呑みしたい欲求には抗い難いのぅ……』
「なら食えばいいだろ! さっさと食えよッ!」
涙目で叫んでいた。こんな辱めをうけるくらいなら、いっそ死んだほうがマシだ。
『――おっと、すまぬな、つい……』
舌の動きが止まり名残惜しそうに退いてゆく。やがて竜の首が下を向いたかと思うと、僕を「べっ」と吐き出した。
「ぎゃっ!?」
べしゃっ、と湿った音がして、思い切り冷たい床に叩きつけられた。噛みつかれていた痛みとは別の、鈍い衝撃と痛みが全身を駆け抜けた。
「いっ……痛っててて……て? ……て、あれ?」
むくりと身体を起こして気がついた。
血が……止まっている。それに痛みも無い。
はっとして、胸や腹を触ってみると唾液と血でベトベトしてはいるけれど、痛みが嘘のように消えていた。
それどころか、牙で噛みつかれた痕さえも無くなっている。
『――ワシの体液には、治癒の力があるのじゃ』
「傷が治ったってこと……!? 凄い!」
これは魔法だ。伝説の竜は凄い魔力を持っていたらしい。だから魔法使いたちの道具にされてしまったとも言われている。
立ち上がると、嘘みたいに痛みが消えていた。手足も自由に動くし骨も折れていない。皮膚もヌルヌルして気持ち悪いけれど。
「って、裸じゃん!? 服……服はっ!」
思わず前を両手で隠して前かがみになる。
『――羞恥の感情か? 難儀な生き物じゃのぅ? 隠したいのなら床に落ちているワシの鱗を使うがよい。粗末なモノなら隠せるじゃろう?』
「い、嫌だよ!? てか粗末とか言うな!」
僕は全裸だった。
確かに、エサとして投げ入れたのなら服は要らないだろうけれど。
前を隠して情けなく辺りを歩いてみると、足の裏でカシャカシャと音が鳴る。踏んづけているのは、スープ皿のような大きさの、鉛色の金属の板みたいな物だった。これが「竜のウロコ」らしい。竜の身体から剥げ落ちたものだろう。
「あ、服だ!」
ようやく薄暗さに目が慣れてきた。円形をした部屋の壁が一部、半円形に大きくくり抜かれていた。そこには十数本の鉄の棒が縦に何本もはめ込まれていた。
服はその前に無造作に投げ捨ててあった。
駆け寄ってみると、間違いなく僕のものだ。まずはズボンを履いたところでホッと一息。
「ふぅ。って、これ……鉄格子!?」
思わず太い鉄の棒を掴む。ガシャンと音がして冷たい感触が伝わってくる。
二本の鉄の棒の隙間に顔を突っ込んで辺りを見回すと、錆びた鉄の臭いがした。左は行き止まり。右には石畳と石を積み上げた壁に囲まれた半円形の廊下が見えた。大きく曲がった先は上に続く階段らしいけれど、暗くてよく見えない。
どうやらここは地下牢らしかった。
壁には魔石による「常明ランプ」が所々に埋め込まれているらしく、ぼんやりと夕焼けのような光が灯っている。
「地下牢……! なんで!?」
おーい! 誰か居ませんか! と、叫びたい衝動を咄嗟に抑えた。
混乱していた頭が、動き出していた。
僕はおそらく「竜のエサ」として、ここに連れてこられた。それも死肉じゃなくて、生き餌として、だ。
ならば……叫んでも助けなど来るはずもない。
振り返り、改めて部屋の中を観察する。
部屋の直径は12メル(※1メルおよそ1メートル)ほどの円形。壁は全て黒い石を積み上げて作られている。天井は20メルはあるだろうか。天井の最上部は高く、唯一ポッカリと1メルほどの明り取りの穴が見えた。
上に行くに従って細くなる構造で、登るのは無理そうだ。
他には、壁の窪みに沿って水がチョロチョロと細い糸のように流れ落ち、水桶に溜まっている。溢れた水は小さな排水溝へと落ちる仕組みだ。
ここまでの状況判断はできた。
とにかく、深呼吸。
まだ僕は生きている。
考えろ、考えろ。生き残る可能性はまだある。
次は地下牢の主、巨大な竜、アギュラディアスを観察する。
身長は8メルほどだろうか。全身は鉛色の鱗に覆われていて、背中や翼は緑青のような色合いだ。首を上に伸ばせば10メルは優に超えそうな、巨大な竜だ。
人間を丸呑みに出来ることに関しては証明済みの大顎は、開けば2メル近くはありそうだ。頭には二本の大きな角、他には複数の細いトゲのような鬣が、首の後ろから背中を経て長い尻尾の先まで生えている。
そして、アギュラディアスの足には、金属の「足かせ」が嵌めてあった。
錆びていないところを見ると魔法の金属だろうか。表面には不思議な文字や紋章が描かれていて、同じような材質の太い鎖で壁につながれている。
「君は……捕まっているの?」
恐る恐る、竜に尋ねてみた。
『――そうじゃ。囚われておる。人間の魔法使いの手によってな』
「なぜ?」
『――ワシの血を欲しておる。体験したであろう? 体液のみならず、血は無限の癒やしをもたらすのじゃ』
ゴファアアア! と咆哮を上げる。それは怒りと悲しみの叫びに聞こえた。
「そうなんだ」
『――ふむ? 泣き叫ばぬとは、なかなかに度胸がある。そして賢い少年のようじゃな。いや……ワシもようやく……畜生から脱することができたようじゃ、礼を言うぞ』
「礼……?」
『――微量なれど人間の……それも恩寵を受けた清らかなる血。そのお陰で、ワシの中に魔力が満ち、僅かなれどこうして……人語を介し言葉をかわす古き魔法が使えるようになったようじゃ……』
ゴフゥルルル……。という竜の鼻息が耳に届く。
けれど、同時に頭のなかにはハッキリと人語が聞こえてきた。やっぱり、頭のなかに直接、竜が話しかけてきている。
事情はなんとなくわかってきた。
けれど、エサであるはずの僕を食べずに何故、こうして話しているだろう?
今、考えられる可能性は、いくつかある。
血をすすり続けたい。吸っては直し、吸っては直しを繰り返すため。あるいは玩具。あるいは暇つぶし、単なる興味。
――それとも、別の何か目的がある?
思考する様に興味を持ったのか、ドラゴンが前屈みになって首を近づけてきた。ついさっきまで噛み砕こうとしていた巨大な口には、やっぱり恐ろしい牙がビッシリと並んでいる。
ようやく一息ついた僕も、冷静に向かい合う。
カジカジした事について、文句の一つでも言ってやろうかと思ったけれど、あまりの迫力に思わず足がすくみ、変な笑みが浮かぶ。
「今日食べるのか、明日食べるつもりか……。その可能性を考えていただけ」
『――ほぅ? まずます気に入った。名は?』
「生き餌」
『――捻くれ者め、どういう育ち方をすればそうなるのじゃ?』
ゴフゥ……と巨大な竜、アグラディアスが、溜息のように鼻息を吹き出す。ごふぅ……と生臭い風が吹き抜ける。
「僕は……ハルトゥナ」
『――|たどり着けぬ遥かなる地とは、また皮肉な名じゃのぅ……』
嗤ったのか、竜が首を後ろにゆっくりと下げ、瞳を細めた。
カシャ……カシャと無数のウロコが擦れる音がする。刃も魔法も通さないという、無敵の竜甲冑を僕は今、生で見ている事になる。
「名前、そんな意味なの?」
ちょっとショックを受ける。ネガティブな名前だったとは。
『――なんじゃ知らぬのか? 古代ヒューペルポリナを語源とする……といっても、この世界ではない。古の世界で使われていた言葉の名残じゃな』
「わからない。けれど僕は孤児だから、誰かが適当に付けたんだよ。君だって、嘆きの竜なんでしょ?」
『――そうじゃな。ワシも……酷い名じゃ。嘆きたくもなるぞな。鎖に繋がれ、無様に囚われた我が身。遅かれ早かれ死が訪れよう』
「死ぬ……?」
意外な言葉に驚く。傷を治す魔法さえ使える。竜を殺すには竜しかない。そう言われるほど、無敵の存在なのではないのだろうか?
『――ここは、邪な心に支配された魔法使いの居城の一つじゃ。ワシは……きゃつめの魔法の源として、ここに幽閉されておる』
「そうか、それで……」
察しがついた。僕は竜の栄養となるべく、生き餌として放り込まれたのだ。
『――理解したようじゃの。人間の血はワシらにとって決して口にしてはならぬ禁忌。じゃが、一度口にすれば膨大な魔力が満ち溢れる。魔法使いはそれを欲している。ワシを極限まで飢えさせたうえで、食わせようとしているのじゃ……。卑劣で恐るべき奴よ。決して決して口にせぬと誓った人間の血を……!』
ぐぐっと竜が全身を震わせて、口惜しそうに首を振る。
「でも……食べかけたよね?」
じぃ、と半眼で睨みつける。
確か身体を鋭い牙でカジカジして、流れ出た血を「美味しい」と絶賛。更には舌で舐めていたはずだけど。
『――あ、あれはその……甘噛みしただけじゃ……!』
「はぁ!?」
と、ツッこみを入れた、その時。
鉄格子の向こうの廊下から、人の気配が近づいてきた。
『――まずい……。奴が来たようじゃ』
「え……?」
『――魔法使いじゃ。このままでは……殺されるやもしれぬぞハルトゥナ。ワシが生で喰わぬと知れば、ヤツはお前の血を絞ってでも……と考えるであろうな』
「そんな!」
竜に喰われるか、魔法使いに殺されるか。
最悪の状況は、これ以上無いってほど最悪以下の状態へと動き始めたみたいだった。
<つづく>