マルホーンの迷宮第一層
じめじめしたカビ臭い特有の空気があたりに充満している。
壁には雑草や苔がこびり付き、なめくじが這ったとおぼしき跡が乾いて残っている。
静寂に包まれたそこに僕たち以外の冒険者は見当たらない。
「ここが『マルホーンの迷宮』第一層か」
アンナとヤンに連れられて初めて訪れた迷宮。
そこは『城塞都市ネオトーキョー』周辺に点在する迷宮の中でも、街から最も近い場所にある『マルホーンの迷宮』と呼ばれる初心者に適した難易度の迷宮だった。
ところどころ天井に穴が空いており、そこから入る光によって思ったよりも迷宮内は暗くない。
「ここなら灯りの呪文を使うまでもないアルね。アキラのたいまつも不要よ。ウシャシャシャ」
邪魔な荷物は<バタフライナイト>のママの好意に甘えて置かせてもらったが、僕はせっかくだからと1本だけたいまつを持ってきていたのだ。
しかしどうやらそれも無駄になったらしい。
ヤンの笑い声が迷宮にこだまする中、初の迷宮での冒険を前にして緊張感と高揚感が入り混じった僕は気を引き締めてかかる。
「リラックスリラックス。一層は弱い敵しかいないんだから、もう少し肩の力を抜いて軽ーくいきましょアキラ」
アンナが僕の体をそう言ってソフトタッチでマッサージする。
そういうことをされると別の意味で緊張するんだけど。
「あ、言うのを忘れていたけど、アタシたちは基本的に攻撃には参加しないからそのつもりで頑張ってネ」
「えっ、そうなの? 僕一人で出てくるモンスターと全部戦うの?」
ラメ入りのピンクのリボン付きポーチから手鏡を取り出してメイクの確認を始めたアンナを見て、僕は急に不安になってきた。
「ウシャシャシャ、アンナはそういうヤツよ。ヤンさんはもしもの時はちゃんと回復呪文使うから安心するアルね」
ヤンはさも愉快そうに笑ってバンバンと僕の背を力強く叩いた。
……本当に大丈夫かなあ。
最初の階層である第一層には、動きの遅いスライムや吸血コウモリなど弱いモンスターしか出現しないので危険も少ない。
スライムは基本的にただぷるぷると震えているだけ。
たまに吐き出してくる体内に持った酸の液を素肌に浴びると多少の怪我はしそうだが、みすみすそんな物は食らいはしない。
吸血コウモリは迷宮の天井の隅にいて、こいつらはスライムと違って動く者が近づくやいなや、積極的に襲いかかってくる。
おそらく超音波で獲物の位置を把握しているのだろう。
大きな牙を剥き出しにし、血を吸い取ってやろうと正確に獲物の首筋目がけて飛んでくるのだ。
だが自分で言うのもなんだが、本日迷宮デビューのレベル1新人戦士とはいえ3年前からロードや侍をガチで目指し、訓練学校でも特に剣の実技に力を入れて最高評価『S』ランクを取得していた僕にとっては、この程度のモンスターなど敵ではなかった。
「せいっ!」
気合を込めて堀田印の剣を振り下ろすと、この日何十匹目なのかもうカウントも忘れた吸血コウモリを倒した。
僕はかすり傷ひとつ負うこともなく、楽々と一撃でモンスターを仕留め続けていた。
文字通り手も足も出ないスライムやコウモリをいくら倒したところでまあ自慢にはならないのだろうが。
迷宮に入った時に抱いていた懸念がまるで嘘みたいだ。
「へぇ。アキラったら結構やるじゃないのヨ。あのチヒロのお墨付きだけはあるわネ」
「少しはコウモリに噛まれると思ったけど、ヤンさんの回復呪文も必要ないアルね。さすが酒場で大暴れしただけあっていい動きしているよ」
僕の初となる実戦での動きをベタ褒めで賞賛する二人。
「いやー、それほどでもー」
高レベルの二人に褒められると素直に僕も嬉しくなり顔がほころぶ。
「でもここは宝箱がないのよネ」
急にアンナが退屈そうにため息をつく。
そういやこの人は宝箱を開けるのが本業の盗賊だった。
「宝箱ってモンスターが持ってるの?」
訓練学校で盗賊の授業を受けなかった僕が率直な疑問を口にすると、小指を立てたアンナがピタリと僕に寄り添う。
「アラ、いい質問ねアキラ。正確にはモンスターじゃなくて『迷宮』が持っていると言った方が正しいわネ」
「迷宮が? よく話が見えないけど」
その不思議な言い回しに僕が首を傾げる。
「アタシたち盗賊は迷宮にある宝箱、というかその現象を"迷宮王の贈り物"って呼んでいるわ。迷宮の扉で隔離された小部屋の片隅に、不思議な力で宝箱は固定されて設置されているのヨ。宝箱はそこから動かすことも壊すこともできない上に必ず鍵がかかっているの。アタシたち盗賊の出番ネ。中には財宝や希少な魔法の品々が入っていることもあるけど、大抵は何の価値もないガラクタが多いわ」
「でもそれって結局宝箱の中身はモンスターが入れてるんでしょ? 大事なお宝をそこにしまっておけ的な」
僕の言葉にちっちっちと指を振るアンナ。
「それは違うわ。誰が入れたのでもなく、いつの間にか『自動的』に宝箱に中身が入っているのヨ。だから中身を頂いて空っぽにしても、また閉めておけばまたそのうち勝手に補充される仕組みってワケ。"迷宮王の贈り物"は大抵の迷宮にはあるんだけど、ここは迷宮自体のレベルが低すぎるからかその力が働いていないのよネ」
ストレッチがてらか、器用に片脚を真上に上げて残念がるアンナ。
「なるほど、"迷宮王の贈り物"か。僕たち冒険者を影から支えてくれる神様の力みたいなものかな。教会の聖イグナシオみたいな」
謎の迷宮王に感謝しそうになった僕にアンナが首を振る。
「アラ、そうでもないわヨ。"迷宮王の贈り物"には命に関わるような罠が必ずと言っていいほど仕掛けられていて、それは戦闘じゃ何の役にも立たないアタシたち盗賊でないとまず安全には解除できないんだから。案外それで欲に目の眩んだ冒険者たちを戦闘外でも殺そうというのが本当の狙いなのかも知れないわネ」
アンナの話に僕は思わず背筋が寒くなった。
「そろそろ日が暮れる頃よ。アキラも少し強くなったはずだし、今日はこれで街に帰るアルね」
変な動物の絵の描かれた古ぼけたローブのポケットから錆びた懐中時計を取り出し時間を確認するヤン。
その言葉に従い僕たちは『マルホーンの迷宮』を後にしたのだった。
訓練所に立ち寄った僕らは、それぞれの冒険者登録証を判定球にかざして読み込ませ、冒険データの更新をする。
冒険者登録証は特殊な魔力を帯びており、今まで倒したモンスターをちゃんとカウントしているのだ。
まずは本日倒したモンスターに対する報酬が水晶体に表示され、僕の冒険者登録証へと振り込まれる。
振り込まれたGの払い出しは横にある専属の機械で行う。
「53匹倒してたったの6G? あれだけ倒したのに?」
あまりの金額の低さに僕は目を丸くした。
こんなんじゃアンナに借りてる40Gを返すどころか、今日の宿に泊まる金にもならない。
するとポンと僕の肩に手をやり残念そうに首を振るヤン。
「違うねアキラ。それをみんなで割って一人頭2Gアルよ」
そうか、倒したのが僕一人でもパーティなら報酬はみんなで分割するんだなと納得する。
ということはだ、僕が40Gの借金を返そうと思ったらアレを大体1000匹は倒さないといけない計算に……
いやいや、もっと効率のいい稼げるモンスターが深い層にはきっといるはずだ。
そうでなければ冒険者などとてもやってはいられない。
続いて僕が表示された経験値精算の文字をタッチすると判定球から短いファンファーレが2連続で鳴り、
それを耳にした人々が一様にチラッとこちらを見てニヤリとした。
「おお、レベルアップおめでとうアルねアキラ。一気に2つも上がったよ、すごいね」
「わお、アキラったら早いんだから。アタシたちのレベルにもこの分だとすぐに追いついちゃうわネ」
まるで自分のことのようにはしゃいでくれる二人を見て、僕は仲間って本当にいいものだなと実感した。
「ありがとう! これがレベルアップか……なんだか実感が湧かないけど強くなったのかな」
自分の手をじっと見つめて試しに力を入れてみる僕。
当然ながら特に何も感じない。
「なら判定球に触れて自分のステータスを確認してみるといいアルね」
ヤンの言葉でそういえばそんな機能もあったのだと思い出した。
さっそく判定球に手をかざして『ステータス確認』の文字をタッチすると水晶体に僕の現在のステータスが浮かび上がる。
「あっ、知恵と素早さと運が少し上がってる。でも前衛的に上がって欲しかった力と生命力は上昇なしかぁ」
男としてのタフさに憧れる僕はガックリと肩を落とした。
「ま、レベルアップして何も上がらないってパターンも結構あるからいい方だわネ」
そう言って元気付けようと僕の肩を両手でトン、と叩くアンナ。
見た目はアレなオカマだけどいい奴である。
「じゃあとりあえずメシに行くアルね。料金安くて味そこそこの『みやび食堂』で決まりよ」
「賛成、もうアタシもお腹ペコペコなのヨ」
『みやび食堂』へと向かう仲間の背を見ながら僕はそっと自分の冒険者登録証を手に取った。
そこに書かれた『レベル3・悪・戦士・アキラ』の文字を見てふつふつと嬉しさが込み上げてくる。
そう、僕はレベル3へと上がったのだ。