外伝 サムライ・デル・ディアマンテ その6
穴ぐらの地下5階最奥――大悪魔アークディアブロスは、下僕となることを誓った日本の侍、滝野加兵衛に力を分け与えようとしていた。
「下等生物である人間がアルビアノスのエナジードレインを受けてまだ生きているとは。それだけでも大したものです。あなたなら私の最高の下僕となるでしょう」
長衣の大悪魔はまるで天使のように微笑みながら、自らの右手に生えた一本だけ紫色をした爪を剥がすと目の前に立つ侍の喉元にずぶりと深く埋め込む。
「うっ、ぐはぁっ――」
肉体を侵食する魔の力に抵抗できず、滝野は着物を乱してガクリとその場に崩折れる。
やがて滝野の瞳の色は輝きを失い、闇のように黒く染まった。
長衣の大悪魔は接吻せんばかりにまで顔を近づけ楽しげに尋ねる。
「どうですか? 人間という殻を破り、高位の存在に生まれ変わった感想は?」
滝野はぶるぶると全身を震わせながら両手を握りしめ、歓喜の表情で叫ぶ。
「……ち、力が体中に満ち溢れてきますわ! ふふふ、今やったら徳川の軍勢100人が相手やろうと負ける気せぇへん。悪魔の力がこない素晴らしいモンやったとは、こっちに付いて大正解でしたわ!」
そんな侍に対し、軽蔑の念が込められた少女の声が部屋の片隅から飛んでくる。
「あなたも日本の侍でしょう!? キューエモンが言っていたわ。侍は主人のために戦い死ねる、誇りある者たちだと……なのに、見損ないました! 人間であることを捨て悪魔の下僕に成り下がるなんて、この恥知らずっ!」
壁に打ち付けられた太い鎖から繋がる手枷を嵌められた半裸の少女は、目の前で行われた非人道的な行為を怯むことなく批判する。
だが罵声を受けた滝野は怒りも不快もない様子で、少女を真っ黒な目で見つめ返した。
「それがやねアナ・マリア王女。僕も国元では剣をそれなりに極めて達人気取りでおましたけど、この力を得た今はよ~う分かります。人間はどえらい非力で下等な生物やったんやなって……。せや、あんたもアークディアブロス様に下僕にしてもろたらよろしいやん? しかし九右衛門も百姓の分際で、ようそこまで侍を語れるもんやね。僕が寝返る際に思いっきり斬り捨てたけど、まだ生きてはるやろか?」
「そんな……!」
囚われのアナ・マリア王女は真っ青な顔になり、へなへなと脱力し声を失った。
そのやりとりを無視していた大悪魔は、傍らの台座に置かれた水晶球を見て思わず舌打ちをする。
黒馬に乗って迷宮内を疾走する一人の男の姿がそこに映し出されていたからだ。
「やって来たのは一人。それも馬で、この私の待ち受ける迷宮に乗り込んで来ましたか……非常識な下等生物め。見たところ、宝珠を持って現れたという風ではありませんが……」
苛立たしげな大悪魔の様子を見て、何事かと脇から水晶球を覗き込んだ滝野の表情が少し曇った。
「……あれは侍やあらへん、ただの荷役でおます。九右衛門の奴まだ生きとったとは……僕の馬も勝手に乗り回しとるし、支倉様にでも知れたら切腹モンの勝手な行動ですわ。時に、その宝珠は一体何に使いはるんです? 何やったら僕があれを仕留めるついでに、王宮まで行って取ってきましょか? 実はさっきから、この新しい力を試したくてうずうずしとりまんのや」
滝野の言葉を聞き半裸の少女の目には希望の光が宿り、大悪魔は首を横に振った。
「宝珠は望んだ種族をその中に封ずる力があると聞き及んでいます。つまり下等生物である人間を封ずれば、その瞬間に労せず地上はこの私のものとなるでしょう。ですが、覚えておきなさい。我々の体は太陽の光によって肌は焼かれ、剣で切られる何倍もの激しい苦痛を受け、地上を歩くことすら儘なりません。我々は再生能力というものを兼ね備え不死身の存在ですが、太陽により受けたその傷は再生するにも長き時を必要とするのです」
神妙な顔で滝野はそれに頷く。
(冗談やあらへんで、それじゃ穴ぐらの外では夜しか行動できんっちゅうことやないですの。やけど再生能力は素晴らしいわ……宣伝に嘘偽りなく、これで僕は未来永劫生きれる不死身の体やさかい)
滝野は内心で自分が失ったものより得たものの方が大きいことを改めて実感すると、ニヤリと唇の端を歪ませた。
「しかし、馬で迷宮を荒らされるのは不快ですね。マイヨールディアブロたちが前回あらかた片付けられたとはいえ、この僅かな間にもう3階にまで降りて来ましたか……」
そう呟き長衣の大悪魔はちらりと傍らの下僕、滝野に目をやる。
(実力の程は問題ないでしょうが、さて……)
大悪魔は顎に細い指を当て一考すると、下僕となったばかりの男が人間時代の情にほだされ万一の事態が起こるのを懸念し、別の手を打つことにした。
「よろしい。では契約を交わした盟友を召喚するとしましょう。あの者が仮に宝珠を持っていたとしても死体から回収すれば良いだけのこと。それに盟友ならば太陽を恐れる必要もありません。ある意味この私よりも恐ろしい存在といえるでしょう……来たれ『死を呼ぶもの』よ」
大悪魔は指先から青白い炎を迸らせると床に魔法陣を描き、魔界より何者かを呼び寄せる儀式へと入った。
俺は黒野号の手綱をしっかりと握りしめると、人馬一体となって通路に立ち塞がる悪魔たちに突っ込む。
「どけどけ、邪魔だ! どけどけ!」
ヒヒィーーーン!!
黒馬は勇ましくいななくと、その大きな蹄で悪魔の群れを次々踏み潰し、まるで矢のように薄暗い穴ぐらの道を駆け抜ける。
悪魔をもろともしない黒野号のおかげで、俺は用意した槍や腰の二本の刀剣を使うまでもなく前回の道順をかなりの速度で辿れた。
現れる悪魔は片っ端から黒野号が蹴散らしあっという間に地下4階、あの扉の先が門番がいた階段の部屋だ!
だが突然そこで黒野号はピタッと急停止した。
「どうしたんだ馬鹿っ黒? このままどんどん行こうじゃないか、なあ?」
俺は機嫌を取るようにたてがみを撫でてやるが、気分屋の黒馬は森の泉に時のようにまたウンともスンとも言わず、仕方なく下馬して扉を開ける。
部屋の中に手綱を引っ張っていこうとするが、この馬鹿っ黒はまた意地でも動こうとしなかった。
「ったく、とんだジャジャ馬だな……まあいいさ。ここでおとなしく待ってろよ。必ず王女を連れて戻るからな」
ぶるっと返事をした黒馬に別れを告げ、俺は用意していた風防付燭台を手に前回門番と戦った場所へと足を踏み入れた。
風防付燭台は松明に比べると明るさはぐっと落ちるが、こいつはその場に置けるのと消される心配がないのがいい。
うっすらと照らされた室内の様子に何か違和感を覚え、その理由に気付き背筋に戦慄が走る。
俺の影が――2つある!
燭台を床に置き油断なく腰の村正を抜くと影はずるずると部屋の片隅へ移動して人の形を取った。
「コニチハ、アナタ、カシコイデス」
陽気にお辞儀をして片言で語りかけてきた男の姿には見覚えがある。
俺の国のかるたにも似た、イスパニアでも『カルタ』と呼ばれる絵札に描かれている『コモディン』――鎌を持った宮廷道化師の男だ。
俺も小寺様に誘われ遊戯の相手を何度か務めたことがあるが、このコモディンの札は万能ともいえる遊戯の肝であった。
「チョト、マテクダサイ」
道化師はぬらりと片手を胸元に突っ込んでゴソゴソと何かを取り出す。
待っていられるか、影に潜む男など悪魔に違いない!
俺は刀を握る手に力を込め、猛然と男に向かって突っ込む。
道化師は逃げるでもなく、おどけた顔で一冊の本をバッと開いて俺に見せる。
そこには何も書かれておらずただの白紙だ。
何がしたいんだこいつは?
刀の届く範囲にまで迫り上段に村正を振り上げたその時、白紙の頁にゆらゆらと達筆な墨文字が浮かび上がってきた。
それは紛うことなき俺の名前だ。
道化師が満面の笑顔で口を開く。
「ニイヌマムラノ、キューエモン?」
「!? む、ぐっ……!」
名を呼ばれた途端、俺は村正を取り落としてその場にバタリと倒れた。