ナインテイルの湯
「アキラ、お湯加減はどう?」
サラが可愛い声を浴室に響かせてそう僕に尋ねる。
「うん、もうちょうどいいと思うよ」
僕は湯船に手を付けて温度を確認するとサラに返事をした。
「じゃあ私もそろそろ入ろうかな。さっきすっごく熱かったから、ヤケドしちゃいそうだったの。日本のお風呂ってこんなに熱いのが普通なのね。私、びっくりしちゃった」
目の前を艶めかしいお尻がぷりぷりと小刻みに動きながら通り過ぎる。
僕と目が合うと恥ずかしそうに前を隠し、ゆったりとした湯船へとその身を下ろした。
肩から胸へ、気持ちよさそうに湯浴みをしてその背を伸ばす。
これは夢か現実か。
なんということだろう、そのすらりと長い足を大きく湯船から出して組み替えた。
あられもない姿がこちらから丸見えである。
思わず視線を逸らす僕。
すると僕の視線に気付いたのか、笑いながらまるで誘惑するかのように手招きをする。
「アキラも早くいらっしゃい」
そう言って僕を生まれたままの姿で待ちわびている。
そう、アンナが。
どうしてこうなった、サラと混浴になる流れではなかったのか?
僕の気持ちなど露知らず、アンナは鼻歌を歌い出した。
「サラ、シャンプー貸して欲しいアルね。こっちに投げて欲しいよ」
洗い場で体を洗っていたヤンが、壁を挟んだ隣の女湯のサラに話しかける。
「いいわよ。でもあんまりたくさん使わないでね。これイタリアから持ってきたすっごーく高いやつで、もう代えのストックもないんだから」
この壁一枚で仕切られた隣には楽園が広がっているんだよな。
蛇口に手をかけて、頑張って壁をよじ登れば何とか女湯が見えそうなぐらいの高さの壁だ。
思わず身を乗り出しかけたがハッと我に返った。
いけない、これは超えてはいけないゾーンだ。
「いい? それじゃ投げるわね」
シャンプーボトルが男湯と女湯の垣根を超えて宙を舞う。
「ああー、とんでもない方向に飛んでったアルね!」
すると、すぐさま華麗にアンナが浴槽からジャンプしてそれをキャッチした。
たが、その拍子にモロに僕の顔面に何かがぶつかる。
アンナの、あんなところが……・
「アラ、嬉しいハプニングだわネ、アキラ」
どうか夢であってくれ!
僕は悶絶した。
「ああ、とっても気持ちよかった。今日一日のイヤな汚れと疲れが、今のお風呂で全部吹き飛んじゃった♪」
休憩所で浴衣に着替え終わっていたサラはそう言ってニッコリと微笑んだ。
湯上がりのサラの肌はほんのりと桜色に上気して、何だか色っぽい。
僕たちは、ワンゴールド銭湯『ナインテイルの湯』に来ていたのだった。
料金1Gという格安の値段の上に、浴衣の貸出も無料で行っている至れり尽くせりの場所だ。
男湯と女湯を同じ空間にして、壁一枚で仕切っただけという簡易な作りもその安さの理由かもしれない。
混浴とまではいかないが、この独特の雰囲気が利用者には人気で『ナインテイルの湯』は結構繁盛しているようだった。
「風呂上がりはやっぱりコーヒー牛乳に限るアルよ。みんなの分も買っておいたよ。ヤンさんに感謝して、腰に手を当てていただくね」
「アラ、ヤンにしては気が利くじゃない。それじゃ遠慮せずいただきましょ」
珍しく気を利かせたヤンが僕たちの手にコーヒー牛乳を配る。
「サラにはイチゴ牛乳も特別におまけするアルよ。これもイケる味ね」
「そんなに一度にたくさん飲めないんだけど。ありがとう。そういえばヤン、私のシャンプーは?」
ヤンが丸眼鏡を光らせた。
「あのシャンプーは最高よサラ。見てよヤンさんのこのサラサラになったヘアーを!」
そう言って僕たちにサラサラヘアーを触らせて自慢するヤン。
「ほんとだ。あのガチガチだったヤンの髪質が嘘みたいにサラサラになってる!」
驚きの感想を述べる僕にヤンは胸を張る。
「全部使ってしまったアルが、これだけでもその価値は十分あったね」
「ヤ~~ン~~!!」
サラが鬼のような形相になり、逃げるヤンを追いかけて行った。
「オイ、おまえ葉山じゃないか?」
唐突にそう呼びかけられて僕は振り返る。
「やっぱりそうだ、『恵みの家ハートハウス』のみなし子の葉山じゃん。中学以来だから、3年ぶりだっけ? 何、おまえオカマとつるんでんのか」
そいつは僕の隣に立つアンナを見て侮蔑的な笑みを浮かべるとそう吐き捨てた。
「アラ、失礼しちゃうわネ。この失礼な子と知り合いなのアキラ?」
僕にとっては思い出したくもない相手だ。
加賀竜二。
"カンガルー"と僕たちはひそかに呼んでいた。
カンガルーの親は有数の権力者で、その威を借りて昔からロクでもないことばかり繰り返していた、根っからの最低人間だ。
こいつは幼い頃に僕の相棒だったクロをさらい、殺しかけた。
その時、親友であるヨシュアがカンガルーを叩きのめしクロを助けてくれ事なきを得たのだが、その報復としてカンガルーは親の力でヨシュアの所属するサーカス団に圧力をかけると、この街にいられなくした。
サーカス団は欧州へと旅立ち、僕とヨシュアの友情はそのまま引き裂かれた。
運の悪いことに、僕はそれから中学校を卒業するまでずっとこいつとは顔を突き合わせる羽目となる。
それからというもの、カンガルーにはいつも嫌がらせをされて親友のヨシュアもいなくなった僕は、中学を卒業して訓練学校に入るまでつらい学生時代を送った。
だが下手に手を出して、ヨシュアの時のように報復され『恵みの家ハートハウス』に迷惑をかけるわけにはいかなかったから、僕はただ耐えるしかなかった。
「こんな奴知らない。行こう、アンナ」
そうアンナをうながして休憩所を出ようとすると、カンガルーは僕の手を強引に掴んだ。
「何、シカト? ちょっと会わない間に態度悪くなったねおまえ。良い話聞かせてやるからまあ聞けよ。俺、国連の職員に就職決まったから」
国連。
正式名称、国際冒険者連合。
スイスに本部を置くそこは、この世界において一番大きな機関だ。
国連は冒険者たちの迷宮での冒険を支えるために今から54年前に発足した。
アメリカに『魔王イブリース』が現れたちょうど1年後のことだ。
現在世界中の迷宮攻略都市に存在する、訓練所や訓練学校も全て国連の管理下にある。
一般人が目指す最高の就職先、それが国連なのだ。
「葉山、おまえ確か中学の後の進路、訓練学校に行ってたよな? あれか、迷宮で汗水垂らして死ぬだけの超ブラックな冒険者にでもなっちゃったの? ご愁傷様。俺は明日からスイスの国連本部勤務でおまえら負け組を管理する側に回るわ」
僕の我慢もそろそろ限界に達しようとしていた。
その時、女神が現れた。
「アキラ聞いてよ。ヤンったらね――」
僕のところに帰って来たサラを見て、カンガルーがヒューと口笛を鳴らす。
「へえ、葉山の分際で結構イイ女も連れてるじゃん。オイ、そんな奴より俺と今夜どうよ? 日本での最後の思い出がわりに、超エリート国連職員の加賀様が特別に遊んでやるよ。イイ思いさせてやるぜ」
カンガルーはニヤニヤと下卑た顔でサラの肩に手を回そうとする。
「ちょっと、アンタいい加減に――」
バシン!
アンナの抗議の声とほぼ同時に、気持ちのいい音が休憩所に響き渡る。
サラがカンガルーをぶったのだ。
「ふざけているの? 顔でも洗って出直してきなさい!」
カンガルーはポカンとして何が起こったか理解できていないようだったが、すぐに顔を紅潮させて、わなわなとその体を打ち震わせた。
「葉山、それとその女も。よくも人をコケにしやがって、覚えていろよ。俺は絶対に許さないからな……」
カンガルーはそれだけ言い残すと僕たちの目の前からゆっくり立ち去った。
僕の体は、すっかり湯冷めして冷えきっていた。