バッドモーニング
朝がやって来た――最低な朝だ。
昨夜の脱獄が失敗に終わった僕は、ベッドもトイレも何もないこの独房で一夜を過ごした。
きっと仲間たちもそれぞれどこか別のフロアの独房に入れられていることだろう。
おまけに今日これから、またあの『ヘルハウンドの迷宮』へと僕たちは送られることになっている。
そこにいる三体の凶悪S級モンスターを討伐し、その証である宝珠を持ち帰る……それが脱獄を失敗した僕たちに課せられた処罰だ。
一人で考える時間がたっぷりとあったことで冷静になった僕は、これまでに得た情報から頭の中に引っかかっていた事柄を整理してみた。
占い師のお婆ちゃんが1Gで占ってくれたあの言葉。
『危険に満ちし迷宮へ敢えて飛び込め。番人が持つ3つの宝珠が汝を救う』
あの時は適当な占いだと思っていたけど、現実にそれが僕の今の状況と見事にハマっている。
無期懲役となった僕がここから出所するチャンスを掴むには、この占いに賭けてみるのが最善の手に思えてきた。
よく信じる者は救われるって言うけど、本当に救われるかもしれない。
でもあのお婆ちゃんはこうも言っていた。
『親しき友にも二心あり。裏切り者に重々注意せよ』
裏切り者――。
昨日の夜、獄長たちはゲートの外で完全に僕たちを待ち伏せしていた。
看守長のクレーも僕たちがゲートを出るその瞬間までずっと演技をしていたんだもんな……。
考えたくはないけど、仲間のうちの誰かが事前に脱獄計画を密告したという疑いは捨てきれない。
どうしてそんなことをするのかという理由も見つからない、薄い疑惑だけど……。
今日これから冒険を共にする際、仲間たちの行動に一応目を光らせておこうとは思う。
そうだ、迷宮での冒険があるんだから体力を少しでもつけておかなくっちゃね。
朝食として出されたとてつもなくマズイ『ムショノメシ』を僕が無理やり口に突っ込んでいると、壮年の堅物そうな看守の男がむっつりとした顔でやって来た。
「4771番、食事中か。いや、そのままでいい。おまえに面会だ」
「むぐ、面会!?」
僕に面会なんて、もしかして……ロンドンに来ているという、脱獄後に合流するはずだったアンナかな?
いや待てよ、ひょっとするとサラがイタリアから駆けつけてくれたのかも?
奥の方から扉を開けて独房のあるこのフロアへと入ってくるその人物を、鉄格子ごしに期待を込めた目で見守る僕。
だが――その淡い期待は目の前に現れた男を見た瞬間、粉々に打ち砕かれた。
「よう葉山。いや違った、アキラ。いやいや、それも違ったな。えーっとぉ何だ? 確か今は4771番だっけ、囚人番号? あっはっは! なんかおまえって俺様と会う度に名前と身分が目まぐるしく変わってるよな。超うけるわ~、ツボだわ~」
「カンガルー……」
ニヤニヤと気に障る笑みを浮かべるこの男は、カンガルーこと加賀竜二。
僕を罠に嵌めて逮捕させ、国際裁判で有罪判決に導き、この監獄都市へとぶち込んでくれた張本人だ。
こいつに関しては小学校時代から本当にロクな思い出がない。
悪意の塊が服を着て歩いているような最低最悪の人間、それがカンガルーなのだ。
……駄目だ、まともにこいつと向き合っていたら怒りを抑えきれそうにない。
「わざわざ僕を笑いに来たのか? ……帰れよ。おまえと話すことなんてこっちは何ひとつない」
相手にすまいと冷淡な態度を取る僕に、カンガルーは驚いた顔で両手をオーバーに広げた。
「おいおい、せっかくエリートのこの俺様が幼馴染みのためにわざわざ忙しい合間を縫ってロンドンまで面会に来てやったんだぜ? もっと嬉しそうな顔をしろよ。まだおまえが生きているうちに、せめて冥土の土産にと思ってさ。今日はとっておきの良い話を持って来たんだよな~」
何が良い話だよ、僕にとっての良い話ってのはおまえがこの世界からいなくなることだ。
黙ったまま睨んでいる僕をお構いなしに、カンガルーは一人で勝手に喋る。
「良い話その1。超絶エリートの俺様、なんとこの度めでたく昇進しました~イェーイ。ただの平職員から、『国際冒険者法』を制定する法務部のトップに一気にのぼり詰めたぜ! ま、これもある意味おまえのおかげでもあるのかね? 養分ゴチ~っす。俺様の踏み台になれて良かったな、くっくっく」
なんてこった神様、信じられない!
こんな最低最悪の人間が国連で働いていること自体がそもそも極めておかしいのに、今度は『国際冒険者法』を制定する立場に就くだって?
冒険者たちを守るための法は、正義は……この先一体どうなってしまうんだ?
「お、開いた口が塞がらないってカンジ? いいね~そのストレートなリアクション。新入社員がいきなりこんな大出世するなんて異例中の異例、ミラクル大昇進らしいからな。俺様も最初話を聞いた時は思わず震えたね。でも面白いよなー、小中学校で一緒に授業受けてた俺様とおまえが就職でこうも差がついちゃうとさ。かたや国連の部長、かたや監獄の囚人だぜ~?」
独房の前で満足そうに自慢話をするカンガルーを前に僕が歯を食いしばっていると、看守が制服のポケットから古びた念導時計を取り出した。
「面会終了まであと3分です」
それを聞いてカンガルーが苛ついた声をあげる。
「はあ? 何それ。つーか、俺様を誰だと思ってんの? 国連の法務部部長にして、ここのロンドンウォールプロジェクトに出資した天下の加賀財閥の次男坊、加賀竜二様だよ? 獄長に言えば面会時間なんざ1時間でも2時間でも簡単に引き伸ばせるっしょ? んなとこでボーッと突っ立ってないで、早く獄長んとこに確認に行ってこいよ、確認によ!」
上から目線で命令するカンガルーだったが、堅物そうな看守はむっつりとした顔で首を横に振る。
「駄目です。決まりは決まりです。面会時間の延長申請なら、前日にその旨記入した書類を提出して獄長に受理されている必要があります。面会終了まで残り2分45秒です」
いいぞ看守さん、さっさとこいつを追い返してくれ!
「ったく、監獄の手続きはいちいち面倒なのな。俺様の良い話はまだまだあるのによ……じゃあ最後にこれだけ伝えとくぜ。俺様、さるイタリアの名門の令嬢との婚約が決まりました~イェーイ! 結婚するんだぜ俺様」
最後にどんな自慢が飛び出すのかと思っていた僕は意表を突かれた。
カンガルーが結婚だって?
こんな奴と結婚する女の人って一体どんな人だろう……全然想像つかないな。
いや、十中八九お金が目当てなのだけは間違いないか。
「結婚式は今から3日後、あのイタリアが誇る聖イグナシオ教会本部で豪勢にやる段取りになってんだ。どうよ、すげえだろ? 俺様としちゃ、付き合いの長いおまえには是非とも出席してもらいたいと思ってよ……あ、ワリぃ。やっぱ囚人は式には呼べないわ。あっはっは!」
くっ、本当にいちいち頭にくる奴だ。
「はいはいおめでとう。頼まれたって誰が出席してやるものか。こっちから願い下げだ。もう十分だろ、馬鹿話が終わったならさっさと消えてくれ。おまえの顔はもう金輪際見たくない」
僕が突き放すようにそう言うと、馬鹿みたいに笑っていた加賀から急に表情が消えた。
「へぇ……言うようになったじゃん。でもこれを聞けばおまえは意地でも式に来たがるだろうよ。ジャーン、聞いて驚けよ? 俺様の結婚相手はイタリアの名門カルボーネ家の長女、サラ・カルボーネだ! 貧乳なのが玉にキズだが、栗色の髪の結構イケてる美人でさー。あ、おまえもよく知ってるんじゃね?」
そのカンガルーの言葉が僕は理解できなかった。
いや、理解したくもなかった。
あっ、そうか!
きっとこれはカンガルーのくだらない嘘だな。
監獄の中で動けない僕に対する嫌がらせに違いない。
「そんな嘘に騙されるもんか。サラがおまえみたいな奴と結婚なんて絶対にするはずないだろ、馬鹿馬鹿しい」
それにしても僕の大事なサラと結婚だなんて、悪質な嘘にも程が有るぞ!
怒りの目で睨む僕を前に、カンガルーは顎に手をやり余裕しゃくしゃくの態度を取る。
「それがさー、元々親同士が大昔に決めてた許嫁らしいんだよなー。もっとも、俺様はそんな古臭いモンに縛られるのはまっぴらゴメンだし、ちょっと遊んでやるだけのつもりでイタリアくんだりまでその女の顔を拝みに行ったのよ。そしたらビックリ、前に銭湯でおまえが連れてたあの無礼な女じゃん? で、俺様考えたのよ。おまえの大事なモノを頂くってのも一興かも、ってな。だから今の加賀家にとって特にメリットのないこの婚約話を受けてやることにしたのさ。サラの親父も俺様に娘を貰って欲しくて必死で笑えたぜ~。なんせ今カルボーネ家は2000万の借金を抱えて火の車でもう後がないからよ。ま、ウチの加賀財閥の財力をもってすりゃ、そんなの余裕で完済してやれるからな~。世の中はやっぱ金よ、金。2000万は囚人のおまえにゃ到底支払えない額だろ、4771番クンよ? あっはっは!」
長々と語るカンガルーの話を聞いて、僕は全身から血の気が引いていくのを感じた。
まさか……いや、そういえば裁判前に弁護人のジューダスが聞かせてくれた情報でも、サラのお父さんの会社が破産して多額の借金を抱えていると確かに聞いた。
信じたくはないけど本当に、本当の話なのか……?
「時間です。現時点を持ちまして面会終了となります」
看守に促されて僕に背を向けたカンガルーだったが、ふと思い出したように満面の笑みを浮かべて振り返り、僕を挑発するかのように鉄格子へと顔を近づけた。
「そうだ。もしも次に会うまでおまえが奇跡的に生きてたら、俺様とサラの初夜の報告でもじっくり聞かせてやるよ。どんな具合だったか念入りに教えてやるから、せいぜい楽しみに待ってるんだな。あーっはっは!」
その言葉でついに僕はこれまでずっと抑えていた感情が爆発し、キレた。
「くそっ、殺してやるカンガルー!」
鉄格子の隙間から手を伸ばしてカンガルーを必死で掴もうとしたが、あいつは笑いながらさっと飛び退き僕の手は虚しく空をさまよっただけだった。
「この加賀竜二様を怒らせるとどうなるか、よーく分かっただろ? じゃあな囚人4771番!」
カンガルーは上機嫌な様子で扉の向こうへと消えた。
イヤだ、サラがあんな奴のものになるなんて……絶対にイヤだ……。
ヘナヘナと力なくその場で崩れた僕は独房の中でうずくまる。
カンガルーの去った独房の前で、看守が念導時計をしまいながらポツリと呟いた。
「……これは独り言だが、ヘドが出るような最低最悪の男だったな」
去り際に看守は僕への同情とも取れる言葉を呟き、独房へと続く扉を閉めて出て行った。