アングラデスの迷宮第六層 その7
立派な門を通った先にあった、皇帝のいるという宮殿に入っても同じような状況で、誰も僕たちを止める者もなく皆が一様にどこか虚ろな目で酒を飲むか快楽に身を興じており、誰一人まともな人間には出会わなかった。
鳥や花の絵がそこらに描かれた華やかな謁見の間に僕たちが入ると、鮮やかな色をした非常に丈の短い大胆な着物を身に纏った美女が一人、金銀が散りばめられた豪華な椅子に物憂げな顔で腰掛けていた。
超ミニの着物からはみ出た長い足を見せつけるように組み、長いキセルを手にした身分の高そうなその美女は、僕たちの姿に不審そうに目を向ける。
「なんじゃ、誰かと思えば日本とかいう小国から派遣された遣唐使とやらに付いてきたおまけの男ではないかえ。連中はとっくにわらわの術で快楽に溺れたというのに。おまけごときが宮殿をチョロチョロ動き回った挙句、軽々しくわらわの前に現れるとはこの無礼者め。わらわを誰と心得る? この唐を治める皇帝であり神、『九尾神女タマモズキア』であるぞ。人の身の分際で頭が高いわ。控えい」
偉そうな態度でほっそりとした手を頭上に掲げ、指をくるくると回す仕草をするタマモズキア。
待てよ、『神』だって?
だとしたら、その仕草が意味するものは……!
「危ないっ!」
叫ぶと同時に紅麻呂の体を抱えて僕は横に飛ぶ。
僕が瞬時にその行動を取れたのは奇跡的だった。
今まで僕と紅麻呂が立っていたその場所には強力な電光が迸り、床が黒焦げになっている。
これはかつてコボルド神シバが放ってきた攻撃と同じ類のもの、あれを見ていたからこそ今の致命的な攻撃をすんでの所で回避できたのだ。
「妖術か? それにしてもよく今の攻撃が分かったな、そちのおかげで助かったぞ。どうやらあの女がこの国をおかしくさせた張本人らしい」
紅麻呂は僕に礼を述べると左腰の横に吊るした薄紅色の立派な飾りの付いた鞘から、湾曲した反りのある大きな刀を引き抜いた。
日本刀の中でも僕の持っている反りの少なくやや短めの『打刀』と違い、『太刀』と呼ばれる種類の大昔の刀だ。
この種類の刀が作られていたのは政の活躍した江戸時代よりも、もっともっと古い。
えーと、何時代だったっけ?
とにかく現実世界ではほとんど現存していない、伝説級のレア刀のはずだ。
「ぐぬぬ、神雷を避けるとは生意気なおまけめ。もうわらわは怒ったぞ、プンプンじゃ。あまり見せとうはないが神の本性を見せてくれよう。その腸を引きずり出して喰ろうてやるわ!」
そう吐き捨てると、ナイスバディの美女は瞬く間に九本の尾を持つ巨大な白い獣に姿を変えた。
尖った口の先からは長く鋭い牙が剥き出しで、ボタボタとよだれを滴らせている。
もはや先程までの美女の面影はどこにもない。
神と名が付くからには相当なレベルの敵のはずだが……やるしかないか。
僕もスシマサを抜こうとすると、紅麻呂はそれを止めた。
「ここは麿に任せろ。仏教の教えを守るこの国を退廃させただけでなく、使命を帯びて命がけで海を渡りし遣唐使を怪しげな妖術で快楽の虜にしたなど決して許せん。そちがこの国の皇帝だろうが神だろうが無礼上等、麿に牙を向ける者は全て敵。斬って捨てるのみ……」
紅麻呂は恐ろしい声でそう言うと腰を深く落とし、真っ直ぐにタマモズキアを見据えて太刀を斜めに構えると左手の指を刃の先端に這わせる。
えっ、紅麻呂って若い時はこんなキャラだったの?
前の優雅だったおじゃるの人と全然雰囲気も口調も違うんだけど……まるで星沢のインタビューに書かれた嘘の僕のキャラみたいだ。
でも神を相手に一人で戦うなんて、いくら何でも無茶過ぎやしないだろうか。
僕が加勢をすべきか迷っている間に、タマモズキアは四肢を躍動させて素早く攻撃を仕掛けてきた。
「ギシャアアア!」
恐ろしい咆哮を上げてタマモズキアが紅麻呂を噛み砕いたかに見えた、その刹那――。
シュピーン――。
快音を響かせて、紅麻呂の手にした刀が電光石火の速さで敵の胴を撃ち抜いていた。
「名付けて『操手狩無礼胴』」
それは一見すごくシンプルな胴打ちのようにも見える一撃。
でもその一撃が見た目と違い、尋常でない威力を誇る技なのを僕は心のままに本能で感じ取った。
「う、うそじゃ、わらわの神性が抜けるっ!? いやじゃいやじゃ、わらわはまだ死にとうない! せっかくこの国を手中に治めたというのにっ!」
その体から霊気のようなもやを大量に立ち昇らせ、巨大な獣の姿から美女の姿に戻ったタマモズキアが我が身を抱きしめて必死の声で叫ぶ。
「観念するのだな、傾国の妖女め」
紅麻呂が情け容赦なくその太刀を振り上げた。
「お願いじゃ、もう二度と悪さはせぬゆえ見逃してたもれ。そこな若者からもこの恐ろしい男にどうか頼んでおくれ」
ナイスバディな美女は目に涙をたたえて突然僕を指名してきた。
仮にも僕たちを殺そうとした相手だしなあ……うーん。
「じゃあ人々をおかしくしてる変な妖術をすぐに解いてよ。話はそれからだ」
僕がそう言うとタマモズキアはウンウンと必死に頷いた。
「お安い御用じゃ。そーれっ! これでわらわの支配は完全に解けたのじゃ。な、許してお・く・れ?」
えらくあっさりしてたけどホントかな?
でも謁見の間の外から人々の声も聞こえてきたからどうやら元に戻ったっぽい。
お尻から尻尾を出してぱたぱたと振るタマモズキアのまるでクロみたいなその仕草に、僕はすっかり毒気を抜かれてしまった。
「こう言ってるけど、どうかな? 許してあげたら」
美女のお願いには弱い僕がそう言うと、紅麻呂はしょうがないという顔でふうっと息を吐いた。
「麿に助太刀したそちが言うなら今回だけは見逃そう。これに懲りてもう二度と悪さなどするでないぞ化け狐よ」
紅麻呂が納刀するとタマモズキアは嬉しそうにぴょんと跳ねる。
「おお、神であるわらわを打ち負かす強さを持つだけでなく、何という心の広さ。それに、よく見ればわらわ好みの涼しげな目元に甘い細面のきりりとした顔立ちの美男子……。わらわはそなたにもうメロメロじゃ紅麻呂様。口添えをしてくれたそこな若者にも感謝しますぞえ。いつかきっとこの恩は返しましょうぞ」
次の瞬間、僕はいつものあの殺風景な卓がひとつ置かれただけの部屋にいた。
ただいつもと違うのは、目の前の卓にさっきのタマモズキアが腰掛けて、超ミニの着物から長い足の付け根まで丸出しにしたあられもない格好でいるということだ。
「と、いうことがあったのじゃ。わらわの若気の至り、甘酸っぱい青春の1ページじゃな。時の繋がりを理解したかえ?」
「はいっ? いやいや、さっぱり訳がわかんないんですけど……一体どういうことなんですか?」
そう聞き返す僕に、タマモズキアはツーンとした顔でぱたぱたと尻尾を出して振った。
「質問は一切禁止じゃ。自分の頭で考えてみるんじゃな」
えー……。
僕が過去の世界でタマモズキアを許してあげたから今に至ると、そんな感じなのだろうか?
正直あまり理解できてはいないけど。
「あれから帰国する紅麻呂様に付いて船で共に日本に渡ったわらわは、玉藻御前、ものずき姫、九尾の狐、稲荷大明神、ナインテイルだの色々な名で人間に呼ばれて畏れ敬われたものよ。人の世と関わり長い長い月日が経ったが、強く賢く雅で凛々しい紅麻呂様に仕えた、あのまったりとした平安時代の日々が一番楽しかったのう」
タマモズキアは遠い目をして懐かしさと切なさが入り混じったような微笑みを浮かべると僕に向き直った。
「さて、そなたに紅麻呂様から伝言じゃ。『操手狩無礼胴』は麿の持つ一振りの太刀では一ノ太刀を振るう間しかなく、そこに全てを賭けるより他はない未完成技。だが、もしもニノ太刀を決めることができたなら、この技は真の境地へと達しよう、とのことじゃ。ただの寿司屋でもわらわが少しセクシーな声を聞かせただけで紅麻呂様の系譜の技を閃いたんじゃから、戦士のそなたへの直の助言なら楽勝じゃろう?」
寿司屋……政に聞こえた神の声というのもタマモズキアだったのか?
僕の推測では現在のクリティカルヒットの原点は政の<操手狩必刀>にあり、さらにその起源は紅麻呂の『操手狩無礼胴』なんだと思う。
不思議な力で時を越えて、僕はその始まりをこの目で目撃したんだ。
一ノ太刀とニノ太刀か……僕は幸いにもスシマサとムラサマという二刀を手にしている。
そう、スシマサとムラサマだ。
「見えた……気がします」
僕がしっかりとタマモズキアを見つめてそう言うと、何故か彼女は慌てて両手で股間をさっと隠した。
いやいや、そういう意味じゃないんだけど!?
「こほん、セクシーなわらわと密室で二人きりじゃといって妙な気を起こさぬようにな。そなたには残念じゃろうが、わらわの心は今でも紅麻呂様一筋じゃ。ほれ、これでも読んでのぼせた頭を冷やすがよいわ」
若干頬を染めながらタマモズキアは指をくるくると回すと、『ファースト・ロード』というタイトルの一冊の本を卓の上に出現させた。