小学生
小学生になる頃には、私は自分の親が、周囲の親とどこか違うと感じていた。
一緒に遊んでいた友だちは親を怖れていなかった。
「ママ~」と言って母に抱きつく。
優しく受け止めるお母さん。
私はそんなことしたこともなかった。
なんか私、人と違うー
自然と内向的な性格になった。
小学生になったはいいものの、友だちはあまりできなかった。
性格の問題もあったと思うが、そもそも話が合わなかった。
私の家は、17時半から家族で夕食を食べ、19時からお風呂に入る決まりだった。
当時、子ども向けのアニメは19時から始まるのがほとんどで、
アニメを観てからお風呂に入りたい、と母には言ったが受け入れられなかった。
更に、1台しかないテレビのチャンネル権は親にあり、大抵野球か時代劇が流れていた。
だから、友だちの話についていけないことも多かった。
勉強はできた。
元々小さい頃から本が好きで、本は私の逃げ場だった。
母も、マンガ、雑誌、子ども向けの小説、とりあえず「本」という部類に入るものは欲しがれば何でも買ってくれた。
本が好き、という性格に加え、知らないことを知る、という「勉強」はとても楽しかった。
しかし、学校はそんなに甘くない。
内向的で友だちが少なく、アニメも知らないくせに勉強だけできるー
典型的なイジメの対象だった。
今の時代は本当に残酷なイジメが多いが、私の時代は「集団無視リレー」とでも言うような、ターゲットをみんなで無視する、ただしターゲットは順番に回ってくる、そんなイジメだった。
順番が回ってくると、クラスの皆が私を避け、話しかけてこない。休み時間も給食もひとりだった。
だがしかし、正直私はイジメなんて全く怖くなかった。
母に無視されることを考えれば、クラスメイトに無視されるなんて、大した問題ではなかった。
怒っている母がいる家より、ひとりぼっちの学校のほうが楽だった。
焦らない、泣かない、平然とひとりで過ごす私を見て、クラスメイトからは私が変人に見えていたらしい。
むしろ私が怖いのは夏休みだった。
夏休みは家族で両親の実家に帰る。
この頃から、私は母から父の実家、母の実家の話を聞かされていた。
父の実家のおじさん、おばさん、おばあちゃんは母の悪口を言っていて、母のことも私のことも嫌っていて、泊まりに来ないでほしいと思っている、と。
一方、母方のおばあちゃんは、母だけに厳しく、家の掃除を全て終わらせないと学校に行かせてもらえず、39℃の熱があっても学校を休むことは許されなかったのだと。
実際何が正しかったのかはわからないが、父方の実家には歳の近いいとこが何人かいたので、行けば楽しく遊べたし、母方の祖母は初孫の私を特別に可愛がってくれた。
ただひとつ、母方の実家に行くと、叔母たちに
「ゆきちゃんは本当にかわいいね。お父さんにそっくりね」
と言われ、父方の実家に行くと、
「ゆきちゃんはお母さんそっくりね」
と言われた。
それだけは嫌だった。
結局どちらの家も私が嫌いなのだと思った。
更に、私が田舎で元気に過ごせば過ごすほど、母の機嫌は悪くなっていく。
田舎にいるときは母の態度は変わらないが、お盆が終わって家に帰ると豹変する。
父と大喧嘩し、私にヒステリーを起こし、沈黙の夏休みが続く。
私は、弟だけと話をしている母を見て過ごした。
そしてまた学校が始まる。その繰り返しだった。
もっとも、小学六年の夏を最後に私は田舎へ連れて行かれることはなくなり、父だけが毎年ひとりで田舎へ帰って行った。
私が小学三年生になった頃、ひとつの事件が起こった。
父の浮気だった。
ちょくちょく女の人から電話がかかってくる。
当時、電話を取るのは私の役目だった。
父に受話器を渡す。
そうすると母に聞かれた。
「誰なの?」
「仕事の人って言ってた」
「女の人だった?」
「…ううん、男の人…」
なんとなく女の人とは言ってはいけないような気がしていた。
しかし、子どもの嘘なんてすぐにバレてしまう。
父と母は口を聞かなくなった。
ほどなくして、母は泣き続けるようになった。
部屋を泣きながら掃除して、泣きながら料理を作った。
泣いている母を見て、私も何が何かわからないまま泣いた。
夜も眠れず涙が溢れた。
そしてついに、母は私と弟に向かって言った。
「もうすぐ、お母さんよりキレイで優しい人があんたたちのお母さんになるから、いい子にするのよ」と。
私の悲しみは爆発した。
全て私が悪いのだと思った。
私は母にすがりついた。
「お母さん!私いい子になるから!お勉強もするから!お手伝いもするから!お父さんだって、お母さんが好きだから!だからいなくならないで!捨てないで!お母さん!!」
夜中になると父と母の怒鳴り声が聞こえてくる。
私はひとり、ベッドの中で泣きながら眠れない夜を過ごした。
それは数日続いただろうか。ある日を境にまた普通の日常が始まった。
しかし、私の不安定な心は別の形で表面化した。
喘息の発作がひどくなったのだ。
昼間体育の授業で発作が起こる。
薬は母が管理していたので、発作を起こしたまま授業を受け、家に帰る。
薬を飲んで治まるが、夜中になるとまた発作が起こる。
母は薬を使うことを嫌がった。
夜中に発作が起こると、2リットル以上の水を飲まされた。
そして水とともに痰を吐く。
そしてまた吐くために水を飲む。
母は痰がなくなれば発作が治まると信じていた。
明け方になるまでこの繰り返しで、疲れはてた私を見て、ようやく気管支拡張剤の吸入をしてもらえた。
それから2時間ほどで、学校に行く時間になる。
ほとんど寝ていない状態で学校に行き、また発作を起こす。
家に帰って薬を飲むが、また夜中に発作を起こす。
朝まで無理矢理吐き続ける。
睡眠不足とストレスで、私の身体はもう限界だった。
ついに吸入では治まらない発作を起こし、救急車で運ばれた。
点滴を受けて寝ていたのだろう。
目覚めたら母が横にいた。
何故か怒っていた。
「あんたが救急車で運ばれたときね、一緒に救急車で運ばれた喘息の男の子がいたのよ。その子はあんたよりずっとつらそうでね。それに比べたらあんたの発作なんて大したことないじゃないの!お母さん恥ずかしかったわ!」
そう言って病室を出て行った。
私は1週間ほど入院した。
退院して家に帰っても、私の喘息は良くならなかった。
昼も夜中も発作を起こし、入院前と同じ生活が始まった。
私はこのままじゃ死ぬ、と思った。
当時小学四年生だった私は、病院の診察券をこっそり持って
学校帰りにひとりで病院に行き、お小遣いで薬を手に入れた。
発作が起こると、それを使った。
母は、私の喘息が治ったと思い込んでいた。
しかし、この方法もすぐにバレてしまった。
母は私の机の引き出しをたまに覗いていたのだった。
「お母さんはあんたの喘息が治ったってご近所さんに言ってたのに!どうしてくれるの!!」
母は泣いていた。
母が泣くと、やっぱり私が悪いのだと思った。
小学五年生になると、更に状況は厳しくなった。
担任の先生が変わり、体育の授業が苛酷になった。
グラウンドを20周走らされる。腹筋200回。
喘息だからできないと言ったが、
「喘息は身体を鍛えれば治る」と言われ、強要された。
当然のように発作は激しさを増す一方で、
動けなくなるまでやらされた。
動けず倒れている私を見て、担任とクラスメイトは
「やる気ない奴」と私を罵った。
母にも言ったが、
「鍛えれば確かに身体は強くなるかもね」
そう言われた。
苛酷なのは喘息の発作だけではなかった。
担任と仲が良かったPTA会長の娘に目をつけられた。
それまでの無視のイジメとは違うイジメだった。
私以外のクラスメイトを家に呼んだり、
気まぐれに私を家に呼んで、行ったら帰れと言われたり、
明らかな嫌がらせだった。
私はすぐに相手にするのを辞めた。
しかしそれがまずかった。
PTA会長から担任に、私が彼女を無視してイジメている、と報告が上がった。
「お前はものすごく自分勝手で、協調性がない」
と、みんなの前で担任から吊し上げられた。
「体育もやる気ないしな」
クラスメイトからも次々と批判の声が上がった。
もう学校には行きたくないー
次の日初めて学校をサボろうとした。
しかし結局、不審に思った母に連れて行かれた。
その時母は、担任から話を聞いたらしい。
家に帰ったら母は泣いていた。
「お母さんはね、子どもの頃イジメられていたの。その娘が人をイジメるなんて…なんて情けない…」
言い訳する気にもなれなかった。
なんだかもう、何もかもどうでも良かった。
その後、家庭訪問やら何やらで、担任と母は何度か話す機会があったが、ある日担任に言われた。
「お前の母親は嫌いだ」と。
私はいないほうがいいんだ、生まれてきたことが間違いだったのだ。居場所なんてないんだ。何もしなくても迷惑なんだ。生きるというのは、つらいことなんだ。私は罪深いから、つらい思いをしなければならないんだ。
そう思いながら小学校を卒業した。
卒業式に出席した母には、
「あんたのせいで私まで他のお母さんからの視線がつらかったわ」
そう言われた。