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奇妙な紳士とお茶を (2)

 ブラウニー(茶色い奴)のことはよく知っていた。スコットランドやイングランド北部に伝わる妖精で、小柄な体に茶色のボロをまとい、髪や髭は伸ばし放題、住み着いた家で人間の手助けをしてくれる。人間はその礼として食べ物などを部屋の片隅にさりげなく置いておくのだ。

 我が著書『エシラと妖精の王国』にも、主人公エシラの屋敷で働く無愛想なブラウニーが登場する。だが、私は児童文学作家であっても現実主義者リアリストであり、民族伝承によって伝えられてきた超自然的な存在たちをむやみに信じたりはしなかった。とはいえ、興味はもちろんあるのだった。妖精よりもむしろ、妖精の存在をあからさまに肯定する紳士の方に……。

 アリステアが気まぐれからしばらくフォレスターの屋敷に滞在しないかと話を持ちかけてきたとき、私は容易く彼の誘いに興じた。叔父の家に厄介になり続けることを気に病んでいた私にとって、彼の申し出はまさに好都合だった。(眼鏡越しに伝わる叔父の慈愛の眼差しがたまらなく心苦しかったのだ)

 この頃はまだ、俗悪な社会的序列への憤りや、醜く愚かな悪意に対する苛立ちと虚しさで、自身の苦痛を軽視することは私にとって非常に困難なのであった。


 翌朝、執事のジェンキンスに尋ねたところ、アリステアは貴婦人よろしく自室で朝食を済ませてから、その後書斎に篭っているとのことだった。挨拶がてら何か面白い本でも借りられぬものかと足を運ぶと、邸の主は豪華な肘掛け椅子に腰をかけ、なにやら真剣な面持ちで手紙を綴っていた。

「やあ、おはよう。昨夜はよく眠れたかい?」

「おかげさまで」

「申し訳ないが今手紙を書いているところでね。君さえよければ後ほどお茶でもしながら話をしないか」

「構わないよ。邪魔したようで悪かったね」

 変わらぬ愛を表す青色スカイブルーの封蝋が視界に入れば、思わず窃視してしまうのは人の性というものだ。詮索する気はこれっぽっちもなかったが、こちらが尋ねる間もなくアリステアが「ミセス・ブラウンへの恋文ラブレターだよ」と意味有り気に紙面をちらつかせた。

 人妻ミセスへの恋文ラブレター。それはつまり禁断の恋。逆説王ヘンリー卿が言うことには、忠実は習慣の惰性や想像力の欠如であり、生涯で一度しか恋をしない人間こそが浅薄であるという。しかし、やはり人を裏切るという点において、不義密通は悪徳であると私は思う。

 知り合ったばかりの青年が不実な恋に身を投じていることは、少なからず私をがっかりさせた。いや、それはあまりにも身勝手な物言いだった。私は彼に何を期待していたのだろう? 世紀末の頽廃的な風潮は今に始まったことではないではないか。

「何か本を借りて行ってもよいかな?」

「もちろんさ。どれでも好きな物を持っていきたまえ」

 私は足早にその場から立ち去ろうとタイトルも見ずに本棚から手近な書籍を一冊手に取った。そうして、書斎から出て階段の辺りまで歩いたところで、自分が手にした本が『花ことばと花のエンブレム・アルファベット』であることに気がつき落胆した。さすがにタイトルくらいは確認すべきであったと少しばかり悔やんだが、すぐに小説の続編を書く際の資料として役立つかもしれないと思い直し、そこではっとした。

『エシラと妖精の王国』の続きはもはや決して書くものかと先日心に決めたばかりなのに、それを忘れようとしていた自分自身に腹が立った。その苛立ちの影で、風に靡く柔らかな金髪が――物語をせがむ純粋なる少女の可愛い面影が瞬く間に脳裏に蘇るのだった。

 思考を振り切ることに精一杯で、私はどこに向かって歩みを進めていたのか気づかなかった。自室へ戻るには階段を上らねばならなかったのに、いつの間にやら階下に下りていた。辺りを漂う豊かなバタースコーンの香りに導かれるようにして、私はそのまま厨房へと足を運んだ。

 イレブンジィズ。仕事合間の休憩中に雑談をしていた家政婦兼料理人のオルグレンさんとメイドのエルスペスは、場違いな客人の姿を見るなりぎょっとしたように姿勢を正した。

「どうかなさったんですか、ミスター・ハート」

 匂いに釣られてここへ辿り着いてしまったと打ち明けると、林檎のような赤い頬を一層上気させて快活に笑いながら、オルグレンさんがオーブンの様子を覗き見た。「あともう少しで焼き上がりますよ。ブルーベリーのジャムを添えて、出来立てをすぐにお部屋に持って行かせましょう」

 そのとき、裏口を叩く音がした。戸口に一番近いところに立っていたエルスペスが扉を開けると、小汚い格好をした幼い少年がみすぼらしい様子で立っていた。どうやら物乞いのようであった。エルスペスはビスケットを与えて扉を閉めたが、間もなく同じ調子で再び扉が叩かれた。彼女はやれやれといった様子で戸を開き、「もうあげられるものはないわよ」と少年に少額銅貨ファージングを握らせて扉を閉めた。

 オルグレンさんが溜息混じりに言う。「あの物乞いの子供、ここのところ頻繁に来てるじゃないか? まったく困ったもんだ。それもこれもご主人様が……」

 そして、客人である私の前で愚痴が過ぎたとばかりに慌てて口を閉ざした。

 言葉の続きが気になったが、率直に尋ねることは不躾であると思ったので、私はうまく話の方向を変えた。

「そういえば、この屋敷には妖精が住んでいるそうだね」

 オルグレンさんはまるで奇異な物でも見るような目つきで私の顔を凝視した。頭のおかしな客人だと思われたくなかったので、「君の主人がそう言っていたよ」と一言付け加えると、彼女はひどく納得したように相槌を打った。初めのうちは遠慮して口を利いていたが、どうやら上流階級に属する人々のような遠回しな会話は苦手なようで、話しているうちにあっさりと地が出てきた。

「ご主人様は、ちょいとここがいかれてるんですよ」

 料理人が自らのこめかみをさして指先をくるくる動かすと、メイドはさも愉快そうにくすくすと笑った。

「冗談じゃなく、アリステア様は本当にいつもおかしなことばかり言うんですよ。このあいだなんか、一人っ子のくせに自分のことを十人兄弟の末っ子だと思い込んで話してたんだから」

「あら、私なんかここへ来たばかりのとき、スコットランド出身だと自己紹介したら、自分にもスコットランド人の血が流れているんだと仰ってましたよ。執事のジェンキンスさんに確認したけど、フォレスター家にスコティッシュはいないんですって」

「なんだいそんなこと! あたしなんか、血友病を告白されたことだってありますよ!」

 厨房にどっと笑いの渦が巻き起こった。しかし、背後からコホンと咳払いが聞こえるや否や、エルスペスは蜘蛛の子を散らすように持ち場に戻り、オルグレンさんは開いたオーブンの扉で小太りな体をさっと隠した。

 振り返ると、そこには執事のジェンキンスが立っていた。蝋人形のようにどこか表情に欠けたところのあるこの執事は、主人の客に対してちっとも媚びようとしなかった。

「ミスター・ハート、失礼ながらここはあなた様のような階級の方がいらっしゃる場所ではありません」

 その厳格な態度は戒律を遵守する修道士を連想させた。兎にも角にも、敵に回せば厄介な相手であることは間違いない。私は聞き分けの良い子供のようにその場から離れると、書斎から持ち出した詩集を片手に階段をかけ上がるのだった。

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