あなたに倒れない
緩いカーブぐらいでは、助手席に乗っている人が運転席に座っている人の方になんか倒れたりしない。
現実は、ラブソングのようにはいかない、ね。
外回りの営業の帰り。
いつもなら入社3年目の私が運転、5年目の加納さんが助手席、と云うのが定番だけど、今日ばかりは逆だ。
と云うのもついさっき、私が運転用の眼鏡を不注意で壊してしまったから。
「すみません……」
縮こまって謝れば、
「いい、児嶋のうっかりは今日に始まったことじゃない」
……大層失礼かつ正確な言葉が返ってきた。
「うう、悔しい」
唸ったところで、緩いカーブに差し掛かった。
床に立てていたバッグが、ことんと倒れる。でも、当然ながら私が倒れるほどのカーブじゃない。
……そんなテクニックを、仕事中に使える自分でも、ない。
それをテクニックだと見通してしまう人相手に、とてもとてもそんな真似は出来ない。
しかも加納さんはユルい雰囲気を纏いつつも仕事にはストイックな人だ、仕事中にそんな駆け引きめいた事をしたら、軽蔑されるかも。それが彼の気になってる人ならいざ知らず、ただの後輩の私じゃあ、運転させた挙句の迷惑の上塗り、だ。
単なる後輩の私が加納さんに出来る事は、仕事で役に立つことと、迷惑を掛けないこと、位なのに。
――加納さん、このところ残業続きで疲れてるだろうから、ほんとは帰りに少しでも寝て欲しかったな。
眼鏡さえ壊さなければと、自分の失態に何度目かの後悔をしていたら、思いのほか弾んだ声が隣から聞こえてきた。
「たまには運転もいいなー、気分転換になる。お前さんのうっかりのおかげだな?」
……ずんと落ち込んでた気持ちを、掬ってくれるようなその言葉。
フォローして、くれたのかな……。素直にありがとうございます、と云うべきか、それとも憎まれ口を叩こうか。悩んでいる間に、車は緩くないカーブに差し掛かった。
「きゃ」
思わず運転席に倒れこみそうになり、慌てて右手を自分が座っているシートに突っ張って体勢を戻す。てか、今、直接体重はかけなかったけど、確実に頭が加納さんの腿の上あたりまで動いてしまった。髪が揺れて、お気に入りのシャンプーの匂いが仄かに漂う。
内装も外装も素っ気ない営業車にはおおよそ似つかわしくないその香りに自分が動揺した。加納さんに男を意識しないようにしてた。その人の前で女を感じさせることなんて、今まで一度もなかったのに。
気持ちを落ち着かせようと深呼吸をしてみれば、呆気なくその匂いは消え失せていた。……今までどおり、何もなかったようなふりをして。
左上の手すりをぎゅっと握りこみ、ヒールだけど足を踏ん張る。
「……すみません」
「……いい、児嶋のうっかりは」
「もうそれは仰らなくても結構です」
緩くないカーブは、右に左にと続く。
国道のくせになんなの、この道。
気を抜くと、また倒れてしまいそうな自分を棚に上げて、道に八つ当たりしてみた。
ぎゅうと手すりを握りすぎて、汗で滑りそうな左手。
足に力を入れて、でもタイトスカートの膝も開かないように締めて。……筋肉痛になりそう。
それでもこれ以上、ドギマギするような状況に、ならないように。
勘違いしないように。
心臓が煩いのは、急に倒れこんでびっくりしたから、それだけなんだから……。
もし頬が赤いとしたら、それはチークのつけすぎか車内温度が高いせいだ。
声がもし上ずったら、考え事をしていたせいで、挙動不審は眼鏡を壊したせい。
……加納さんがかっこよく見えるのは、運転してるとこなんて珍しいせい。
むりやり用意した言い訳は一ダース。
だって、今の関係を崩すようなことを意識したら、加納さん、困るでしょ。困らせたくないもん、大事な……先輩、だからね。
「……頑張るねえ」
「え」
「強情なんだから児嶋は」
そう云って、左手をハンドルから離して私の左側頭部へやり、そっとスーツの肩に凭れさせた。ずっと強く握りこんでいた左手は気持ちとは裏腹に、疲れからあっさりと手すりを離した。
「えっと、加納さん?」
「そろそろ俺の事、男として見てもらえませんか?」
吐息と共に、声が降ってくる。
今近すぎて、見れません!と思いながら、辛うじて稼働していた理性でツッコんでみた。
「……なんで丁寧語です?」
「仕事じゃなく、お願いしてるから」
「でも今仕事中、ですよね?」
「今日はもともと直帰の予定で、今はもう定時過ぎててお前さんを駅まで送りついでの帰り途中、仕事モードじゃなくてもいいだろ?」
……何だかまるで、私の方が躊躇しているみたいだ。
「ここはカーブにかこつけてこっちに倒れてほしいのに、お前ときたら意地でも倒れん!て頑張るんだもん、へこんだわ俺」
「!だって、迷惑かけちゃいけないと思って……」
だから、好きって思わないようにしたし、そんな雰囲気は念入りに消してたつもりなのに。
「ずーっと、我慢してたよな、児嶋」
「……え、」
肩に頭を寄せられたまま、ぎくりとしてしまう。
「バレバレだっつーの。誰がお前を指導したと思ってるんだよ、児嶋が怒ってる時どんな顔してて、嬉しい時にどんな癖が出るか、どんな思考回路でどう動くかなんて、予想通りで笑っちゃう位だ。お前分かりやすいしなー、腹減るとすげー情けない顔になるし泣きたくなると無表情になる。だろ?」
「……えええっ」
じ、じゃあ、あの、加納さんだけ出張で一週間会えないの寂しいなあとか、彼女いるのかなあってそっとため息ついてたのとか、今いないって聞いて凄くほっとして思わず上機嫌になってしまったのとか、全部……?
思わず助手席のドア側に体ごと逃げてしまった。
「俺あんなに駄々漏れで好きになられたの初めてでさあ、最初びびったわー」
びびらしちゃいましたか!
「対象外の女でしかも職場の後輩だろ?児嶋の気持ちに気が付いた時はこっちも彼女いたし、やっべー告白されたら超気まずい、と思ってた。」
……それは聞きたくなかった!
「そしたらさ、お前我慢しやがって。我慢、するくせに、目がもう『俺のこと好き!』って強く訴えててさ。すげーかわいくて、参った。」
……!
「結局、何も云われてないのに俺ときたら彼女よりお前の方が気になっちゃって、――愛想付かされて、半年前、別れたよ。」
「……そう、ですか」
「何よそれ、つれないこと」
そう云いながらくすくす笑うけど、こっちはびっくりしすぎて、頭が働かない。
加納さんは気持ちを伝えることで、いろいろオープンになっているのか、
……信号待ちになる毎に人の髪に触ったり、また信号が青になると、髪からハンドルに手を戻す道すがら肩や腕に触れたり、してくる。
「……加納さん」
どうしたらいいか分からなくて、思わず横を見上げる。加納さんは、運転中だから前を向いたままだ。でも、
――その横顔が、優しい。
「なあ、もう強情張る理由は一つもないぞー?俺はお前が好きだし、フリーだし、はやく落ちろ」
「……ナニソレ」
「カーブになったら俺の肩にこてんて頭を乗っけるだけ。簡単だろ」
さー来いーって、野球部の掛け声か。でも。
もう、カーブじゃなくても、くっつく言い訳はしなくて大丈夫、になったんだよね?
「じゃあ、遠慮なく」
そう断って、信号待ちのタイミングで、頭を加納さんの肩にくっつけた。それだけじゃなく、きちんと、……ちょっと早口で舌がもつれたけど、「加納さんの事が好きです」って、云った。云えた。
加納さんは、左手をポンポンと私の頭で弾ませて、嬉しそうに「よく出来ました」って褒めてくれた。
それだけで、自分がとてもいい子になったような、鼻が高い子供のような気持ちになる。
「さ、じゃあ、飯でも食いに行くか……っとその前に、千歳の眼鏡直しに行かないとだな」
「!!!」
「眼鏡屋さん、どこ?――おーい、ちとせー、どしたー?」
「……いきなりの名前呼びは卑怯ですよ!……りょ、涼一、さんっ」
「それ噛まずにさらっと云えたら、立派な反撃だったんだけどなあ」
まあでもがんばったえらいえらいと、ほぼ棒読みで云われた。
「褒められた気がしない……」
「褒めてないからなあ」
どうしてこの人は、私の何歩も先をすいすいと歩いてしまうのか。
男の人を名前呼びなんて、恥ずかしくって付き合ってる間結局出来ずじまいだった彼氏もいたというのに。
一歩でいいから加納さんの前に出てみたい。
それでもって、いつも余裕のこの人を慌てさせたい。
「なーんかよからぬことを考えてるだろ、千歳?」
「――べつに」
言葉を発すれば発するほど、ばれてしまう。
そう思ったから、加納さんに凭れたまま窓の外を眺めていた。
自分で運転する時よりも穏やかなブレーキングを感じていると、赤信号で車が停車した――チャンス!
前振りもなくいきなりほっぺにキスをしてやった。
どうだ!
参りましたと云ってくれるかな?
期待に満ちた目で加納さんを見上げると、彼は何でもないよと云う顔で、
「んー?『ごちそうさまでした』?」
なんて淡々と返してきた。がっかりしていると、
「だから、考えてることなんかわかるって云ったろ?」
って、笑われた。
それなら、隠すことなく攻めるだけだ。
「好きです」
「知ってる」
「愛してます」
「そいつはどうも」
「結婚しましょう」
「……今のはちょっと、ドッキリしたぞ」
「今日、帰りたくない」
「……、千歳、それは俗に云う『煽り行為』だ、やめろ」
「だって、別にあたしに煽られたからって、加納さんいつもどおりの余裕の表情じゃないですか」
面白くない。せっかく勇気を出して攻め入ってみても敵軍にはこれっぱかりの影響もないみたいだ。
「隠すのは得意なんだよ、てかいつものだって半分はハッタリだ。……ようやく好きな女が手に入ったんだ、浮かれまくってるに決まってんだろ」
あれ、ちょっと照れてる?
聞き慣れない開き直りの言葉に、思わずまじまじと加納さんを見ようとすると、大きな手で頭を無理やり前に固定された。
「こっち見んな!それより眼鏡屋はどこだ?」
しぶしぶと地元デパートの名前を告げると、加納さんは妙に嬉しそうに「そりゃ好都合」と謎の言葉を呟いた。
レンズの割れた眼鏡を店員さんに渡し、機械で視力のチェックをした後、一時間後に仕上がると聞いたのでそれを加納さんに伝える。
「そっか、じゃあ他の店見て暇潰そう」と、当たり前のように手を取られた。
「かかかっ加納さん、」
おや、と半歩先の加納さんが振り返る。
「折角名前で呼んでくれたのにもう元戻りか」
「だって、それどころじゃ、何で、手」
「何でって、繋ぎたいから」
緩く触れていた手は、今やしっかりと恋人繋ぎだ。
「ここ、地元だし、会社の人とか来るかもっ」
慌てて云ったのに、加納さんは嬉しそうだ。
「いいな、会社で云って歩く手間が省ける」
一度手をするりと離され、軽く背中を押されて、下の階に向かうエスカレーターに乗るように促される。それから、また手を繋がれた。何度か下りに乗って、一階へ。
外に出るのかな?
そう思っていたら、きらびやかなそのフロアの、一番シックなお店――通路沿いのカウンターのお店ではなく、独立したスペースを有するショップ――へと連れて行かれた。
「か、……涼一、さん?」
おっ、と加納さんが笑みを深くする。
「よく出来ました、とりあえずエンゲージリングでも見繕いましょう」
「と、りあえず?」
じわり、つないだ手に汗をかく。
だって結婚しましょうって云ったあれは、ノリとあわよくば万が一って思ってた程度のことで。ついさっき思いが通じたばかりで、全然、きちんと意識なんかしてなくて。勿論イヤなんかじゃなくって、ぼんやりとそんな未来を想像したこともある、って云う程度のもので。
加納さんが思いのほか真面目に受け止めてくれた事を思うと、自分がやらかしたのは随分なフライング行為で、相手に失礼な事だ。
でもそう告げてしまって、今のこの甘い空気がぶち壊しになるのはとてももったいない気がして、手を繋がれたまま、「エンゲージリングを」と店員さんに告げる加納さんの言葉を否定せずに横に居続けてしまう。
そのお店の雰囲気によく似合う、スマートな接客かつ大層エレガントな店員さんを前にして、怖気づかずいつも通りの加納さんは、やっぱりかっこいいなあなんてぼおっとした。
「俺に見とれてないで、指輪見て」
あ、やっぱ、ばれてたか。
どれが千歳に似合うかなとか、仕事でしてて邪魔にならないデザインがいいかとか、私そっちのけで、加納さんと店員さんが色々悩んでくれている。
いくつか見せてもらった指輪を、実際に加納さんの手で私の薬指に填めてもらって、――それでまた心拍数が上がった――、一番シンプルなそれを選んだ。
何だこれ、都合のいい夢か?
余りの展開についていけないのと、現実感のなさに、目の前で起こっていることをどこか他人事みたいに見ている。
加納さんがカードを出して、店員さんに少々お待ち下さいと云われたところで正気に戻った。
「涼一さん、」
戸惑う私の声をこの人がわからないわけがない。
少し罪悪感、と云う顔をして、加納さんが白状した。
「ごめん、千歳がまだ本気で結婚を意識できてないの分かってて首輪付けた」
「くびわ?」
指輪じゃなく?
その謎めいた物云いに、子供みたいに問い返してしまう。
「そっ、さっきのやり取りで言質戴き!って、内心小躍りよ。」
え、そうだったんだ、実はグッジョブだったか私。
「……お前あんまり恋愛事慣れてなさそうだから、もっとゆっくり進めてやるつもりだったのに。あんなこと聞いたらゆっくり進めるどころじゃないよ。むしろ加速だ加速」
静かなお店の中で、内緒話をするように耳元に唇を寄せて、少しハスキーな声で囁かれる。
「お前の事を狙ってる奴だって、社内にいるんだって知らないだろ?ここ最近のは全部俺が潰したからなあ。」
「……どうりで、この頃社内でちっともモテないと思ったら……」
フリーだとばれているのにある時期からピタッとお誘いがなくなって、――それは一対一のお食事だったり社内呑み会や合コンだったり――不思議に思っていたところだ。
「もう、他の男が寄らないようにしたかったから元々指輪は考えてたけど、付き合い始めでいきなりエンゲージリングはさすがにひかれるよなって自重してたのに」
何か苦いものを噛んだみたいに、加納さんの眉間に皺が寄ってる。
「どうしてくれんだ、俺の目論見全部ひっくり返して。」
それがもう、クレームじゃなくて只の照れ隠しだって、分かってる。私だって、加納さんの隣にずっといたんだもの。
今度は私から手を繋いで、囁き返した。
「嬉しいです」
繋いだ手は、ぎゅっと強く力を込められた。
「……だから、煽るなって。帰せなくなる」
「さっき『帰りたくない』って云ったでしょ?帰さないでください」
「あー、もう」
加納さんが心底困った顔をしたので、笑った。
それを見てイヤそうな顔をしたので、もっと笑ってしまう。
「余裕だな千歳」
「涼一さんほどじゃないです」
「余裕なんかないよ、今日はもう使い果たした。だから、」
丁度、お会計を終えた店員さんが、後日仕上がる指輪の引換証とカードをトレイに乗せて戻ってきた。
それを見ながら、いつものテンションで加納さんがまた囁く。
「――がっついてもしらねーぞ」
恋愛事に疎くても、それが何のことだかわからないほど子供ではない。
一週間後に指輪を引き取りに来ることにして、こんどは眼鏡を取りに行った。
それから、地下でワインとチーズ、近くのファストファッションのお店で着替えを買って。
加納さんのおうちで、……ははは。
がっつかれている最中。
冒頭で「ラブソングのように」と云っているラブソングは、ユーミンの「埠頭を渡る風」です。同世代の方まではご存知かな。ゆるいカーブであなたへたおれてみたら何もきかずに横顔で笑って、という歌詞がたまらんです。