戦艦信濃 in 1992
戦艦信濃 in 1992
1992年2月9日は全国的に日曜日だった。
決して天気はよくない。寒かった。しかし、晴れている。厚着をすれば、散歩には出れないこともない。
そんな日には、車で少し遠出をしてみるのもいいかもしれない。
年々、外歩きが苦痛になっていく五十路の五十嵐五郎にとって、横須賀市信濃公園は手頃な散策コースだった。
決して女房から「粗大ごみ」と罵られて、逃げてきたわけではない。
年々扱いがぞんざいになる愛妻のたるんだ横顔を脳裏から意図的に追い出す。昔は、こうではなかった。
五十嵐はため息をつく。帰宅が苦痛になったのは、いつからだろう?
分からなかった。思い出せない。
しかし、少なくとも、自分が20代の若者で、ベトナムで戦争をやっていたころは、そうではなかった、はずだ。
「寒いな・・・」
海のそばまで歩いて、フェンスに背を預ける。
信濃公園は臨海公園だ。夏は釣り客も多い。今はオフシーズンだが、人通りはそれなりにあった。記念艦になった戦艦信濃を目当てにした観光客が日本全国からやってくる。
コートのポケットから流れるような動作で、煙草を取り出し、火をつける。
そして、ふと我にかえる。煙草は医者から止められていた。思い出してしまったので、火のついた煙草を海に捨てる。五十嵐は波間にただよう煙草を見る。
頭痛がしてきた。五十嵐は天を仰ぐ。
そこには戦艦信濃の前檣楼があった。
随分と綺麗になったと思う。まるでちょっと厳つい姫路城のようだ。
その程度の感慨しか浮かばない自分の感性に五十嵐は落胆する。
それでも綺麗だと思う。本当に綺麗になった。こんなピカピカな信濃なんて、現役のころには見たこともない。
自分がベトナムで戦争をやっていたころの信濃は、こんな風ではなかった。違法改造した電波塔をさらに10倍カオスにしたような奇怪な風体だったはずだ。
それもそのはずで、記念艦に転職するにあたって、信濃は就役当時の姿に戻されている。
信濃の就役は1947年。第二次世界大戦が終わってから2年後のことだ。
そのころ、戦艦の戦闘指揮中枢は艦橋に置かれていた。
高いところに登れば、遠くが見えるからだ。戦闘が全て有視界で行われる限り、視界の広さは戦闘能力に直結していた。人類の戦闘は長い間、そうだった。戦国時代の巨大な天守閣もそうした目的のために作られたものだった。城郭建築における天守閣は早い段階で戦術的な価値を失ったが、水上戦闘艦においては20世紀中頃までその価値を保持していた。
それが電波探知機の登場で一変した。高いところに登らなくても、電波を使えば、遠くが見える。霧が出ても、雨が降っていても、夜の帳が降りても、関係なく視える。
そうして、戦艦の艦橋は戦闘指揮の要から、ただの電波塔に格下げされた。
五十嵐がベトナム派兵で乗組になった時の信濃は、そういう時代に生きた船だった。就役は世界大戦に間に合わず、つくってしまったことがそもそも間違いで、軍国主義全盛期の大日本帝国が創りだした壮大な時代錯誤の産物だった。
それが1985年に2回目の砲塔爆発事故を起こすまで現役にあったのは、何かの悪い冗談だったとさえ言える。
しかし、五十嵐にとって、信濃は人生と戦いの記憶の一部だった。
そのせいか、今ひとつ、違和感が拭えない。
これはこれでよいものかもしれないが、自分が知っている信濃ではない。
少なくとも、自分が信濃と共にベトナムに送られたとき、信濃には3番砲塔はなかった。1951年に1回目の砲塔爆発事故を起こしていたからだ。
今の信濃にある3番砲塔は、ハリボテのレプリカだ。ちなみに、2番砲塔もレプリカである。
2回も砲塔が全損する爆発事故を起こした日本の近代戦艦は信濃ぐらいなものだろう。砲塔爆発事故を起こした戦艦は他にもあるが、そちらは即座に爆沈して今でも呉の海底に眠っている。
最初の爆発事故は、1951年に起きた。
中共軍による奇襲攻撃で始まった満州戦争の最中のことだ。
関東軍を支援するため、艦砲射撃を行っていた信濃の3番砲塔が突如、爆発。砲塔が台座から吹き飛び、海に落ちた。
黒煙が立ち昇り、遠く北京からでもその煙が見えたという。
ちなみに海に落ちた砲塔は潮流に流され今でも見つかっていない。
原因は、経年劣化した弾薬の自然発火によるものだった。
第二次世界大戦に参戦しなかった大日本帝国は、弾薬の在庫を大量に抱えていた。劣化した弾薬の暴発リスクは高い。実戦に投入する弾薬は、常に最新のものであるべきだった。
しかし、慢性的な予算不足に喘ぐ帝国海軍は、危険と知りつつも劣化した弾薬の在庫一掃を狙って、信濃に腐れ弾を充てがった。
陸軍支援の艦砲射撃なら、それで十分だと考えたらしい。
結果、劣化した三式通常弾が揚弾エレベータで移動中に自然発火。3000度の焼夷弾子が砲塔内部で飛び回り、手の施しようのない火災が発生。艦長が弾薬庫への注水を指示する暇もなく、連鎖的な大爆発が起きた。
死者286名。負傷者389名を出した大事故。
満州戦争における帝国海軍の戦死者の3割が、この事故による死亡者だった。
事故調査委員会が開かれ、事故原因になった三式通常弾は全ての艦艇から直ちに撤去された。関係者の処分が行われ、事故に関わった責任者には重い処分が下された。
帝国海軍の弾薬管理はこの事故を期に大きく改善され、同種の事故は現在に至るまで発生していない。
それは、いい。
残った問題は、砲塔が吹き飛び、船体後部が全焼した時代遅れの新鋭戦艦の後始末だった。
一番リーズナブルな解決方法は、退役である。
この時、既に帝国海軍は海軍戦備の中心から戦艦を外していた。かるたの題材になり、国民から日本の誇りと称された長門、陸奥さえも予備艦扱いだった。長門以前に就役した旧式戦艦群は既にスクラップとして解体され、影も形もない。
艦隊整備計画の中心は、原子爆弾とその発射母体となる陸上攻撃機と潜水艦とされ、水上艦は減勢、航空母艦の全廃さえ検討されていた。
世界最大の戦艦を建造した海軍がそのような発想に至ったことは奇異に思えるかもしれない。しかし、帝国海軍において、そうした傾向は原子爆弾実用化以前から存在していた。
なぜならば、中型陸上攻撃機と酸素魚雷の開発成功によって、戦艦の絶対的な戦力価値が相対化されていたからだ。
戦艦を沈めることが戦艦以外には不可能であるというという1点のみで、戦艦は水上戦闘における絶対的価値を認められていた。
尋常な想定の戦闘で、戦艦が戦艦以外で撃沈できる可能性が示され、それが戦艦を整備するよりも、遥かにリーズナブルで、ハイ・コストパフォーマンスであるのならば、戦艦は絶対性を失う。
絶対性を失って、相対化した価値観は脆い。
30年代半ばに帝国海軍に現れた航空機主兵論は、そうした価値の相対化の現れだった。
それでも、長い間、戦艦は帝国海軍の一部の士官から熱烈な信仰を集めてきた。巨大構造物である戦艦は、それだけで人々の信仰を集めるイコンになりうるからだ。
ある意味、古代エジプトが王権の象徴としたピラミッドに近い。
しかし、それは宗教であって、軍事組織が戦略の基本におくべきものではなかった。
帝国が参戦しなかった第二次世界大戦において、戦艦とそれにまつわる信仰は完膚無きまでに叩きのめされ、戦艦は海軍戦備の中心から転げ落ちた。
どのような敬虔な信者であっても、戦艦ティルピッツ、ローマ、バーラム等がどのような最期を遂げたか知れば、何事か考えずにはいられなくなる。
それでも、大和型戦艦4隻が揃って就役に漕ぎ着けられたのは、米海軍がモンタナ級戦艦を5隻も作ってしまったからだ。しかも5隻とも太平洋に配備した。真珠湾に常駐させるようなことは流石にしなかったけれども。
なぜ米海軍がこのような馬鹿げたことをしでかしたのか、原因は全く不明だった。少なくとも、大型正規空母の建造を中止してまで行うことはではない。
「金持ちのやることはわからん」という当時の連合艦隊司令長官の言葉が全てを象徴している。
傍迷惑な話だったが、無視することはできなかった。軍事力の整備は対称性をもつからだ。仮想敵がもっているのなら、我も同じものを持たなくてはならなかった。
そうして、一旦は中止になった大和型戦艦3番艦、4番艦は建造再開となり、世界大戦終結後に就役した。
望まれることなく生まれた巨大戦艦の3女は、とても数奇な運命を辿ることになる。
入り口で切符の代わりに軍人手帳を見せると、館内見学は無料になる。
退役して10年以上経つが、五十嵐が軍人手帳を手放さないのはこのためだった。公共交通機関の多くも無料になる。
70年代におきた学生による徴兵制反対運動の成果のひとつだった。
兵員確保に不安を感じた軍部は、兵役に様々な恩典を付与するようになった。少し前までは、ガソリンの割引までついていたほどだ。
さすがに、それはオイル・ショックで中止になったけれども。
五十嵐はそうした恩典に釣られた若者の一人だった。
徴兵で陸軍に引っ張られて、満州に送られるぐらいなら、恩典の多い海軍に志願する方が上等な身の振り方に思えたのだった。
程なくして、ベトナム派兵が始まり、海軍に入ったことを死ぬほど後悔することになるのだが、それはまた別の話である。
五十嵐は案内板の表示を無視して、艦内を進んだ。通行止めのロープを潜る。進入禁止のタラップに足をかける。近道をするためだ。勝手知ったるなんとやらだった。
信濃の艦内は外見と異なり、退役時のままになっている。艦内の様々な部分に80年代のそれが残っている。艦内の位置表示板もそのひとつだ。
内部まで細かく往時を再現する予算はなかったらしい。おかげで迷子にならずに済む。博物館の在り方としては、中途半端の謗りを免れないけれど。
大和型戦艦は、その巨体から想像がつかないほど複雑な構造になっていた。潜水艦ほどではないが、かなり酷い。
人間工学的なアプローチが艦艇設計に取り入れられる前の船だ。所定の性能を達成するために、様々な部分で人間に負担をつけまわしている。
最初の砲塔爆発事故で、そうした設計が如何にダメージ・コントロールに悪影響を与えるか気づいた海軍は、以後、艦艇設計を抜本的に改革することになる。
しかし、それは新造艦に対する話であって、信濃には何の関係もない話だ。
迷路のような狭い通路を手足に染み込んだ感覚だけで進む。もう一度、タラップを登って、天井のハッチを開けるとそこが目的地はずだった。
問題はハッチが開くか、どうかだった。
筋力が足りなくなる可能性があった。運動不足だった。ハッチのバルブを回すのが恐ろしく辛い。
しかし、ハッチは五十嵐の息が切れる前に空いた。向こう側から誰かが手伝ってくれたからだ。
「そこは、立ち入り禁止区域だ。何度言ったら分かるんだ?」
見上げると少し古い水兵服を来た中高年が立っていた。恐ろしく似合っていない。
ベトナム戦争の戦友、加地良吉に似合うのはタイガーパターンの迷彩服だけだ。
「堅いこというなよ。ちょっと、手を貸してくれ」
バルブを回す金属音を聞きつけられたらしい。加地はうんざりとした顔をしていた。しかし、五十嵐の頼みは断ったりはしなかった。
加地の手が軽々と五十嵐を引っ張り上げる。
大した筋力だった。同い年とは思えない。
「年かな?階段が最近、辛いんだ」
「ただの運動不足だろう」
思い切り迷惑そうな顔で言われた。
旧友なのに、酷い話だった。
「1週間仕事を代わってやろうか?死ぬほど運動になるぞ」
「エレベータのない職場なんてごめん被るよ」
信濃に艦内にある人間用エレベータは、艦橋に一つあるだけだった。
「何をしにきた?この忙しい時に」
どうやら、機嫌が悪いようだった。
「いったい、どうしたんだ?」
「博物館をクビになるかもしれん。リストラだよ」
オーバーなジェスチャで加地は手を上げ、天を仰いだ。お手上げと言いたいらしい。
釣られて、五十嵐も天を仰ぐ。
天井には飛行機が吊るされていた。
具体的には、九五式艦上戦闘機が吊るされていた。実機だ。レプリカではない。
格納庫の端から端まで、同じ様に大小無数の飛行機が展示されている。帝国海軍がこれまで運用してきた艦上機の殆どがここに展示されていた。
広大なスペースは、ともすれば航空母艦の格納庫に思われるかもしれない。
しかし、ここは戦艦信濃の艦内だった。空母ではない。
信濃は、戦艦でありながら、空母型の航空機搭載用設備をもつ船だった。つまるところ、戦艦信濃は、世界で最初で最後の航空戦艦なのだ。
航空戦艦といっても、航空力学的限界から、戦闘機などの固定翼機は搭載されていない。
代わりに信濃に搭載されたのは、50年代半ば以降に急速発展したヘリコプターだった。
具体的には、戦後のドサクサに紛れて日本に持ち込まれたFa223”Drache”の残骸を基に開発した一五式回転翼機だ。
一五式回転翼機は、Fa223をベースにした並列ローター型の大型輸送ヘリだ。Fa223に似ているが、全長は20%大きい。出力重量比は30%も大きかった。
陸軍機だが、満州戦争で大いに活躍して、海軍にも同じもの採用されることになった。製造は川崎航空機。帝国陸海軍の回転翼機運用ノウハウを築いた名機だ。後継機にも恵まれ、現在でも、帝国陸軍は大型輸送ヘリにこの形式のヘリを用いている。
もっとも、海軍では、艦上運用の制約から、この機は信濃以外には配備されなかった。以後、海軍で採用された回転翼機はシングルローター+テイルブームを用いた一般的な形式に落ち着いている。こちらの供給元も川崎航空機で、川崎は日本の回転翼機製造をほぼ一社で独占していた。欧州(主にドイツ)との共同開発、輸出も多い。
信濃には、一五式回転翼機が16機配備された。
用途は、対潜哨戒である。主な標的は、日本近海に接近するソビエト海軍の弾道ミサイル搭載型原子力潜水艦だった。
50年代初頭には、既に水中発射型弾道ミサイル搭載の原子力潜水艦(SSBN)の登場が予見されていた。信濃はそれに対する帝国海軍なりの回答である。
こうした予見と対応は驚くには値しないことだった。
各国海軍において、潜水艦に対地攻撃能力を付与する発想は30年代半ば頃には既に存在していたので、SSBNの実用化を予見すること自体はそれほど難しいことではない。隠密行動が可能な潜水艦に対艦攻撃能力だけではなく、対地攻撃能力を持たせることができれば、それは計り知れない軍事、政治価値をもつと考えらえれていた。
なぜならば、仮想敵国民の99%が陸上で生活しているからだ。
単純な話、潜水艦の対艦攻撃力がどれほど高くても、陸の上に及ぼせる影響は間接的なものに留まる。それはそれで価値のあることだが、効果はあくまで間接的なものに過ぎない。
しかし、潜水艦が対地攻撃能力をもつということは、仮想敵国民に直接的な脅威を与えることが可能になるということだった。隠密性の高い潜水艦がそうした能力をもつことは、仮想敵国の行動を大きく制限できる可能性があることを示していた。
帝国海軍が建造した伊400型潜水艦もそうした文脈の中で出てきた船だった。
伊400型潜水艦は、世界最初で、最後の潜水空母である。今日的なSSBNやSSGNの始祖というべき存在かもしれない。
3機の特殊攻撃機を搭載した伊400型潜水艦は、地球を一周半できる長大な航続能力を利用して、仮想敵国の重要施設を奇襲攻撃することが期待されており、今日的なSSBNやSSGNとその発想は同根と言える。
問題は、そうした発想を実現するハードウェアの能力不足だった。たった3機の単発攻撃機で出来ることなど、たかが知れている。
6隻を集中運用したところで、合計18機。投下できる爆弾は20t足らずである。効果は限定的なものだ。しかも、特殊攻撃機”晴嵐”は水上機だった。フロートなしでも出撃できるが、その場合は片道攻撃だった。さらに、40年代後半に加速した対水上レーダーの発展で、潜水艦の浮上航行は危険になっていた。浮上して攻撃機の発進準備を行っている間に、対潜哨戒機に爆撃されかねない。
帝国海軍も、建造中にこのことに気がついた。気がつかなければ、伊400型潜水艦は18隻整備される予定だった。
ただし、伊400型潜の命運が全く尽きたわけではなく、ドイツから密輸したV1ミサイルの発射母体として、運用研究が継続された。
160発の多目的巡航ミサイルを搭載した伊900型原子力潜水艦につながる最初の一歩である。
そして、自分と同じことをソビエトの同業者も考えていると確信していた帝国海軍は、本土沿岸部に接近するソビエト海軍の弾道ミサイル搭載型原子力潜水艦を狩るため、対潜哨戒網の拡充を計画していた。
そうして、第3砲塔が吹き飛び、船体後部が全焼した戦艦信濃に空母式の格納庫を設け、大量の大型ヘリコプターを搭載して、航空対潜哨戒を行う洋上基地に改装する構想が浮上した。
航空母艦が持ち得ない自衛能力をもち、航空母艦ほどではないが高い航空戦力を展開可能な万能艦というコンセプトだった。
のちに英ソ海軍が開発する対潜航空巡洋艦を先取りした発想だった。
発想自体は、極めて先進的なものだ。
爆発した第3砲塔の跡地には、空母用のエレベータが移植された。後艦橋の直前までが飛行甲板になっていて、後艦橋自体も管制塔に置き換えられている。
戦艦と空母を二つに割って、前後で半分ずつ糊でくっつけたような状態を想像してほしい。なにしろ、全く、そのとおりなのだから。
この改装には、ワシントン条約で巡洋戦艦”赤城”、戦艦”加賀”を空母に改装した経験が生きた。そうでなければ、戦艦の後ろ半分だけを空母に改装するような変態的な真似は不可能だっただろう。造船工学的にも、貴重な先例であることは疑いの余地はない。
問題は、このカオス的な改装に費やされた費用だった。
この改装に要した費用と資材は、改大鳳型空母1隻分に匹敵するとされていた。あるいは、それ以上とも。
なぜ帝国海軍がこのような馬鹿げたことをしでかしたのか、原因は全く不明だった。少なくとも、大型正規空母の建造を中止してまで行うことではない。
「日本人の考えることはわからん」という当時の米太平洋艦隊司令長官の言葉が全てを象徴している。
傍迷惑な話だったが、米海軍はこれを無視することはできなかった。軍事力の整備は対称性をもつからだ。仮想敵がもっているのなら、我も同じものを持たなくてはならなかった。
しかし、アメリカ合衆国ではまともな議会制民主主義が機能していたので、無事、アイオワ級戦艦改装予算は否決された。
世界唯一の航空戦艦という信濃のタイトルは、今後とも永遠に磐石である。
「前から、危ない、危ないって言われてたんだが、とうとう予算が切られた!」
加地は喚くように言った。
ベンチにだらしなく体を投げ出している。見てくれを気にするつもりはないらしい。怒声を聞いた観光客が足早に去っていくのが見える。
酔っ払ってないのが不思議なぐらいの荒れ様だ。
ひょっとして、朝からこんな調子なのだろうか?
「博物館が閉館になるのか?」
「いや、民間に売却されるらしい。船だけな。中の人間はいらないんだとさ。××の××××が、○×××で、○○を食って、死にやがれ!」
ベトナムで覚えた聞くに耐えない罵詈雑言を交えて、加地が言った。
「なぁ、おい、こりゃどういう冗談だ?どうしてこんなことになった?」
心底わけが分からなさそうだった。
それは五十嵐も同じだった。
「俺も、それを知りたいと思っていたところだよ」
ほんとうに、どうしてこんなになってしまったのだろう?
本当は、理由は分かっている。
ソビエト連邦が消えてなくなってしまったからだ。
1917年のロシア革命で成立したソビエト連邦は、1991年末を以て消滅した。現在、そこにあるのは独立国家共同体という名の、政情不安の貧乏国連合だけだった。
超大国として、世界の半分を支配した赤い帝国は影も形もなくなって、歴史上の存在となった。
おかげで、五十嵐が勤務する工場の主力商品-対潜魚雷-は恐ろしく売れなくなってしまった。
対潜魚雷が沈めるべき標的が消滅してしまったからだ。
物理的に消滅したわけではない。だが、意味は同じだった。それらの潜水艦が守ってきた国家は、ある日、呆気無く崩壊してしまったのだ。
冷戦は少し前に終わっていたが、ソビエト連邦が終わってしまうなんて、誰も思ってもみなかった。しばらくすれば、元の鞘に戻るはずだった。デタントや緊張緩和など、一時の気まぐれにすぎないと思っていた。また、そうでなければならなかった。雪解けの泥沼よりも、厳寒の冷戦の方が軍需産業には好ましいからだ。
寒い冬が終わってしまったら、帝国は、その過剰なまでに分厚い国防力について、合理的な説明を失ってしまう。
そして、実際、そのとおりになってしまった。
帝国海軍は、どんな理屈で予算を計上したらいいのか、本当に分からなくなってしまった。
とりあえず、必要なさそうなものから予算を切っていった結果が、これなのだろう。
五十嵐が、うんともスンとも言わなくなった加地を見下ろす。まるで公園のホームレスのようだった。まるで、ではなく、このままでは本当にホームレスなのだが。
ベトナムで、サイゴン郊外で、黒パジャマ相手に戦争をやっていた頃、こんなことになるなんて、誰が想像できただろうか。
昔は、本当によかった。
世の中は酷く単純だった。
北にはとてつもなく強大な悪の帝国があった。日本は神の国だった。アメリカ人は気前がよかった。学生結婚した嫁は美人で、スリムだった。
だが本当は、北にあったのは悪の帝国ではなく、農奴の子孫が治める薄ら寒い貧乏国で、神の国はアメリカから経済援助を引き出すために若者をベトナムに送った軍国主義国家だった。嫁は肥満症で、夫を粗大ごみと呼び、パートもせず昼寝をしている。
最初から酷かった頭痛が、深刻なことになってきた。
これではなんのために、散歩に来たのかわからない。
五十嵐は10年は老けてしまったように見える旧友をおいて、格納庫を見て回ることにした。ここには、若き日の思い出が幾つか残っている。そうでないものも多いが。
格納庫の入り口に展示されているのは、戦間期の飛行機だ。
複葉機もあるが、あまり数は多く無い。木や布で作った初期の飛行機は保存が難しいからだ。管理が大雑把なこの博物館では手に余る。
それでも、九六式艦上攻撃機のような珍品があるから、存外にあなどれなかった。この機は、世界でここに1機しか残っていない。
この複葉艦上攻撃機は、予備機として橫空の倉庫に分解保存されていたものをレストアしたものだ。昔、ニュースになったのを見たことがある。帝国海軍の物持ちの良さは、近代組織としてはどうかと思うほど優れていた。
おかげで、日本のどの博物館に行っても、たいていは零式艦上戦闘機の姿を見ることができる。
この博物館には10機も展示されていた。
零式艦上戦闘機は、戦中の日本海軍航空隊の主力戦闘機だ。
制式採用は1940年。退役したのは1949年だ。この時期の戦闘機としては、かなりの長寿だった。スペイン内戦から、ベルリン陥落まで戦い抜いたBf109に匹敵する。
大日本帝国の航空機開発能力は、この零戦を以て世界水準に追いついたとされている。
たしかに、1940年当時のアジアにおいて、それは真実だっただろう。中国との国境紛争において、それは証明されている。零戦は中華民国が米国から輸入したP-40を殆ど一方的に撃墜して、日本の航空戦力が侮れない水準にあることを、各国に強く認識させた。
零戦の示した驚異的な戦力が第二次世界大戦における、日本の中立維持に繋がったという意見もあるほどだ。
だが、しかし、1949年まで主力空母の飛行甲板にこの機体を並べて、それでよしとしていた帝国海軍の航空行政については、何事かを考えずにはいられない。
なにしろ戦後第1世代のジェット戦闘機であるF-86Aは1947年に初飛行を済ませている。
或いは、大戦に参戦しなかった国の危機管理とはその程度のものなのかもしれなかった。
信濃に展示されている零戦は、最初期型から最後期型まで、全てのサブタイプが揃っている。
最初期と最後期の零戦を見比べることができるという点で、この博物館は貴重な存在と言えた。
最初の零戦、零式艦上戦闘機11型は、1000馬力級の発動機を搭載して、高度5000mで最高速度500km/hを発揮した。1000馬力級の空冷戦闘機としては、常識的な数値だ。生産性を犠牲にしてまで行った軽量化のおかげで、上昇性能が高い。
博物館の解説文によれば、高度な空力学的洗練によって、高性能を発揮したとされている。
しかし、エンジン下部から無造作につきだしたオイルクーラーや、空力学的に不利な涙滴型風防の採用など、疑問点がないわけではない。空力学的洗練をなんと心得ているのだろう?
最初の零戦のとなりに展示されているのは最後の零戦、零式艦上戦闘機75型である。75型とは、11型から数えて7回の再設計と5回のエンジン換装を経たことを意味している。
零戦75型は高度8000mで630km/hを発揮した。武装は20mm機関砲4門。11型の2倍の火力だ。
これで部隊配備が1943年ごろだったなら、賞賛の対象になるかもしれない。しかし、実際の配備は1947年だった。第二次世界大戦は2年前に終わっている。同じエンジンを搭載した陸軍の四式戦闘機の部隊配備は1944年だ。1947年には、帝国陸軍は日本初の実用ジェット戦闘機”凶鳥”を飛ばしていた。
性能について、とりたてて述べることはない。2000馬力級の空冷戦闘機としては、常識的な数値だ。設計上の不利が宿命づけられている艦上戦闘機としては、立派とさえ言える。しかし、1947年にこれを新規製造する必要性があったのだろうか?
答えはYESであり、NOだった。
理由は簡単だった。75型の前の生産型が搭載する”金星”発動機の生産が1947年に中止になってしまったからだ。生産中止の理由はもっと簡単で、性能陳腐化だった。1947年に1500馬力級のガソリン空冷発動機などを新規生産するメリットはない。戦闘機用としては全くなかった。
そうであるならば、零戦のエンジン換装は止む得ない措置だったと言える。載せるエンジンが無くては飛ぶこともままならない。
しかし、だからといって2000馬力級の空冷戦闘機を1947年に新規製造するのは根本的に間違っていた。そんなことをする前に、後継機の用意をしておかなければならない。
75型の後に、主力艦上戦闘機を務めた烈風は、本来なら1944年ごろに部隊配備されていなければならないはずの戦闘機だった。
烈風の開発そのものは順調だった。烈風は開発開始から2年足らずで初飛行している。
ただし、性能は期待はずれだった。海軍の要求仕様が全く支離滅裂だったからだ。開発失敗の原因はほとんどが海軍の技術的に対する理解不足で説明できる。
結果、並行して行われた零戦の改良だけが先行することになった。海軍は責任回避と、他に代替機材がないことから烈風の改良が続けることにした。
そして、烈風の改良が零戦に追いついたのは、1949年のことだ。
新型陸上攻撃機”泰山”用に開発された3000馬力級ターボプロップエンジンを搭載した烈風は、高度10000mで、時速715kmを発揮した。
ただちに烈風は制式採用され、ようやく零戦は引退することができた。
もっとも、烈風に近い速度で18000kmを飛行する大型陸上攻撃機”富嶽”の部隊配備が翌年に始まっていたので、烈風の戦力的価値は「ないよりはマシ」という程度の話だった。
この時期の海軍航空隊における艦上機の価値は、概してその程度のものだったのだ。
帝国海軍の母艦航空隊がジェット化を果たすのは、1950年代後半に入ってからのことだ。ほぼ10年間、母艦航空隊は停滞期に陥った。
ちょうどそれは、冷戦初期の、帝国海軍が核兵器の増産とその運搬手段の開発にしゃかりきになっていたころに重なる。
冷戦初期の世界において、何よりも優先されたのは核兵器の増産とその運搬手段の開発だった。これは帝国に限った話ではない。米ソ両超大国においても同様だった。
戦略爆撃機の開発予算確保のために、米海軍の大型空母建造計画が中止に追い込まれたのがその好例である。ソビエト連邦においても、核兵器や弾道ミサイル増産のために、戦術用途の兵器開発が中止に追い込まれている。
米ソに比べて国力に劣る大日本帝国は、さらにその傾向がより過激に現れた。
特に、帝国海軍において、それは顕著だった。海軍は他のすべてを犠牲にして、核兵器の増産とジェット陸上攻撃機の整備に血道をあげていった。
なにしろ、ジェット化された陸上攻撃機と原子爆弾さえあれば、空母や水上艦は不要という極端な意見が海軍の公式見解になっていた時期があったのだ。第二次世界大戦の戦訓で否定された戦闘機無用論が復活し、戦闘機どころか水上艦不要論まで公然と語られる始末だった。
少し深く考えてみれば、そんなもの暴論以外の何者でもないことが分かる。
海軍が対応すべき事案は、全面核戦争だけではない。紛争地帯の沿岸警備に、原子力潜水艦や核砲弾を搭載した大和型戦艦等を投入したりはしない。
しかし、帝国海軍はそれが分からなかった。核兵器という最終兵器の魔力に取り憑かれていたとしか
思えないほど、帝国海軍は核戦争に特化した組織となり、1965年のベトナム派兵で大きな代償を支払うことになった。
「代償か・・・」
あるいは、生贄か。
インドシナのジャングルは魔女の大鍋で、そこに片端から放りこまれた帝国兵士は、ベトナム派兵全期間を通じて10万におよぶ。
任期は2年だった。五体満足で内地帰還の日を迎えられる人間は稀だった。多くは任期満了前に、障害者として内地に帰還した。それでも死体袋に入れられて帰国するよりはマシだった。わざと自分の手足を撃ちぬいた兵士もいた。そうした自傷行為は珍しくなかった。精神が壊れる前に、肉体を自分で壊してリタイアすることは、一定の合理性があった。肉体が壊れるよりも、精神が壊れることの方が何倍も恐ろしいことを、皆がよく知っていた。
精神が壊れた人間は幾らでもいた。休日は殆ど無い代わりに、除倦剤だけは豊富に与えられたからだ。この薬を注射すれば、何時間でも休憩なしで戦うことできた。精神を限界まですり減らす夜間超低空侵入を何度でもこなすことができた。
まるで魔法の薬だが、代償は大きかった。除倦剤の常用するようになった兵士は余命1ヶ月だった。
自分がそうならなかったのは、幸か不幸か・・・
「あるいは、最初から壊れていただけか」