↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「君は一人でも平気だろう」と言われたので、一人で嫁ぎ先を決めました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/11

「君は一人でも平気だろう」


 母の命日に、一緒に墓参へ来てほしい。

 そう頼んだ婚約者は、別の令嬢のお茶会の失敗を慰めるため、約束を取り消した。

 翌日、理由を尋ねた私に返ってきたのが、その言葉だった。


「ペリーヌは泣いていたんだ。あのまま帰るわけにはいかないよ」


 レミ様は、私の前へ焼き菓子の皿を寄せた。

 以前は好きだった、彼の家の料理人が作る菓子だった。


「ご家族もいらっしゃったのでしょう」

「いたけれど、僕にいてほしいと言うんだ」

「私も、一緒に来てほしいとお願いしました」

「だから、君はちゃんと行けたじゃないか」


 レミ様は困ったように笑った。

 私の頼みは、終わったことになっていた。


 ◇


 母を亡くしたのは、私が九歳のときだった。

 伯爵家の娘として、父にも使用人にも大切にしてもらった。私は一人で育ったわけではない。

 けれど、母に話したいことは、今でもある。


 毎年、命日には墓を訪ねた。

 父と行く年もあれば、父の仕事で私だけが侍女と行く年もあった。今年、父は領地の予定を動かせず、私は王都近郊の墓へ行くことになっていた。


 レミ様に同行をお願いしたのは、二週間前だ。


「毎年お参りしていますから、一人でも行けます。でも、今年はあなたにそばにいてほしいんです」


 結婚したら、暮らす場所も今までとは変わる。

 その前に、母に彼を紹介したかった。

 レミ様は、そういうことなら、と頷いた。


 昨日、出発の半刻前に来たのは、彼ではなく使いの者だった。

 オーベール子爵家で急用ができ、今日は行けないという。

 私は、どなたか倒れたのかと尋ねた。

 使いは、そこまでは聞いていないと答えた。


 心配しながら、侍女と馬車へ乗った。

 隣に置いた白い花の束が、曲がり角で膝へ倒れてきた。

 包み直して抱え、墓に着いてから水を替えた。


 母に最近読んだ本の話をした。

 今年も庭の花が咲いたこと。父が秋までには屋根の修繕を終わらせると言っていること。

 婚約者の話だけは、うまくできなかった。


 今日になって、ペリーヌ様が大きなお茶会で詩人の名前を取り違えたのだと聞いた。

 彼女が恥ずかしくて泣いてしまい、レミ様はその場を離れられなかったという。

 事故でも病気でもなかったことには、ほっとした。

 それと、悲しかったことは別だった。


「何度もお伝えしました。約束を急に変えられるのは、嫌だと」

「昨日は急だったんだ。悪かったよ」

「あなたと行きたかったんです」


 彼はカップを持ち上げ、少し飲んだ。


「そんなに困っていたなら、もっとはっきり言ってくれれば」


 私もカップへ手を伸ばした。

 持ち上げずに、取っ手から指を離した。


 レミ様と婚約したのは、二年前。

 最初の夜会で、私は挨拶を一つ間違えた。

 顔が熱くなり、次の人へ声をかけられずにいたとき、彼が隣に来た。


「次は一緒に行こうか」


 あのとき、どれだけ助かったか。

 帰宅してからも思い出し、私は彼へお礼の手紙を書いた。

 返事には、次の夜会でも隣にいるよ、とあった。

 その後、私も挨拶に慣れた。

 自分から話しかけられるようになった頃、彼は困っているほかの人へ向かうようになった。


 観劇の待ち合わせにも、お茶の約束にも、ペリーヌ様からの頼みが重なった。

 彼女には不安を聞いてくれる人が必要で、私には必要がない。

 レミ様の言葉は、いつもそこへ戻った。


「昨日のことだけで、こんなに怒るのかい」


 私は、彼の目を見た。


「婚約を解消したいです」


 レミ様の手が止まった。


「待って。謝っているだろう」

「前にも謝っていただきました。そのとき、次は変えてくださると思いました」

「少し落ち着こう。こんなふうに、急に決めなくても」


 初めて約束を取り消された日から、もう半年以上経っていた。

 私は席を立ち、開いた扉の向こうで待つ侍女に声をかけた。


「お父様から、正式にお話ししていただきます」


 皿の上には、菓子が一つも減らずに残っていた。


 ◇


 父は領地から戻ると、私の話を聞き、ヴェリエ伯爵へ面会を申し入れた。

 伯爵は息子にも事情を尋ね、当日来た使いの話も確認した。

 私が同行を頼んでいたことも、彼が了承していたことも、争いにはならなかった。

 レミ様自身が認めたからだ。


「ソレンヌは落ち着いているから、大丈夫だと思ったんです」


 両家の話し合いで、彼はまたそう言った。

 伯爵は息子へ、相手の答えを自分で決めるなと告げた。

 私に、婚約を続けるよう求めることはなかった。


 解消は、両家の合意によって成立した。

 持参金はまだ渡しておらず、婚姻準備で預けた品を返していただけば、手続きは終わる。

 私は署名をした。

 レミ様も、父に促されてペンを取った。


 その翌週、ペリーヌ様が私の家を訪ねてきた。

 訪問の申し込みには、誤解を解きたいとあったので、父と一緒に会った。


「レミ様は、困っている人を放っておけないだけです。そこまで責めるのは、冷たいのではありませんか」


 私は彼女の顔を見た。


「あの日、私と約束があることをご存じでしたか」

「ええ。でも、私はあんなに泣いていて……」

「ご存じだったのですね」


 ペリーヌ様は唇を結んだ。

 父が、これ以上の話し合いは不要だと言って席を立った。

 帰り際、彼女は私にだけ聞こえる声で言った。


「レミ様には、もっと頼って差し上げる方が合うと思います」


 その言葉も、父に伝えた。

 私の家へ説得に来たことと併せて、父からヴェリエ伯爵へ連絡が行った。

 伯爵家はペリーヌ様への私的な招待を取りやめ、息子と交際を続けるなら、両家を通して正式に話をするよう求めたという。


 ひと月後、二人の婚約が決まった。

 レミ様が彼女との結婚を望み、ペリーヌ様も喜んで受けたと聞いた。

 伯爵は二人の意思を確認し、これからの約束は責任を持って果たすよう告げたそうだ。


 その知らせを、私は庭で父から聞いた。

 薔薇の蕾に、まだ硬いものが混じっていた。

 私は父の袖に触れた。


「お父様。私も、新しい縁談を考えたいです」

「急ぐ必要はないぞ」

「はい。急いで結婚したいのではなくて、自分で、会いたい方を選びたいんです」


 父は少し考え、頷いた。


 ◇


 紹介できる方として、父はいくつかの家の話をしてくれた。

 私はその中から、ルヴォー子爵との面会を希望した。

 父が以前、土地の境界について相談を受けた相手だった。

 分からないことは持ち帰って確かめ、決めた期日までに返事をくれたという。

 子爵領には、昔読んだ旅行記に出てくる湖もあった。


 それだけで結婚を決めたわけではない。

 まず、会って話してみたいと思った。


 バスティアン様は二十三歳。二年前に父君を亡くし、爵位を継いだ方だった。

 初めて会った日、彼は私の父へ丁寧に挨拶をし、私へも丁寧に挨拶をした。

 それから、お茶の卓を見た。


「……よい天気ですね」

「はい」


 少し間が空いた。

 窓の外には雲一つなく、天気について付け加えることもなかった。

 彼が困っているのは分かった。

 けれど、すぐに私が話さなければ、とは思わなかった。

 彼は一度背筋を伸ばし、私を見た。


「旅行記をお読みになると伺いました。どのあたりの本でしょうか」


 私が書名を挙げると、彼の表情が変わった。


「それは、私の家にもあります。湖の章をお読みになりましたか」

「はい。白い小舟の絵が載っているところですね」

「あの舟、今でも使われています。ただ、あの絵ほど大きな帆は立てません。岸に近い場所で、釣りに使う舟なので」


 知らなかった。

 どんな魚が釣れるのか尋ねると、彼は答えてくれた。

 そこから湖沿いの町の話になり、市の日の話になった。


「帰りに菓子を買うと、家に着く頃には半分しかないんです」

「道のりが長いからですか」

「いえ。私が食べるからです」


 あまり真面目な顔で言うので、笑ってしまった。

 彼も少し笑った。

 さっきまで座る位置まで気にしていた人が、卓へ肘をつきかけて、慌てて戻した。


 父と、同席していた伯母が話し始めた。

 私たちは湖の話を続けた。

 彼は私がその本のどこを好きなのか尋ねた。


「旅先で食べた朝ご飯が、細かく書いてあるところです」

「景色ではなく?」

「景色も好きです。でも、何を食べたかが分かると、その人が本当にそこに泊まった気がします」


 彼は本のその頁を思い出すように、少し黙った。


「読み直してみます」


 帰る前、バスティアン様は次も訪ねてよいかと尋ねた。

 私は、ぜひ、と答えた。


 ◇


 三度目の訪問では、庭を歩いた。

 伯母と侍女が、少し後ろからついてきていた。

 彼は旅行記の朝食の頁を、本当に読み直してくれていた。


「あの宿のパンは今も評判です。前を通るのに、泊まったことがなくて」

「近くにお住まいだと、そうなりますね」

「今度、朝食だけ食べられるか訊いてみようと思います」


 私は、彼がその話をする顔が好きになっていた。

 家や領地のことを話すときは丁寧で、知っている菓子の話になると少し楽しそうになる。

 彼の領地の地図を買い、湖や町の名前を探したことは、まだ言えていなかった。


 池の前で、彼が足を止めた。


「来月には領地へ戻ります」


 私は、池から彼へ視線を移した。


「もう、お戻りになるんですね」

「はい。王都へ来るのは、しばらく先になります」


 彼は、見合いの返事を急がなくてよいと言った。

 私の父にも、次の訪問までに決める必要はないと伝えてあるという。

 このまま、会わなくなることもあるのだと思った。


 私は池の向こうにあるベンチを見た。

 初めて訪ねてくださった日の続きのように、また次の話ができると思っていた。


「次に王都へいらっしゃるまで、待つだけは嫌です」


 彼が、私を見た。

 言ってから、耳が熱くなった。

 それでも続けた。


「私から、お手紙を差し上げてもいいですか」


 彼はすぐには答えなかった。

 私は顔を上げた。


「ご迷惑でしたら」

「迷惑ではありません」


 今度は、返事が早かった。


「私からお願いしようと思っていました。でも、お返事まで求めることになれば、ご負担かと」

「お返事も、いただきたいです」


 彼が、口元を押さえた。

 笑ったのかと思った。けれど、指を下ろしたとき、頬まで赤くなっていた。


「……喜んで」


 私は、もう池を見ることができなかった。

 彼が嬉しそうで、その顔を見ていたかった。


 少し先のベンチに座って、彼は領地の話をしてくれた。

 先に、私に来ていただく提案をしたかったという。

 けれど、縁談が決まる前に遠出を頼むのは、どうかと思っていたそうだ。


「王都とは違います。冬の道は悪くなるし、劇場もありません。見てから考えていただきたいんです」

「私も、知らない場所で暮らすのは不安です」


 彼は頷いた。


「何でも訊いてください。今、答えられないことは、調べてお返事します」

「質問だけで、便箋がなくなってしまうかもしれません」

「そのときは、二通目をお願いします」


 私は笑った。

 帰り際には、また会う日を父と相談してほしいと、自分からお願いした。


 ◇


 同じ頃、ヴェリエ伯爵家では婚姻準備が進んでいた。

 レミとペリーヌの婚約は、親族へ正式に知らされた。

 披露の席を設けるため、二人はそれぞれ、自分の側の招待客と挨拶の順序を確かめることになった。


「私には、こういうことは分からないの」


 ペリーヌは、教えてくれる母が隣にいても、レミへ書類を渡した。


「君の親戚だろう。僕には、誰が誰だか」

「訊いてくださればいいでしょう。あなたなら、うまくお話しできるわ」


 初めのうちは、レミも引き受けた。

 彼女が礼を言い、頼りになると褒めると、少しくらい手間がかかっても気にならなかった。

 けれど、確認した名簿の返事を頼んでも、彼女は次の訪問まで見ていなかった。

 席順について尋ねると、怒らせたら怖いから、そちらで決めてほしいという。


「母上と君のお母上もいる。一緒に教わればいいじゃないか」

「でも、私は不安なの。どうして、前みたいに優しくしてくださらないの?」


 レミは、机の上に書類を戻した。

 教えると言うと泣かれ、任せてと言えば、もっと任された。

 彼は次の相談の日を、別の予定を理由に取り消した。

 その次は、使いを送るのも遅れた。


 ペリーヌは待たされたと泣き、母に訴えた。

 レミは、どれほど自分が手伝ったかを父へ訴えた。

 両家で席を設けても、二人は相手が変わることだけを求めた。


「もう少し自分でやってくれれば」

「もう少し助けてくだされば」


 披露の席は延期された。

 その後も折り合いがつかず、婚約は解消することになった。


 ペリーヌは、次の縁談を探してほしいと父に頼んだ。

 以前、紹介の話をしてくれた家があるはずだった。

 しかし父から戻ってきたのは、今回は見送るという返事だった。

 婚約者のいる青年との付き合い方も、披露の席が中止になった経緯も、親族には知られていた。


「あちらが悪かったと説明してくださった?」

「お前が約束した確認をしなかったことも、先方は知っている」


 父は、もう彼女をヴェリエ家へ連れていかなかった。

 次の縁談の前に、自分の返事と予定を自分で引き受けるよう告げた。

 新しい婚約者と並ぶはずだった披露の衣装は、仕立ての途中で止まった。


 レミにも、父から同じように告げられた。

 息子のためにすぐ別の縁談を取り持つことは、もうしない。

 立て続けの婚約解消について、懇意の家から尋ねられた際、息子に非がないよう取り繕うこともしないと。


 レミは、ペリーヌから返された書類の箱を開いた。

 そこには、最後に尋ねた席順への答えもなかった。

 箱を閉じたとき、彼が思い浮かべたのはソレンヌだった。

 しかし、彼女から返事が来るような約束は、もう残っていなかった。


 ◇


 バスティアン様が領地へ戻ってから、私は三通の手紙を出した。

 窓辺で読んだ本のこと。庭に巣を作った鳥のこと。旅行記の舟に乗るには、どこへ行けばよいのか。

 返事には、湖の船着き場の小さな地図が添えられていた。


 伯母と父に相談し、私は伯母と侍女とともに、子爵領を訪ねることになった。

 まずは数日の滞在だ。

 結婚して暮らすかどうか、実際に見てから考えるための訪問だった。


 子爵家へ着いたとき、バスティアン様は階段の下で待っていた。

 馬車から降りる私へ手を差し出し、顔を見ると笑った。


「お会いできて、嬉しいです」


 私も同じだった。

 手を借りて降りる間、緊張していることを隠せなかった。

 彼の手も、少し強く私の手を支えていた。


 客室は伯母の部屋の隣で、窓から庭が見えた。

 家令に会い、食堂を見せていただき、町へも出かけた。

 王都のように何でもすぐ手に入るわけではない。

 郵便の出る曜日も決まっている。

 私は気になったことを訊き、伯母は住まいについて、私が思いつかなかったことを確かめてくれた。


 二日目の朝、バスティアン様が籠を持ってきた。

 中には、旅行記に出てきた宿のパンが入っていた。


「お店で買えるか、お手紙で訊いたんです」

「わざわざ、取り寄せてくださったのですか」

「朝早く、受け取りに行きました。……一つは、帰りに食べました」


 私は籠を覗いた。

 欠けた場所に、紙が一枚詰めてあった。

 彼が自分で入れたのだろうと思うと、たまらなくおかしかった。


「半分残っていて、よかったです」

「今回は、そこまで食べていません」


 伯母が笑って、先に食堂へ向かった。

 私は彼と並んで、その後を歩いた。


 夕方、湖へ連れていっていただいた。

 岸沿いの道は整えられていて、伯母と侍女は先にあるベンチで休んだ。

 私たちは、見える範囲で少し歩いた。

 舟は本当に白かった。

 けれど、絵で見た湖よりずっと広く、水の色も深かった。


「本で読むより、好きです」


 言ってから彼を見ると、こちらを見ていた。


「湖が、です」


 慌てて付け加えた。

 彼は頷き、湖を見た。

 少しして、小さく笑った。


「残念です」


 私は歩くのをやめた。

 彼も止まった。


「あなたのお手紙が来る日は、家へ戻るのが楽しみでした」


 向こうの舟で、櫂が水を打った。

 彼はその音が消えるのを待つように、一度息をついた。


「会う前は、結婚してくれる方が見つかればと思っていました。でも今は、あなたが帰った後、この庭を一人で歩くのが嫌です」


 私は彼を見上げた。

 顔が熱かった。指も、落ち着かなかった。


「あなたと話せるなら、何も起こらなかった一日も、早く帰りたい日になります。私と結婚していただけませんか」


 私は、頷こうとして、一度唇を結んだ。

 彼が、私の答えを待っている。

 ちゃんと言いたかった。


「はい。私も、バスティアン様と暮らしたいです」


 彼は目を閉じ、それから、ゆっくりと笑った。

 私も笑った。

 彼が手を差し出したので、その手を取った。


「帰ったら、お父様にも、私からお伝えします」

「私も、改めてご挨拶に伺います」


 湖のほうへ一歩進み、二人で舟を見た。

 手は、繋いだままだった。


 ◇


 父の承諾を受け、婚約が正式に決まった。

 両家から親族へ知らせを送り、秋の結婚に向けて準備を始めた。

 衣装や招待客について相談する手紙にも、日々の話を書き添えた。


 そんな折、レミ様から面会を申し込む手紙が届いた。

 父は、会いたくなければ断ると言った。

 私は少し考え、父の同席する応接間で一度だけ会うことにした。

 伯爵家への返却品についても、父がすべて済んでいると確かめていた。


 レミ様は、以前より疲れた顔をしていた。


「ペリーヌとの婚約は、終わったんだ」

「伺いました」

「君とのことを、よく考えた」


 彼は、私の顔を見た。


「僕がいなくても平気だと思っていたんだ。君は一人で何でもできるから」


 私は、母の墓へ持っていった白い花を思い出した。


「一緒に来てほしいと、あの日の前にお願いしました」


 彼は口を開き、閉じた。


「……そうだったね」


 初めて、そう返してくれた。

 あの日、そう言ってほしかった。

 今は、もう隣にいてほしい人が違った。


「もう一度、僕とやり直せないだろうか」

「できません」


 レミ様は、膝の上で手を握った。


「子爵家へ嫁ぐんだろう。遠い土地で、不便なこともある。そんなに急いで決めなくても」

「訪ねてきました。暮らす場所も、自分で見てきました」


 私は父を見た。

 父は黙って頷いた。


「バスティアン様と結婚したいので、お返事しました」


 彼には、まだ話していないことがたくさんある。

 次に買った本を、彼も読むかもしれない。好きな菓子が同じとは限らないし、意見が合わないこともあるだろう。

 それでも、私はあの家へ帰りたい。


 父が席を立ち、今日で私的な面会は終わりにすると告げた。

 レミ様は、私を見たままだった。

 私は立ち上がり、お辞儀をした。


 彼が帰った後、机の上の手紙を開いた。

 バスティアン様が、新しい客室用の椅子について意見を訊いていた。

 その後に、昨日は夕食の煮込みを焦がしかけた、とあった。

 家の料理人に、味を見るために蓋を開けたなら、閉めて帰るよう注意されたそうだ。


 私は笑い、返事を書くためにペンを取った。


 ◇


 翌年の母の命日には、バスティアン様と一緒に墓を訪ねた。

 秋の結婚から半年ほどが過ぎ、王都の家へ戻る日程も、二人で相談して決めた。

 父との墓参は別の日に済ませていた。今日は、母へ彼を紹介する日だった。


 私が白い花を供えると、彼も持ってきた一輪を添えた。

 挨拶をして、少し頭を下げる。

 私は母の名を刻んだ石を見た。


「母も、旅行記が好きだったんです」


 隣で、彼が顔を上げた。


「あの本も、お母様から?」

「はい。食べ物の頁に、細い紙が挟んでありました」


 バスティアン様が笑った。

 私も笑った。

 少しだけ涙が出たので、ハンカチを取り出した。

 彼は急かさず、隣にいた。


 母には、この半年のことを話した。

 湖の町へ二人で行ったこと。朝食の宿には、今度は一緒に泊まったこと。

 新しい家で、私の本を置く棚が一つ増えたこと。


 帰り道、私はバスティアン様の手に触れた。


「少し、遠回りしてもいいですか」

「どちらへ?」

「母とよく行った菓子店があります。あなたにも、食べていただきたいです」


 彼は私の手を取り、歩く向きを変えた。


「今度は、家に着く前に半分食べないようにします」

「今日は、一緒に食べましょう。帰る前に」


 彼が、嬉しそうに頷いた。

 私はその手を握り直し、店までの道を案内した。


~完~

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。