「君は一人でも平気だろう」と言われたので、一人で嫁ぎ先を決めました
「君は一人でも平気だろう」
母の命日に、一緒に墓参へ来てほしい。
そう頼んだ婚約者は、別の令嬢のお茶会の失敗を慰めるため、約束を取り消した。
翌日、理由を尋ねた私に返ってきたのが、その言葉だった。
「ペリーヌは泣いていたんだ。あのまま帰るわけにはいかないよ」
レミ様は、私の前へ焼き菓子の皿を寄せた。
以前は好きだった、彼の家の料理人が作る菓子だった。
「ご家族もいらっしゃったのでしょう」
「いたけれど、僕にいてほしいと言うんだ」
「私も、一緒に来てほしいとお願いしました」
「だから、君はちゃんと行けたじゃないか」
レミ様は困ったように笑った。
私の頼みは、終わったことになっていた。
◇
母を亡くしたのは、私が九歳のときだった。
伯爵家の娘として、父にも使用人にも大切にしてもらった。私は一人で育ったわけではない。
けれど、母に話したいことは、今でもある。
毎年、命日には墓を訪ねた。
父と行く年もあれば、父の仕事で私だけが侍女と行く年もあった。今年、父は領地の予定を動かせず、私は王都近郊の墓へ行くことになっていた。
レミ様に同行をお願いしたのは、二週間前だ。
「毎年お参りしていますから、一人でも行けます。でも、今年はあなたにそばにいてほしいんです」
結婚したら、暮らす場所も今までとは変わる。
その前に、母に彼を紹介したかった。
レミ様は、そういうことなら、と頷いた。
昨日、出発の半刻前に来たのは、彼ではなく使いの者だった。
オーベール子爵家で急用ができ、今日は行けないという。
私は、どなたか倒れたのかと尋ねた。
使いは、そこまでは聞いていないと答えた。
心配しながら、侍女と馬車へ乗った。
隣に置いた白い花の束が、曲がり角で膝へ倒れてきた。
包み直して抱え、墓に着いてから水を替えた。
母に最近読んだ本の話をした。
今年も庭の花が咲いたこと。父が秋までには屋根の修繕を終わらせると言っていること。
婚約者の話だけは、うまくできなかった。
今日になって、ペリーヌ様が大きなお茶会で詩人の名前を取り違えたのだと聞いた。
彼女が恥ずかしくて泣いてしまい、レミ様はその場を離れられなかったという。
事故でも病気でもなかったことには、ほっとした。
それと、悲しかったことは別だった。
「何度もお伝えしました。約束を急に変えられるのは、嫌だと」
「昨日は急だったんだ。悪かったよ」
「あなたと行きたかったんです」
彼はカップを持ち上げ、少し飲んだ。
「そんなに困っていたなら、もっとはっきり言ってくれれば」
私もカップへ手を伸ばした。
持ち上げずに、取っ手から指を離した。
レミ様と婚約したのは、二年前。
最初の夜会で、私は挨拶を一つ間違えた。
顔が熱くなり、次の人へ声をかけられずにいたとき、彼が隣に来た。
「次は一緒に行こうか」
あのとき、どれだけ助かったか。
帰宅してからも思い出し、私は彼へお礼の手紙を書いた。
返事には、次の夜会でも隣にいるよ、とあった。
その後、私も挨拶に慣れた。
自分から話しかけられるようになった頃、彼は困っているほかの人へ向かうようになった。
観劇の待ち合わせにも、お茶の約束にも、ペリーヌ様からの頼みが重なった。
彼女には不安を聞いてくれる人が必要で、私には必要がない。
レミ様の言葉は、いつもそこへ戻った。
「昨日のことだけで、こんなに怒るのかい」
私は、彼の目を見た。
「婚約を解消したいです」
レミ様の手が止まった。
「待って。謝っているだろう」
「前にも謝っていただきました。そのとき、次は変えてくださると思いました」
「少し落ち着こう。こんなふうに、急に決めなくても」
初めて約束を取り消された日から、もう半年以上経っていた。
私は席を立ち、開いた扉の向こうで待つ侍女に声をかけた。
「お父様から、正式にお話ししていただきます」
皿の上には、菓子が一つも減らずに残っていた。
◇
父は領地から戻ると、私の話を聞き、ヴェリエ伯爵へ面会を申し入れた。
伯爵は息子にも事情を尋ね、当日来た使いの話も確認した。
私が同行を頼んでいたことも、彼が了承していたことも、争いにはならなかった。
レミ様自身が認めたからだ。
「ソレンヌは落ち着いているから、大丈夫だと思ったんです」
両家の話し合いで、彼はまたそう言った。
伯爵は息子へ、相手の答えを自分で決めるなと告げた。
私に、婚約を続けるよう求めることはなかった。
解消は、両家の合意によって成立した。
持参金はまだ渡しておらず、婚姻準備で預けた品を返していただけば、手続きは終わる。
私は署名をした。
レミ様も、父に促されてペンを取った。
その翌週、ペリーヌ様が私の家を訪ねてきた。
訪問の申し込みには、誤解を解きたいとあったので、父と一緒に会った。
「レミ様は、困っている人を放っておけないだけです。そこまで責めるのは、冷たいのではありませんか」
私は彼女の顔を見た。
「あの日、私と約束があることをご存じでしたか」
「ええ。でも、私はあんなに泣いていて……」
「ご存じだったのですね」
ペリーヌ様は唇を結んだ。
父が、これ以上の話し合いは不要だと言って席を立った。
帰り際、彼女は私にだけ聞こえる声で言った。
「レミ様には、もっと頼って差し上げる方が合うと思います」
その言葉も、父に伝えた。
私の家へ説得に来たことと併せて、父からヴェリエ伯爵へ連絡が行った。
伯爵家はペリーヌ様への私的な招待を取りやめ、息子と交際を続けるなら、両家を通して正式に話をするよう求めたという。
ひと月後、二人の婚約が決まった。
レミ様が彼女との結婚を望み、ペリーヌ様も喜んで受けたと聞いた。
伯爵は二人の意思を確認し、これからの約束は責任を持って果たすよう告げたそうだ。
その知らせを、私は庭で父から聞いた。
薔薇の蕾に、まだ硬いものが混じっていた。
私は父の袖に触れた。
「お父様。私も、新しい縁談を考えたいです」
「急ぐ必要はないぞ」
「はい。急いで結婚したいのではなくて、自分で、会いたい方を選びたいんです」
父は少し考え、頷いた。
◇
紹介できる方として、父はいくつかの家の話をしてくれた。
私はその中から、ルヴォー子爵との面会を希望した。
父が以前、土地の境界について相談を受けた相手だった。
分からないことは持ち帰って確かめ、決めた期日までに返事をくれたという。
子爵領には、昔読んだ旅行記に出てくる湖もあった。
それだけで結婚を決めたわけではない。
まず、会って話してみたいと思った。
バスティアン様は二十三歳。二年前に父君を亡くし、爵位を継いだ方だった。
初めて会った日、彼は私の父へ丁寧に挨拶をし、私へも丁寧に挨拶をした。
それから、お茶の卓を見た。
「……よい天気ですね」
「はい」
少し間が空いた。
窓の外には雲一つなく、天気について付け加えることもなかった。
彼が困っているのは分かった。
けれど、すぐに私が話さなければ、とは思わなかった。
彼は一度背筋を伸ばし、私を見た。
「旅行記をお読みになると伺いました。どのあたりの本でしょうか」
私が書名を挙げると、彼の表情が変わった。
「それは、私の家にもあります。湖の章をお読みになりましたか」
「はい。白い小舟の絵が載っているところですね」
「あの舟、今でも使われています。ただ、あの絵ほど大きな帆は立てません。岸に近い場所で、釣りに使う舟なので」
知らなかった。
どんな魚が釣れるのか尋ねると、彼は答えてくれた。
そこから湖沿いの町の話になり、市の日の話になった。
「帰りに菓子を買うと、家に着く頃には半分しかないんです」
「道のりが長いからですか」
「いえ。私が食べるからです」
あまり真面目な顔で言うので、笑ってしまった。
彼も少し笑った。
さっきまで座る位置まで気にしていた人が、卓へ肘をつきかけて、慌てて戻した。
父と、同席していた伯母が話し始めた。
私たちは湖の話を続けた。
彼は私がその本のどこを好きなのか尋ねた。
「旅先で食べた朝ご飯が、細かく書いてあるところです」
「景色ではなく?」
「景色も好きです。でも、何を食べたかが分かると、その人が本当にそこに泊まった気がします」
彼は本のその頁を思い出すように、少し黙った。
「読み直してみます」
帰る前、バスティアン様は次も訪ねてよいかと尋ねた。
私は、ぜひ、と答えた。
◇
三度目の訪問では、庭を歩いた。
伯母と侍女が、少し後ろからついてきていた。
彼は旅行記の朝食の頁を、本当に読み直してくれていた。
「あの宿のパンは今も評判です。前を通るのに、泊まったことがなくて」
「近くにお住まいだと、そうなりますね」
「今度、朝食だけ食べられるか訊いてみようと思います」
私は、彼がその話をする顔が好きになっていた。
家や領地のことを話すときは丁寧で、知っている菓子の話になると少し楽しそうになる。
彼の領地の地図を買い、湖や町の名前を探したことは、まだ言えていなかった。
池の前で、彼が足を止めた。
「来月には領地へ戻ります」
私は、池から彼へ視線を移した。
「もう、お戻りになるんですね」
「はい。王都へ来るのは、しばらく先になります」
彼は、見合いの返事を急がなくてよいと言った。
私の父にも、次の訪問までに決める必要はないと伝えてあるという。
このまま、会わなくなることもあるのだと思った。
私は池の向こうにあるベンチを見た。
初めて訪ねてくださった日の続きのように、また次の話ができると思っていた。
「次に王都へいらっしゃるまで、待つだけは嫌です」
彼が、私を見た。
言ってから、耳が熱くなった。
それでも続けた。
「私から、お手紙を差し上げてもいいですか」
彼はすぐには答えなかった。
私は顔を上げた。
「ご迷惑でしたら」
「迷惑ではありません」
今度は、返事が早かった。
「私からお願いしようと思っていました。でも、お返事まで求めることになれば、ご負担かと」
「お返事も、いただきたいです」
彼が、口元を押さえた。
笑ったのかと思った。けれど、指を下ろしたとき、頬まで赤くなっていた。
「……喜んで」
私は、もう池を見ることができなかった。
彼が嬉しそうで、その顔を見ていたかった。
少し先のベンチに座って、彼は領地の話をしてくれた。
先に、私に来ていただく提案をしたかったという。
けれど、縁談が決まる前に遠出を頼むのは、どうかと思っていたそうだ。
「王都とは違います。冬の道は悪くなるし、劇場もありません。見てから考えていただきたいんです」
「私も、知らない場所で暮らすのは不安です」
彼は頷いた。
「何でも訊いてください。今、答えられないことは、調べてお返事します」
「質問だけで、便箋がなくなってしまうかもしれません」
「そのときは、二通目をお願いします」
私は笑った。
帰り際には、また会う日を父と相談してほしいと、自分からお願いした。
◇
同じ頃、ヴェリエ伯爵家では婚姻準備が進んでいた。
レミとペリーヌの婚約は、親族へ正式に知らされた。
披露の席を設けるため、二人はそれぞれ、自分の側の招待客と挨拶の順序を確かめることになった。
「私には、こういうことは分からないの」
ペリーヌは、教えてくれる母が隣にいても、レミへ書類を渡した。
「君の親戚だろう。僕には、誰が誰だか」
「訊いてくださればいいでしょう。あなたなら、うまくお話しできるわ」
初めのうちは、レミも引き受けた。
彼女が礼を言い、頼りになると褒めると、少しくらい手間がかかっても気にならなかった。
けれど、確認した名簿の返事を頼んでも、彼女は次の訪問まで見ていなかった。
席順について尋ねると、怒らせたら怖いから、そちらで決めてほしいという。
「母上と君のお母上もいる。一緒に教わればいいじゃないか」
「でも、私は不安なの。どうして、前みたいに優しくしてくださらないの?」
レミは、机の上に書類を戻した。
教えると言うと泣かれ、任せてと言えば、もっと任された。
彼は次の相談の日を、別の予定を理由に取り消した。
その次は、使いを送るのも遅れた。
ペリーヌは待たされたと泣き、母に訴えた。
レミは、どれほど自分が手伝ったかを父へ訴えた。
両家で席を設けても、二人は相手が変わることだけを求めた。
「もう少し自分でやってくれれば」
「もう少し助けてくだされば」
披露の席は延期された。
その後も折り合いがつかず、婚約は解消することになった。
ペリーヌは、次の縁談を探してほしいと父に頼んだ。
以前、紹介の話をしてくれた家があるはずだった。
しかし父から戻ってきたのは、今回は見送るという返事だった。
婚約者のいる青年との付き合い方も、披露の席が中止になった経緯も、親族には知られていた。
「あちらが悪かったと説明してくださった?」
「お前が約束した確認をしなかったことも、先方は知っている」
父は、もう彼女をヴェリエ家へ連れていかなかった。
次の縁談の前に、自分の返事と予定を自分で引き受けるよう告げた。
新しい婚約者と並ぶはずだった披露の衣装は、仕立ての途中で止まった。
レミにも、父から同じように告げられた。
息子のためにすぐ別の縁談を取り持つことは、もうしない。
立て続けの婚約解消について、懇意の家から尋ねられた際、息子に非がないよう取り繕うこともしないと。
レミは、ペリーヌから返された書類の箱を開いた。
そこには、最後に尋ねた席順への答えもなかった。
箱を閉じたとき、彼が思い浮かべたのはソレンヌだった。
しかし、彼女から返事が来るような約束は、もう残っていなかった。
◇
バスティアン様が領地へ戻ってから、私は三通の手紙を出した。
窓辺で読んだ本のこと。庭に巣を作った鳥のこと。旅行記の舟に乗るには、どこへ行けばよいのか。
返事には、湖の船着き場の小さな地図が添えられていた。
伯母と父に相談し、私は伯母と侍女とともに、子爵領を訪ねることになった。
まずは数日の滞在だ。
結婚して暮らすかどうか、実際に見てから考えるための訪問だった。
子爵家へ着いたとき、バスティアン様は階段の下で待っていた。
馬車から降りる私へ手を差し出し、顔を見ると笑った。
「お会いできて、嬉しいです」
私も同じだった。
手を借りて降りる間、緊張していることを隠せなかった。
彼の手も、少し強く私の手を支えていた。
客室は伯母の部屋の隣で、窓から庭が見えた。
家令に会い、食堂を見せていただき、町へも出かけた。
王都のように何でもすぐ手に入るわけではない。
郵便の出る曜日も決まっている。
私は気になったことを訊き、伯母は住まいについて、私が思いつかなかったことを確かめてくれた。
二日目の朝、バスティアン様が籠を持ってきた。
中には、旅行記に出てきた宿のパンが入っていた。
「お店で買えるか、お手紙で訊いたんです」
「わざわざ、取り寄せてくださったのですか」
「朝早く、受け取りに行きました。……一つは、帰りに食べました」
私は籠を覗いた。
欠けた場所に、紙が一枚詰めてあった。
彼が自分で入れたのだろうと思うと、たまらなくおかしかった。
「半分残っていて、よかったです」
「今回は、そこまで食べていません」
伯母が笑って、先に食堂へ向かった。
私は彼と並んで、その後を歩いた。
夕方、湖へ連れていっていただいた。
岸沿いの道は整えられていて、伯母と侍女は先にあるベンチで休んだ。
私たちは、見える範囲で少し歩いた。
舟は本当に白かった。
けれど、絵で見た湖よりずっと広く、水の色も深かった。
「本で読むより、好きです」
言ってから彼を見ると、こちらを見ていた。
「湖が、です」
慌てて付け加えた。
彼は頷き、湖を見た。
少しして、小さく笑った。
「残念です」
私は歩くのをやめた。
彼も止まった。
「あなたのお手紙が来る日は、家へ戻るのが楽しみでした」
向こうの舟で、櫂が水を打った。
彼はその音が消えるのを待つように、一度息をついた。
「会う前は、結婚してくれる方が見つかればと思っていました。でも今は、あなたが帰った後、この庭を一人で歩くのが嫌です」
私は彼を見上げた。
顔が熱かった。指も、落ち着かなかった。
「あなたと話せるなら、何も起こらなかった一日も、早く帰りたい日になります。私と結婚していただけませんか」
私は、頷こうとして、一度唇を結んだ。
彼が、私の答えを待っている。
ちゃんと言いたかった。
「はい。私も、バスティアン様と暮らしたいです」
彼は目を閉じ、それから、ゆっくりと笑った。
私も笑った。
彼が手を差し出したので、その手を取った。
「帰ったら、お父様にも、私からお伝えします」
「私も、改めてご挨拶に伺います」
湖のほうへ一歩進み、二人で舟を見た。
手は、繋いだままだった。
◇
父の承諾を受け、婚約が正式に決まった。
両家から親族へ知らせを送り、秋の結婚に向けて準備を始めた。
衣装や招待客について相談する手紙にも、日々の話を書き添えた。
そんな折、レミ様から面会を申し込む手紙が届いた。
父は、会いたくなければ断ると言った。
私は少し考え、父の同席する応接間で一度だけ会うことにした。
伯爵家への返却品についても、父がすべて済んでいると確かめていた。
レミ様は、以前より疲れた顔をしていた。
「ペリーヌとの婚約は、終わったんだ」
「伺いました」
「君とのことを、よく考えた」
彼は、私の顔を見た。
「僕がいなくても平気だと思っていたんだ。君は一人で何でもできるから」
私は、母の墓へ持っていった白い花を思い出した。
「一緒に来てほしいと、あの日の前にお願いしました」
彼は口を開き、閉じた。
「……そうだったね」
初めて、そう返してくれた。
あの日、そう言ってほしかった。
今は、もう隣にいてほしい人が違った。
「もう一度、僕とやり直せないだろうか」
「できません」
レミ様は、膝の上で手を握った。
「子爵家へ嫁ぐんだろう。遠い土地で、不便なこともある。そんなに急いで決めなくても」
「訪ねてきました。暮らす場所も、自分で見てきました」
私は父を見た。
父は黙って頷いた。
「バスティアン様と結婚したいので、お返事しました」
彼には、まだ話していないことがたくさんある。
次に買った本を、彼も読むかもしれない。好きな菓子が同じとは限らないし、意見が合わないこともあるだろう。
それでも、私はあの家へ帰りたい。
父が席を立ち、今日で私的な面会は終わりにすると告げた。
レミ様は、私を見たままだった。
私は立ち上がり、お辞儀をした。
彼が帰った後、机の上の手紙を開いた。
バスティアン様が、新しい客室用の椅子について意見を訊いていた。
その後に、昨日は夕食の煮込みを焦がしかけた、とあった。
家の料理人に、味を見るために蓋を開けたなら、閉めて帰るよう注意されたそうだ。
私は笑い、返事を書くためにペンを取った。
◇
翌年の母の命日には、バスティアン様と一緒に墓を訪ねた。
秋の結婚から半年ほどが過ぎ、王都の家へ戻る日程も、二人で相談して決めた。
父との墓参は別の日に済ませていた。今日は、母へ彼を紹介する日だった。
私が白い花を供えると、彼も持ってきた一輪を添えた。
挨拶をして、少し頭を下げる。
私は母の名を刻んだ石を見た。
「母も、旅行記が好きだったんです」
隣で、彼が顔を上げた。
「あの本も、お母様から?」
「はい。食べ物の頁に、細い紙が挟んでありました」
バスティアン様が笑った。
私も笑った。
少しだけ涙が出たので、ハンカチを取り出した。
彼は急かさず、隣にいた。
母には、この半年のことを話した。
湖の町へ二人で行ったこと。朝食の宿には、今度は一緒に泊まったこと。
新しい家で、私の本を置く棚が一つ増えたこと。
帰り道、私はバスティアン様の手に触れた。
「少し、遠回りしてもいいですか」
「どちらへ?」
「母とよく行った菓子店があります。あなたにも、食べていただきたいです」
彼は私の手を取り、歩く向きを変えた。
「今度は、家に着く前に半分食べないようにします」
「今日は、一緒に食べましょう。帰る前に」
彼が、嬉しそうに頷いた。
私はその手を握り直し、店までの道を案内した。
~完~




