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その日、交差点で ー15年越しの後悔と、書き換えた運命

作者: 西 孝弘
掲載日:2026/04/05

その日、交差点で

西 孝弘


内容

第一章 交差点

第二章 見えている人

第三章 変えられない未来

第四章 訪ねてきた人

第五章 夜の交差点

第六章 その日、交差点で



第一章 交差点


 日曜日の朝、十時。

 空は澄んでいて、雲は高かった。


 俺は交差点の歩道に立っていた。

 信号待ちの人の流れから、ほんの少し外れた場所。

 横断歩道の白線を正面に見る位置に、十五年ぶりに立っている。


 事故現場だった。


 ここに来るのは、あの事故から初めてだ。

 正確に言えば、来られなかった。

 十五年のあいだ、無意識に遠回りを続けてきた。


 今日は、命日だ。


 交差点は、驚くほど普通だった。

 車は規則正しく流れ、犬を散歩させる人や、買い物袋を下げた人が信号を待っている。

 誰も立ち止まらない。

 ここで何かが起きた痕跡は、もう何ひとつ残っていなかった。


 ふと見ると、歩道の端に花束が置かれていた。

 白と淡い紫を基調にした、控えめな花。

 いつ、誰が置いたのだろう。


 事件は当時、大きく報道された。

 夜の横断歩道、高齢者が運転する車、若い女性。

 だから、誰かが覚えていて、命日になると花を置いているのだろう。

 そう考えれば、納得できる。


 そう思うことにして、俺は花束から視線を逸らした。


 顔を上げると、交差点の向こうにパン屋があった。

 白い外壁と大きなガラス窓。

 まだ開店前なのか、店内は静まり返っている。


 十五年前、そこにあったのは、パン屋じゃなかった。


 コインランドリーだった。


 あの夜、アオイは、そこへ向かっていた。

 洗濯機が壊れていて、本当は俺が行くはずだった。

 結婚まで、あと二ヶ月だったのに。


 俺は、そのとき、布団の中にいた。

 熱があり、喉が痛くて、身体が鉛のように重かった。

 立ち上がろうと思えば、立ち上がれたのかもしれない。

 でも、俺は動かなかった。


 「すぐ戻るから」


 そう言って、アオイは出ていった。

 玄関のドアが閉まる音を、俺は布団の中で聞いていた。


 信号が変わり、人の流れが動き出す。

 俺だけが、その場に残ったままだった。


 思い出そうとしているわけじゃない。

 ただ、ここに立っているだけで、勝手に浮かび上がってくる。

 夜の横断歩道。

 白線の上。

 帰ってこなかった時間。


 胸の奥が、ゆっくりと熱を持ち始める。


 そのときだった。


 風が止んだ。

 正確には、止んだ気がした。


 交差点を満たしていた音が、薄い膜を一枚隔てたように遠のく。

 車の走行音も、人の話し声も、どこか現実味を失っていく。


 顔を上げる。


 交差点の向こうにあるはずのパン屋が、見当たらなかった。


 見間違いだと思った。

 十五年も経っているのだから、建物の印象が変わって見えるだけだ、と。


 だが、そこにあったのは――

 ガラス張りの建物だった。


 中で回っている洗濯機。

 白く、少しだけ古い蛍光灯。

 見覚えのある配置。


 喉が、ひくりと鳴った。


 頭の中で、何かが噛み合わない。

 理解しようとすると、別の感覚が邪魔をする。

 これは夢だ、と片づけるには、あまりに現実的だった。


 足元を見ると、横断歩道の白線が、やけにくっきりと浮かんでいた。

 さっきまで感じていた日差しが、少しだけ違う。


 ただ、ここがさっきまで立っていた場所とは違う。

 そのことだけは、はっきりとわかった。


 俺は、何もわからないまま、

 交差点の中央に立ち尽くしていた。


第二章 見えている人


 俺は、交差点の中央に立ち尽くしていた。


 景色は見覚えがある。

 だが、決定的に違った。


 パン屋じゃない。

 あれは、コインランドリーだ。

 まさか。

 通行人に向かって声を出す。


 「すみません」

 反応はない。


 「聞こえてますよね?」


 人の流れは止まらず、

 誰一人として、こちらを気にも留めない。

 まるで、透明人間になったようだ。


 胸の奥が、静かに冷えていく。


 ――おかしい。


 理由はわからない。

 何かに取り残されたような感覚だけが、はっきりとあった。


 そのとき、コインランドリーの扉が開いた。


 洗濯物を抱えた若い女性が、外に出てくる。

 大学生くらいだろうか。

 一人暮らしに慣れきっていないような、落ち着かない仕草。


 彼女は、俺の前で一瞬だけ足を止めた。

 目が合った。

 確かに、合った。


 「……今、見ましたよね」


 俺がそう言うと、

 彼女は一歩後ずさり、警戒するような目を向けた。


 「聞こえてますよね」


 返事はない。

 ただ、俺をじっと見ている。


 「……やっぱり」

 小さく呟いてから、

 彼女は両手を胸の前で合わせた。


 「すみません。

 私、急いでるので」


 そう言って、深く頭を下げる。

 「成仏してください」


 「どういうことですか?」


 思わず声を張り上げた。


 「俺、生きてます。 幽霊じゃないです」


 彼女は困ったように首を振る。


 「皆さん、そう言うんです」


 「皆さんって……」


 「大丈夫です。

 安心して成仏してください」


 再び手を合わせようとする。


 俺は、必死だった。


 「待ってください。

 俺、たぶん未来から来たんです」

 彼女の動きが、一瞬止まる。


 「……は?」


 「未来からです。

 信じられないのはわかってます。

 でも――」


 「すみません」

 きっぱり遮られた。


 「そういう話、

 本当に困るので」


 彼女は腕時計を見た。


 「今日は、

 お昼にワールドカップの決勝を見ないといけないんです」


 本気で急いでいる声だった。


 「だから、

 これ以上は……」

 そう言って、歩き出そうとする。


 「待ってください」


 俺は、思わず叫んでいた。

 彼女は立ち止まらない。


 その背中に、

 俺は言ってしまった。


 「アルゼンチン」


 足が止まる。

 ゆっくりと、振り返る。


 「……えっ?」


 逃げ場を失い、俺は続けた。


 「3―0で」


 一瞬、空気が止まった。


 「……最悪です」

 はっきり言われた。


 だが、すぐに言い直す。


 「……でも、

 まだわからないじゃないですか」


 怒っている。

 それでも、完全に突き放す声ではなかった。


 「試合、

 まだ始まってもいないし」


 そう言いながら、

 彼女は俺を見ている。


 疑う目。

 だが、さっきまでとは違う。


 「……たまたま、

 言っただけかもしれないし」


 自分に言い聞かせるように呟き、

 言葉が途切れた。


 彼女の視線が、

 横断歩道の白線に落ちる。


 「……ここ」


 小さな声だった。


 「前から、

 あんまり好きじゃない場所です」


 「え?」


 「理由はわかりませんけど」

 洗濯物を抱える手に、力が入る。


 「今日は、特に」


 その瞬間、

 彼女の言葉とは別のところで、

 俺の中の何かが静かに重なった。


 ワールドカップ決勝戦の日。

 その夜に、事故が起きた。


 俺は、交差点から目を離せなくなった。


 ――やっぱり。


 今日が、その日だ。


 胸の奥で、かすかな熱が生まれる。

 事故を、防げるかもしれない。

 俺は、静かに言った。


 「今夜、

 ここで、

 結婚間近の恋人が亡くなります」


 彼女は、すぐには顔を上げなかった。


 「……信じてはいません」


 そう前置きしてから、

 小さく息を吐く。


 「でも、

 無視できる話でもないです」


 沈黙が落ちる。


 「見なかったことにしたら、

 後悔する気がします」


 俺は、深く頭を下げた。

 「お願いします」


 声が、震えた。


 「俺には、

 あなたしかいない」


 彼女は、しばらく黙っていたが、

 やがて小さく頷いた。


 「……今夜までです」


 そう言って、顔を上げる。


 「それ以上は、

 責任、持てませんから」


 その言葉を聞いて、

 俺はようやく息を吐いた。


 「……それで十分です」


 一拍置いて、続ける。


 「南野健二です」


 自分の名前を口にするのが、

 少しだけ怖かった。


 彼女は一瞬、きょとんとした顔をしたが、

 すぐに小さくうなずいた。


 「鈴木……千紗子です」


 そう名乗ってから、

 少しだけ間を置く。


 「変な形ですけど」


 そう言って、

 俺をもう一度、しっかりと見た。


 「よろしくお願いします」


 十五年間、止まっていた時間が、

 ようやく、動き出した気がした。


第三章 変えられない未来


 千紗子のアパートは、交差点から歩いて十分ほどの場所にあった。


 古いが、きちんと手入れされている。

 地方から出てきた学生が選びそうな、無難な一室だった。


 部屋に入るなり、千紗子はテレビをつけた。


 ちょうど、試合が終わったところだった。


 スタジアムの歓声。

 画面の下に、結果が表示される。


 アルゼンチン 3対0


 千紗子は、しばらく黙ったまま画面を見ていた。


 それから、ゆっくりと振り返る。


 「……ほんとに」


 一拍置いて、続けた。


 「ほんとに、アルゼンチンが勝ったわね」


 責める口調ではなかった。

 驚きと、戸惑いと、

 そして、少しの諦めが混じっていた。


 俺は、何も言えなかった。


 証明するつもりで言った言葉が、

 こうして現実になってしまうと、

 喜びよりも、重さの方が勝った。


 千紗子はテレビを消し、

 小さく息を吐いた。


 「……やっぱり」


 そう呟いて、

 ソファに腰を下ろす。


 「未来から来た、って話。

 冗談じゃなかったのね」


 俺は、頷いた。


 それ以上、説明する言葉が見つからなかった。


 部屋の時計を見る。


 まだ、昼を少し過ぎたところだ。

 事故が起きる夜まで、

 時間は残っている。


 けれど、何をすればいいのかは、

 まだ見えていなかった。


 「……で」


 千紗子が、静かに口を開く。


 「どうやって、助けるつもり?」


 その問いは、

 俺自身が一番、答えを持っていないものだった。


 「正直、わかりません」


 そう答えるしかなかった。


 「俺は、

 見えないし、触れないし、

 声も、普通の人には届かない」


 「だから、

 私を頼ったんでしょう?」


 「はい」


 千紗子は、少し考えるように天井を見た。


 「……時間の話、

 好きじゃないんですけど」


 そう前置きしてから、続ける。


 「私、

 昔、時間ものの本を読んだことがあって」


 言葉を選ぶように、

 少し間を置く。


 「過去を変えても、

 元の未来は変わらない、って考え方」


 胸の奥が、静かに沈んだ。


 「映画だと、

 過去を変えたら、

 未来も書き換わるでしょ」


 「……はい」


 「でも、それは都合のいい嘘」


 千紗子は、俺を見た。

 逃がさない目だった。


 「新しい過去を作っても、

 あなたが帰る未来は、

 そのまま」


 言葉が、部屋に落ちる。


 「つまり」


 彼女は、はっきりと言った。


 「あなたのいる十五年後では、

 その人は、もう亡くなったまま」


 俺は、黙って頷いた。


 最初から、

 どこかで分かっていた。


 それでも、

 言葉にされると、

 胸の奥が痛んだ。


 「……それでも」


 千紗子が、続ける。


 「それでも、

 いいの?」


 答えは、考えるまでもなかった。


 「はい」


 即答だった。


 「俺の未来が変わらなくても、

 関係ありません」


 千紗子は、少しだけ目を伏せた。


 「彼女が、

 生きられる時間があるなら」


 声が、わずかに震える。


 「それが、

 俺の時間じゃなくても」


 千紗子は、しばらく何も言わなかった。


 やがて立ち上がり、

 カーテンを少しだけ開ける。


 昼の光が、部屋に差し込んだ。


 「……わかりました」


 振り返って、そう言う。


 「じゃあ、

 考えましょう」


 「何を、ですか」


 「どうやって、

 今夜を越えさせるか」


 そこで、千紗子はふと、

 言葉を止めた。


 視線が、窓の外へ向く。


 「……ひとつだけ」


 小さな声だった。


 「さっきから、

 気になることがあって」


 「何ですか」


 「あの交差点から」


 一瞬、言葉を探すような間。


 「ずっと、

 黒い影が離れないんです」


 俺は、息を止めた。


 「人、ですか」


 「わかりません」


 千紗子は、静かに首を振った。


 「人じゃない気もするし、

 でも、何もないとも言い切れない」


 沈黙が落ちる。


 「今日みたいな日は、

 ああいうものが、

 近くにいることが多いんです」

 

 未来は変えられない。

 それでも――



 今夜だけは、

 変えられるかもしれない。


第四章 訪ねてきた人


 昨日の夜から、健二の体調は良くなかった。


 喉が痛い、という短いメッセージが届いたのは、日付が変わる少し前だった。

 無理しないで、と返したきり、返事はなかった。


 朝になっても連絡がない。


 嫌な予感がして、葵はアパートへ向かった。


 ドアを開けると、部屋の中は静かだった。

 カーテンは半分閉じられ、昼前の光が薄く差し込んでいる。


 「健二?」


 呼ぶと、奥の布団から、かすれた返事が返ってきた。


 額に手を当てると、はっきりわかるほど熱がある。


 「だから言ったじゃない。無理しないでって」


 葵はそう言いながら、冷蔵庫を開け、飲み物を探した。

 視線を下げると、床には洗濯物が溜まっている。


 「……また溜めてる」


 洗濯物を手に取り、葵は言った。


 「洗濯機、まだ直ってないの?」


 「うん……昨日から動かなくて」


 健二は布団の中で答えた。


 「業者、呼ぶ元気もなくて」


 「もう」


 呆れたように言いながら、葵はため息をついた。


 「じゃあ、私がやるしかないね」


 それは、いつも通りの会話だった。

 特別なことは、何もない。


 葵は簡単な食事を用意し、部屋を片づけた。

 こうして世話を焼く時間は、嫌いではなかった。


 昼過ぎ、テレビをつけると、ワールドカップの決勝戦が流れていた。

 健二は布団の中から、ぼんやりと画面を見ている。


 試合が終わり、結果が出たとき、葵は「へえ」と小さく声を漏らしただけだった。


 健二は、なぜか黙ったままだった。


 そのとき、インターホンが鳴った。


 葵は顔を上げる。


 心当たりはない。


 もう一度、インターホンが鳴る。


 ドアを開けると、見知らぬ女性が立っていた。


 大学生くらいだろうか。

 肩に力が入り、落ち着かない様子だった。


 「……山口アオイさんですよね」


 フルネームで呼ばれ、葵は眉をひそめた。


 「そうですけど」


 「突然すみません」


 女性は慌てたように頭を下げた。


 「私、鈴木千紗子といいます」


 声が少し上ずっている。


 「大事なお話があって来ました」


 葵の胸に、警戒心がはっきりと芽生えた。


 「どういうご用件ですか」


 千紗子は口を開きかけ、すぐに閉じた。

 言葉を探すように、指先が落ち着かない。


 「……信じてもらえないと思います」


 一度、深く息を吸う。


 「でも……今日の夜」


 そこで、言葉が詰まる。


 「外に、出ないでください」


 葵は言葉を失った。


 「……は?」


 「理由は、うまく説明できなくて」


 千紗子は焦ったように続けた。


 「でも今日は、本当に……

 外に出ない方がいい気がして」


 そのとき、部屋の奥から健二の声がした。


 「誰……?」


 布団の中からの、弱い声。


 葵は振り返り、


 「大丈夫。知らない人」


 とだけ答えた。


 再び、千紗子を見る。


 「名前も知ってて、

 突然来て、

 それで外に出るなって言われても」


 声が、自然と硬くなる。


 「すみません」


 千紗子は、深く頭を下げた。


 「それでも、

 伝えないわけにはいかなかったんです」


 「帰ってください」


 葵は、はっきりと言った。


 千紗子は何か言いかけたが、結局、言葉は出てこなかった。


 「……わかりました」


 一歩、下がる。


 葵はドアを閉めた。


 しばらくして、またインターホンが鳴った。


 葵はドア越しに言った。


 「帰ってください」


 沈黙。


 それでも、ノックの音がした。


 「これ以上続くなら、

 警察を呼びます」


 それきり、音はしなくなった。


 部屋に戻ると、健二がこちらを見ていた。


 「今の、誰だったの」


 「変な人」


 葵はできるだけ軽く言った。


 「夜は外に出るな、って」


 健二は眉をひそめた。


 「……変だな」


 それ以上は言わなかった。


 洗濯物の山が、視界の端に残っている。


 今日は、ただの日曜日だ。


 そう思うことにした。


 けれど――

 フルネームを呼ばれたことと、

 あの女性の、言葉に詰まった表情だけが、

 なぜか、頭から離れなかった。



 アパートを離れ、しばらく無言で歩いた。


 夕方の風が、昼の名残を少しずつ押し流していく。


 「……やっぱり、信じてないですよね」


 千紗子が、足元を見たまま呟いた。


 「無理もないです」


 ケンジは即座に答えた。


 迷いはなかった。


 「俺でも、信じない」


 千紗子は唇を噛む。


 「どう言えばよかったんでしょう」


 「事故に遭う、なんて言えないし」


 「言ったら、遠ざけるだけです」


 短く、断言する。


 夕方の風が、二人の間を抜けていく。


 「……結局」


 千紗子は顔を上げた。


 「現場に行って、

 渡らせないようにするしかないですね」


 「はい」


 即答だった。


 「今夜だけは、

 あの交差点を渡らせたくない」


 それだけは、揺らがなかった。


 そのとき、千紗子の携帯が震えた。


 画面を見る。


 「……おばあちゃん」


 小さい頃から、

 理由もなく電話をしてくる人ではなかった。


 一度だけ、深く息を吸ってから、通話ボタンを押す。


 「もしもし?」


 『千紗子かい』


 それだけで、胸の奥がざわついた。


 「どうしたの?」


 『あんた、今、無理してないかい』


 千紗子は、すぐに答えられなかった。


 「……別に」


 『嘘だね』


 間を置かずに返される。


 『声が、落ち着いてない』


 千紗子は、唇を噛んだ。


 「ちょっと……

 変なことに関わってて」


 『そうだろうと思った』


 電話の向こうで、小さく息を吐く気配がした。


 『最近、あんたの影が薄い』


 千紗子は、足を止める。


 「影……?」


 『気が、引っ張られてる』


 それ以上は説明しない。

 でも、その言い方で十分だった。


 『人のことを守ろうとするときほど、

 自分の足元が見えなくなる』


 千紗子は、ゆっくりと頷いた。


 『いいかい』


 声が、少しだけ強くなる。


 『怖いと感じるなら、

 それは間違ってない』


 『無理だと思ったら、

 立ち止まりなさい』


 「……うん」


 『一人で背負うんじゃないよ』


 『あんたはもう大人だけど、

 それでも、心配なんだ』


 通話が切れた。


 千紗子は、しばらく携帯を握ったまま動けなかった。


 やがて、ゆっくりと顔を上げる。


 交差点のある方角を、まっすぐに見る。


 「……大丈夫です」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。


 「無理してるって、

 わかってますから」


 隣で、ケンジが静かに頷いた。


 言葉は交わさない。


 それで、十分だった。


 夕日が沈み、

 街の輪郭が、少しずつ夜に溶けていく。


 今夜を越えられるかどうかは、

 まだ、わからない。


 それでも――

 二人は、交差点へ向かって歩き出した。


第五章 夜の交差点


 夜の空気は、昼とは別の顔をしていた。


 街灯の光が、交差点の白線を浮かび上がらせている。

 昼間よりも音が少なく、遠くの車のエンジン音だけが、途切れ途切れに聞こえてくる。


 千紗子は、横断歩道の手前に立っていた。


 そのすぐ隣に、未来のケンジがいる。


 ここを渡らせない。

 それだけを考えていた。


 やがて、交差点の向こう側に人影が現れる。


 街灯の下に浮かび上がったその姿を、ケンジは一瞬で見分けた。


 ――アオイだ。


 洗濯物を入れた袋を腕に抱え、

 コインランドリーへ向かって歩いてくる。


 いつもと同じ歩き方。

 何も知らない顔。


 「……来ました」


 千紗子が、かすれた声で言う。


 ケンジは、すでに前を向いていた。


 一歩、踏み出そうとした瞬間だった。


 空気が、重くなる。


 街灯の明かりが、わずかに揺らぎ、

 千紗子の視界が、急に暗くなった。


 黒い影が、足元から這い上がってくる。


 声を出そうとする。


 ――出ない。


 喉が締めつけられ、

 身体が、まるで地面に縫い止められたように動かない。


 「……っ」


 息だけが漏れた。


 ケンジは、それを見ていた。


 はっきりと。


 黒い影が、千紗子の身体を覆っている。


 「離れろ!」


 叫んだが、影は動かない。


 ケンジは、迷わず影の中に踏み込んだ。


 触れられないはずの存在に、必死で手を伸ばす。


 引き剝がそうとする。

 何度も。

 何度でも。


 「行かせない!」


 声は、誰にも届かない。

 それでも、叫び続けた。


 その間にも、アオイは近づいてくる。


 横断歩道の手前まで、あと数歩。


 道路の向こうから、エンジン音が聞こえた。


 車だ。


 街灯に照らされ、白い車体が浮かび上がる。


 高齢者ドライバーの車。


 速度は、落ちていない。


 ――間に合わない。


 ケンジの胸に、冷たいものが走る。


 声も、身体も、届かない。


 もう、だめだ。


 そう思った、その瞬間――


 「危ない!」


 夜の空気を切り裂く声が響いた。


 「渡るな!」


 アオイが、はっと足を止める。


 振り返った先にいたのは、

 風邪で寝込んでいるはずのケンジだった。


 息を切らし、顔色は悪い。

 それでも、必死に走ってきた姿。


 「健二……?」


 驚きで、身体が固まる。


 その一瞬の間に、車が交差点を通過する。


 白線のすぐ前を、何事もなかったかのように。


 ブレーキ音も、クラクションもない。


 ただ、走り去っていった。


 静けさが、戻る。


 アオイは、しばらく白線を見つめていた。


 「……今の」


 小さく呟く。


 「渡ってたら、危なかったよね」


 ケンジは、膝に手をつきながら、頷いた。


 「うん。

 昼間の事が、ずっと気になってて」


 息を整えながら、続ける。


 「どうしても、

 来なきゃいけない気がした」


 アオイは、洗濯物の袋を抱え直す。


 「……ありがとう」


 それ以上、言葉は続かなかった。


 二人は顔を見合わせ、

 そのまま歩き出す。


 交差点を避けるように、

 少し遠回りして、コインランドリーへ向かった。


 その背中を、

 千紗子と、未来のケンジは見送っていた。


 アオイが交差点から離れた瞬間、

 夜の空気が、ふっと軽くなる。


 千紗子は、思わず空を見上げた。


 黒い影が、そこにあったはずなのに。


 今はもう、何もない。


 雲の切れ間から、月が覗いている。


 影は、天へ溶けるように消えていった。


 「……終わった」


 千紗子が、力の抜けた声で言った。


 未来のケンジも、しばらく黙って立っていた。


 やがて、ゆっくりと千紗子を見る。


 「……ありがとう」


 はっきりと、そう言った。


 「君がいなければ、

 俺は、何もできなかった」


 千紗子は、首を振る。


 「いいえ」


 一拍置いて、続ける。


 「あなたの彼女を救いたい気持ちが、

 私を動かしたんです」


 そう言って、少しだけ笑った。


 遠くで、コインランドリーの扉が開く音がする。


 洗濯機の低い振動が、夜に溶けていく。


 二人の未来は、交わらない。


 それでも――

 今夜、この場所で、

 確かに同じ時間を生きた。


 交差点は、もう静かだった。


 あの夜、起きるはずだった事故は、

 最初から存在しなかったかのように。


第六章 その日、交差点で


 気づくと、俺は交差点の歩道に立っていた。


 車の音。

 人の話し声。

 信号機の電子音。


 どれも、聞き慣れた日常の音だった。


 夜ではない。

 空は明るく、昼の光がアスファルトに反射している。


 時計を見る。


 ――十五年後の、同じ日。


 時間は、あの朝に戻っていた。


 身体に異変はない。

 痛みも、重さもない。


 ただ、胸の奥に、妙な清々しさが残っていた。


 夢だったのかもしれない。


 そう思おうとすれば、思えた。

 けれど、すべてを夢だと片づけるには、感覚がはっきりしすぎている。


 俺は、交差点を見渡した。


 向こう側にある建物を見て、足が止まる。


 パン屋だ。


 ガラス越しに、焼きたてのパンが並んでいるのが見える。


 ――十五年前、そこにあったのは、コインランドリーだった。


 胸の奥が、静かに揺れた。


 交差点の手前、電柱の下に、花束が置かれている。


 白と淡い紫の花。


 今年も、置かれていた。


 誰が置いたのかは、わからない。

 それでも、不思議と理由は聞かなくていい気がした。


 俺は、交差点を渡り、パン屋の扉を開けた。


 焼きたての匂いが、ふっと鼻をくすぐる。

 思ったよりも落ち着いた店内だった。


 棚に並んだパンを、何となく眺める。

 どれを選ぶか、最初から決めていたわけではない。


 あの交差点に立っていた時間が、

 まだ身体のどこかに残っている。


 適当に二つ、トレーに乗せ、レジへ向かった。


 「……こちらでよろしいですか?」


 その声を聞いた瞬間、

 胸の奥が、わずかに揺れた。


 聞き覚えがある。


 顔を上げると、レジの向こうに女性が立っていた。


 落ち着いた表情。

 柔らかい声。


 胸元のネームプレートに、視線が落ちる。


 ――鈴木 千紗子

 店長


 一瞬、言葉を失った。


 「……どうかしました?」


 千紗子は、少しだけ首を傾げる。


 その表情に、見覚えはない。

 少なくとも、この時間軸で、俺は彼女の知り合いではない。


 「いえ」


 そう答えながら、

 自分の声が、少し上ずっているのがわかった。


 会計を進めながら、

 千紗子は何度か、こちらを見ていた。


 探るような視線ではない。


 ――確かめるような。


 「変なこと、言っていいですか」


 ふと、千紗子が言った。


 「はい」


 「前から、知ってる気がするんです」


 レシートを渡しながら、続ける。


 「初めてお会いしたはずなのに」


 俺は、一瞬だけ迷ってから答えた。


 「……そうかもしれません」


 千紗子は、少し驚いた顔をした。


 「否定しないんですね」


 「否定できないことも、あります」


 自分でも、曖昧な言い方だと思った。


 それでも、千紗子は小さく笑った。


 「私、霊感があるんです」


 まるで、世間話の続きをするように。


 「だからかもしれません」


 俺は、頷いた。


 「知ってます」


 千紗子は、一瞬、言葉を失った。


 「……やっぱり」


 そう呟いてから、俺を見る。


 「どこかで、会いましたよね」


 「会いました」


 正直に答えた。


 「でも、それは

 あなたが覚えていない時間です」


 千紗子は、それ以上、深くは聞かなかった。


 代わりに、こう言った。


 「不思議ですね」


 「でも、嫌な感じはしません」


 袋に入れたパンを差し出しながら、

 少しだけ声を落とす。


 「また、来てください」


 それは、店長としての言葉だったかもしれない。


 それでも――

 俺には、それ以上の意味を持って聞こえた。


 「はい」


 そう答えて、店を出る。


 扉の前で、一度だけ振り返ると、

 千紗子は、まだこちらを見ていた。


 理由のわからない懐かしさを含んだ目で。


 交差点を歩きながら、俺は思う。


 十五年前、

 ここで失ったものは、確かに戻らない。


 それでも――

 あの夜、彼女は生きた。


 別の時間で、

 別の人生を。


 それでいい。


 風が、穏やかに吹き抜ける。


 胸の奥にあった重りが、

 少しだけ軽くなっているのを感じた。


 交差点は、今日も変わらず、そこにあった。


 けれど、もう――

 俺の時間は、止まっていなかった。


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