8其の町娘は元聖女
三人の目が、カリーナの指先へと向かった直後。
視線の先に、黒い影が躍り出た。しなやかな体が、草の海を跳躍する。
小さく縮こまった体躯が、解き放たれたように空を奔った。その先にいたジュードの牛の首元に嚙みついたのだった。
突然の襲撃を受けた牛は、何が起こったのかわからないまま、地面に引き倒され、四つの足をばたつかせた。蹄が土をはねる。やがて、その動きが止まった。
「嘘──! 嘘! きゃぁぁぁ!」
動物の命が刈り取られるその瞬間を目の当たりにして、カリーナは悲鳴を上げてニナに縋りついた。
「馬鹿! カリーナ!」
カリーナの悲鳴に引き付けられて、黄金の眼がニナ達の方に向けられた。
「嘘……」
(嘘。嘘、嘘──!)
ニナは、そう叫びだしたい気分だった。こんなの、嘘に決まっている。
草の合間に、ぽつぽつと金色の眼が光っていた。隠れきれない大きな体が見えている。その数、約三十。
牛を襲った山狼が頭をもたげた。その体の周りに、黒い霧が渦をまいている。
「そんな、山狼の群れはせいぜい十なのに……」
ジュードは愕然と呟く。山狼は群れを作るが、それは家族単位で十程度だ。明らかに異常な数だった。
「逃げるぞ! 急げ!」
ジュードはニナとカリーナを促す。
ニナはカリーナを助け起こし、抱えるようにして走り出した。
山狼の対処方は、存在に気づかれないうちに静かに山狼の視界から消えることだ。だが、カリーナが悲鳴を上げてしまった以上、一刻も早くこの場を去るしか方法はなかった。
この霧が──霧をまとった獣が、本能を狂わせ、人に恐怖を与える。付近の植物の生命力さえも奪う。畜産と農業に打撃を与え、人を疲弊させる。
それを止める力が、ニナにはある。黒い霧を消し、獣を正気に戻すことができる。
できるのだけれど──!
「ニナ! カリーナ! 早く!」
「怖いわ……どうしよう、ニナ」
先を行くジュードが、焦りで歪んだ顔をしていた。ニナを本気で心配している顔だった。カリーナの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。怖いのだ。
その顔を見ると、もう駄目だった。
その気持ちが、躊躇いを押しのける。
この街には、ニナがやっと手に入れたものが沢山ある。
笑いあう友達、優しい隣人、平穏で平凡な生活。それから、手に入るかもしれなかった穏やかな未来。
ニナが、今動けば、この街にいられなくなる。
かといって、このままにしておけなかった。
不作が続けばどうなる? 家畜が殺されれば? 人が疲弊していけば町はだんだん壊れていく。
何より、もし、このままジュードとカリーナが襲われれば? 町に雪崩れ込んできたら?
どちみち、ニナが愛したものは失われるのだ。
なら、せめて──
(せめて、私から手放そう)
ニナが、自分自身で聖女の力を使うと決めたのは、これが初めてだった。
(この先も、好きなままでいられるように。この町が、人が、好きな気持ちのまま)
「大丈夫、カリーナ、ジュード」
ニナは自分の腕を掴むカリーナの手に、そっと自分の手を重ねた。
とても優しい人だ。会って僅かな時間なのに、ニナと友情を育んでくれた。
「ニナ?」
「大丈夫、私が守るから」
ニナは、カリーナの手からすり抜けると、一目散に黒い霧を纏う獣の方へ駆け出して行った。
「駄目! ニナ! 戻って!」
引き留めるカリーナの声がしても、ニナは足を止めなかった。山狼が近くなる。黒い霧を消せば、おそらく正気に戻るだろう。
正気に戻ったところで、山狼本来の本能が、近くにいるニナを襲わないという保証はないのだけれど。
少なくとも、聖魔力の適正が高いニナは、死ぬことは無いはずだ。耐えることは得意だ。
山狼の近くまで走り寄って、ニナは膝をついた。手を合わせて頭を垂れる。
「天にまします……」
聖モントローズ王国にいた時、聖典の祈りを詠唱していた。
集中力を高めるために、そうするように言われたのだ。ニナが能力を行使するのに、必ずしも必要ではなかったが、儀式のようにずっとそうしてきた。
(違う……)
それを、ニナは放棄した。
(ここは、聖モントローズ王国じゃない)
ニナは、手を解いた。こんなものがなくても、ニナは力の使い方を知っている。
ニナの意図に従って、体の中を力が迸っていく。
「ニナ!」
悲鳴じみた、カリーナの声が聞こえる。
(まだ逃げてないの!?)
ニナの集中力が途切れる。見れば、カリーナがこちらに駆け寄ってくるところだった。長い髪が乱れている。
構わなくていいのに。
ニナはますますこの町のことが、人のことが愛おしく感じられた。
思わず微笑んだニナの目に、カリーナの必死の形相が飛び込んでくる。
「ニナ! 後ろ!」
「え?」
振り向きざま、ニナの顔の前に影が差す。
山狼が、まさしく獲物めがけて飛び掛かるところだった。
(駄目……)
思考が止まる。集中を乱されて、体の中を駆け巡っていた力が、霧散していくのが分かった。
一度集中と術を解けば、再構築するのに時間がかかる。続けて他の山狼に襲われるかもしれない。そんな中で術を発動できるだろうか。
(襲われる……)
その時だった。
ニナに襲い掛かろうとしていた山狼の胴に、蔦が絡みつく。山狼は、そのまま地面にたたきつけられた。
地面に縫い留められた山狼は、首を振り、爪を立てて藻搔いている。一見、細く頼りなさそうな蔦は、草属性魔法で生み出されたものだ。そう容易く抜け出せるものではない。
体から力が抜けて、ニナはその場に尻もちをついてしまった。
「大丈夫ですか?」
男の声が降りかかる。声に従うように足音がいくつも近づいてくる。ニナは声の主を振り仰いだ。
若い男だった。ニナよりもいくつか年上。エドウィンと同じぐらいだろうか。腰に刀を下げ、簡易的な防具をつけていた。身を守るものが少ないのは、彼が魔法適正があるからなのだろう。剣も細身のものだった。彼の後ろに、十人ほどの鎧をつけた騎士が従っていた。
「他の山狼を片付けろ!」
男の指示に従って、彼らは散り散りに剣を掲げながら山狼の方へ向かっていく。
「避難してましょう。この霧はよくない」
彼は腰をかがめてニナに手を差し出す。 若草色の瞳。柔らかなまなざしを、今は心配そうに細めていた。
「いいえ」
ニナは、差し出された手を押しのけた。今、この獣を止められるのは、ニナしかいないのだ。
ニナは体を起こし、その場に膝をつく。今更、祈りはしなかった。
術の発動に必要なのは、見たこともない神様や聖人への祈りではないのだ。
(どうか、この街が無事でありますように)
エドウィンに言われるがまま自分の力を使っていた時、ニナは自分のことばかり考えていた。いつか終わりますように。この苦痛がなくなりますように。幸せになれますように。聖モントローズにも困っている人はいたが、彼らを助けるのはニナの役目ではなかった。ニナを使ってエドウィンが助けていたのだ。ニナは聖モントローズの中では、力を行使する道具でしかなかった。
ニナは、初めて、自分から誰かのために願った。
(どうか、皆が平和にすごせますように)
体を満たした熱が、空へと向かう。抵抗を感じるが、ニナはそれをものともしなかった。
(──散れ)
心の中で命じる。ニナの魔力に絡めとられたものを、四方に散らせる様を想像する。
滞っていた魔力が、散り、流れていくのを感じる。
ニナは目を開けた。
そこには、平和で鮮やかな緑が広がっている。
山狼たちは、まるで人里に下りてきたことを忘れたかのように、ニナ達に背を向けていた。
「あなたは……?」
戸惑ったような男の声。ニナは立ち上がった。問いかけには、答えなかった。
ニナは気づいている。彼の胸に、テオパルド王国の紋章が掲げられていることを。
この草木薫る景色をずっと見ていられたらと思った。それが、叶わなくなった




