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「平和になったら用済み」と追放された聖女は、隣国騎士と幸せを見つける。~なお、あの国は平和になっていなかったようです~  作者: 莉沙子
2章

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8其の町娘は元聖女

 三人の目が、カリーナの指先へと向かった直後。

 視線の先に、黒い影が躍り出た。しなやかな体が、草の海を跳躍する。

 小さく縮こまった体躯が、解き放たれたように空を奔った。その先にいたジュードの牛の首元に嚙みついたのだった。

 突然の襲撃を受けた牛は、何が起こったのかわからないまま、地面に引き倒され、四つの足をばたつかせた。蹄が土をはねる。やがて、その動きが止まった。


「嘘──! 嘘! きゃぁぁぁ!」


 動物の命が刈り取られるその瞬間を目の当たりにして、カリーナは悲鳴を上げてニナに縋りついた。


「馬鹿! カリーナ!」


 カリーナの悲鳴に引き付けられて、黄金の眼がニナ達の方に向けられた。   


「嘘……」

(嘘。嘘、嘘──!)


 ニナは、そう叫びだしたい気分だった。こんなの、嘘に決まっている。

 草の合間に、ぽつぽつと金色の眼が光っていた。隠れきれない大きな体が見えている。その数、約三十。

 牛を襲った山狼が頭をもたげた。その体の周りに、黒い霧が渦をまいている。


「そんな、山狼の群れはせいぜい十なのに……」


 ジュードは愕然と呟く。山狼は群れを作るが、それは家族単位で十程度だ。明らかに異常な数だった。


「逃げるぞ! 急げ!」


 ジュードはニナとカリーナを促す。

 ニナはカリーナを助け起こし、抱えるようにして走り出した。

 山狼の対処方は、存在に気づかれないうちに静かに山狼の視界から消えることだ。だが、カリーナが悲鳴を上げてしまった以上、一刻も早くこの場を去るしか方法はなかった。  

 この霧が──霧をまとった獣が、本能を狂わせ、人に恐怖を与える。付近の植物の生命力さえも奪う。畜産と農業に打撃を与え、人を疲弊させる。

 それを止める力が、ニナにはある。黒い霧を消し、獣を正気に戻すことができる。

 できるのだけれど──!


「ニナ! カリーナ! 早く!」

「怖いわ……どうしよう、ニナ」 


 先を行くジュードが、焦りで歪んだ顔をしていた。ニナを本気で心配している顔だった。カリーナの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。怖いのだ。

 その顔を見ると、もう駄目だった。

 その気持ちが、躊躇いを押しのける。

 この街には、ニナがやっと手に入れたものが沢山ある。

 笑いあう友達、優しい隣人、平穏で平凡な生活。それから、手に入るかもしれなかった穏やかな未来。

 ニナが、今動けば、この街にいられなくなる。

 かといって、このままにしておけなかった。

 不作が続けばどうなる? 家畜が殺されれば? 人が疲弊していけば町はだんだん壊れていく。

 何より、もし、このままジュードとカリーナが襲われれば? 町に雪崩れ込んできたら?

 どちみち、ニナが愛したものは失われるのだ。


 なら、せめて──


(せめて、私から手放そう)


 ニナが、自分自身で聖女の力を使うと決めたのは、これが初めてだった。


(この先も、好きなままでいられるように。この町が、人が、好きな気持ちのまま) 


「大丈夫、カリーナ、ジュード」


 ニナは自分の腕を掴むカリーナの手に、そっと自分の手を重ねた。

 とても優しい人だ。会って僅かな時間なのに、ニナと友情を育んでくれた。


「ニナ?」

「大丈夫、私が守るから」


 ニナは、カリーナの手からすり抜けると、一目散に黒い霧を纏う獣の方へ駆け出して行った。


「駄目! ニナ! 戻って!」


 引き留めるカリーナの声がしても、ニナは足を止めなかった。山狼が近くなる。黒い霧を消せば、おそらく正気に戻るだろう。

 正気に戻ったところで、山狼本来の本能が、近くにいるニナを襲わないという保証はないのだけれど。

 少なくとも、聖魔力の適正が高いニナは、死ぬことは無いはずだ。耐えることは得意だ。

 山狼の近くまで走り寄って、ニナは膝をついた。手を合わせて頭を垂れる。


「天にまします……」


 聖モントローズ王国にいた時、聖典の祈りを詠唱していた。

 集中力を高めるために、そうするように言われたのだ。ニナが能力を行使するのに、必ずしも必要ではなかったが、儀式のようにずっとそうしてきた。


(違う……)


 それを、ニナは放棄した。


(ここは、聖モントローズ王国じゃない)


 ニナは、手を解いた。こんなものがなくても、ニナは力の使い方を知っている。

 ニナの意図に従って、体の中を力が迸っていく。

 

「ニナ!」


 悲鳴じみた、カリーナの声が聞こえる。


(まだ逃げてないの!?)


 ニナの集中力が途切れる。見れば、カリーナがこちらに駆け寄ってくるところだった。長い髪が乱れている。

 構わなくていいのに。

 ニナはますますこの町のことが、人のことが愛おしく感じられた。

 思わず微笑んだニナの目に、カリーナの必死の形相が飛び込んでくる。


「ニナ! 後ろ!」

「え?」


 振り向きざま、ニナの顔の前に影が差す。

 山狼が、まさしく獲物めがけて飛び掛かるところだった。


(駄目……)


 思考が止まる。集中を乱されて、体の中を駆け巡っていた力が、霧散していくのが分かった。

 一度集中と術を解けば、再構築するのに時間がかかる。続けて他の山狼に襲われるかもしれない。そんな中で術を発動できるだろうか。


(襲われる……)


 その時だった。

 ニナに襲い掛かろうとしていた山狼の胴に、蔦が絡みつく。山狼は、そのまま地面にたたきつけられた。

 地面に縫い留められた山狼は、首を振り、爪を立てて藻搔いている。一見、細く頼りなさそうな蔦は、草属性魔法で生み出されたものだ。そう容易く抜け出せるものではない。

 体から力が抜けて、ニナはその場に尻もちをついてしまった。


「大丈夫ですか?」


 男の声が降りかかる。声に従うように足音がいくつも近づいてくる。ニナは声の主を振り仰いだ。

 若い男だった。ニナよりもいくつか年上。エドウィンと同じぐらいだろうか。腰に刀を下げ、簡易的な防具をつけていた。身を守るものが少ないのは、彼が魔法適正があるからなのだろう。剣も細身のものだった。彼の後ろに、十人ほどの鎧をつけた騎士が従っていた。


「他の山狼を片付けろ!」 


 男の指示に従って、彼らは散り散りに剣を掲げながら山狼の方へ向かっていく。


「避難してましょう。この霧はよくない」


 彼は腰をかがめてニナに手を差し出す。 若草色の瞳。柔らかなまなざしを、今は心配そうに細めていた。


「いいえ」


 ニナは、差し出された手を押しのけた。今、この獣を止められるのは、ニナしかいないのだ。

 ニナは体を起こし、その場に膝をつく。今更、祈りはしなかった。

 術の発動に必要なのは、見たこともない神様や聖人への祈りではないのだ。


(どうか、この街が無事でありますように)


 エドウィンに言われるがまま自分の力を使っていた時、ニナは自分のことばかり考えていた。いつか終わりますように。この苦痛がなくなりますように。幸せになれますように。聖モントローズにも困っている人はいたが、彼らを助けるのはニナの役目ではなかった。ニナを使ってエドウィンが助けていたのだ。ニナは聖モントローズの中では、力を行使する道具でしかなかった。

 ニナは、初めて、自分から誰かのために願った。


(どうか、皆が平和にすごせますように)


 体を満たした熱が、空へと向かう。抵抗を感じるが、ニナはそれをものともしなかった。


(──散れ)


 心の中で命じる。ニナの魔力に絡めとられたものを、四方に散らせる様を想像する。

 滞っていた魔力が、散り、流れていくのを感じる。 

 ニナは目を開けた。

 そこには、平和で鮮やかな緑が広がっている。

 山狼たちは、まるで人里に下りてきたことを忘れたかのように、ニナ達に背を向けていた。


「あなたは……?」


 戸惑ったような男の声。ニナは立ち上がった。問いかけには、答えなかった。

 ニナは気づいている。彼の胸に、テオパルド王国の紋章が掲げられていることを。

 この草木薫る景色をずっと見ていられたらと思った。それが、叶わなくなった

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