4聖女の逃亡
「誰か! 誰か! 院長先生! ニーナが!」
夜も明けきらぬ時から、修道院は活動を始める。修道院が起き出したのとほぼ同時に、ニナは階段を五階から三階へ駆け下りた。
ニナが選んだ舞台は、談話室のバルコニーだった。川にかぶさるように迫り出すそこは、以前修道女の転落事故があったという理由で、鍵が掛けられ出入りができない。窓越しに、鬱々と広がる深い森と眺めるだけの場所だった。
もちろん、ニナは鍵を持っていないしどこにあるのかもしれなかった。
(別に、絶対鍵が必要なわけじゃないし!)
これを最後と思うと、いくらでも大胆になれた。ニナは談話室の椅子を持ち上げ、窓に叩きつけたのだった。
窓硝子がはじける音、椅子が窓を突き破ってバルコニーに転がる音。早朝の修道院に響いた平和を脅かすそれらに、修道女達が駆け付けた時には、ニナはもうバルコニーの欄干に手をかけていたのだった。
修道女達が駆け付けるまでの時間、ニナはすがすがしい気持ちで朝の空気を浴びていた。
清廉な朝の空気に、水と木のにおいが溶けている。わずかに太陽が顔を出しているのが見えた。バルコニーに向かって走ると、まるで薄紫の空を泳いでいるような気分になった。間違いなく、この五年で一番の気分だった。
見下ろせば、幅の広い川が、緩やかに流れている。見た目は穏やかな川でも、中に踏み込めば人では抗えない力で押し流されるのだろう。
欄干に手をかけ、川を見下ろしていると修道女達の悲鳴が背中にかかる。
「何を──しているのです! 修道女ニーナ!」
振り返れば、院長が息も絶え絶えな様子で修道女達をかき分けてくるのが見えた。
一階に住む高齢の院長が、屋上までやってくるのはかなりの重労働だったに違いない。膝が笑っている。
いつも、顎を上げ、居丈高に、聖女ニーナと呼びかける様子と比べると、滑稽に見えるほどで、ニナは笑ってしまった。
「院長先生! そして皆さん! 私は今日、お別れを伝えたいと思います」
ニナはむしり取るようにヴェールを外した。遮るもののない視界。朝もやが太陽の光を浴びて輝いていることもがつぶさに見て取れた。こんな美しいものを、美しいと感じる時間もなかったのだ。
「何ですって?」
院長の素っ頓狂な声。初めて聞く声だった。
「私は、異世界から呼ばれ、聖女としてこの国に、人に尽くしてきました!」
それなのに、ニナは自分の働きで喜んだ人の顔を、ほとんど見たことがなかった。賞賛はいつもエドウィンが受け取っていたから。彼はニナを後ろに引っ込ませて、自分の道具として使っていただけだ。
民衆も、灰色の修道着を着て、ヴェールで顔を隠したぱっと出の得体のしれない存在よりも、見目麗しく、長く自分たちが戴いてきた王子の方に親しみを感じるのは仕方がない。
仕方がなくても、ニナがどれほど傷ついたことか。
「元の世界に戻れないのなら、せめて私は幸せになりたいのです!」
「人々のために祈り、生きることが不幸だというのですか!」
「いいえ──。けれど、私は、まだ何もかもを知らないんです!」
ニナは叫んだ。声が響いて空へ吸い込まれていくように感じた。それはとても、気持ちのいいことだった。
「この世界に何があるのか、どんなものが美しくて、美味しくて楽しくて、そんなことも何も──!」
「修道女が──」
院長はニナの言葉を遮った。
「修道女が世俗の楽しみに惑わされるなど、あってはなりません」
「でも、私は望んでここに来たわけじゃない!」
ニナはだんだん自分が興奮してきているのを感じた。
とうとう言葉にした! 言ってやった! そう思うと高揚感がとめどなく登ってくる。
本当は、ずっと前に言いたかった。その本当の相手は院長ではないのが、少し悔しくもあった。
この人は、ニナに大切なものを奪われたのだから。
「あなたが、私を憎く思っているのは存じ上げています」
ニナは言って、首飾りを外した。傷つかないよう、汚れないようにヴェールで包んでそっと、丁寧に足元に置く。
院長がニナをどう扱ったにしろ、彼女が大切にしているものを粗雑に扱いたくなかった。
「これは、お返しします。私には過ぎたものでした。院長が、真面目で懸命な方であることは私もよくわかっているつもりです。だから、お返しします!」
それから、とニナは一つ呼吸を整えて、軽く頭を下げた。
「ごめんなさい。あなたの大切なものを、奪ってしまった」
ニナは、頭を上げ院長の顔を見つめた。茫然とした顔をしている。
「それと、私は、ニーナという名前じゃありません!」
ニナは続けて言う。
言葉を放つにつれて、自分がどんどん自分自身に戻っていくような気がするから不思議だった。
「私は、碓井仁奈! 幸せになりたいんです! 誰かの幸せを祈る前に、私は自分の幸せを知ってみたい!」
私はもっと活発だったはず。学校の発表が苦にならなくて、人と喋るのも好きで、口喧嘩だって決して弱いわけじゃなかった。
エドウィンに、ホーロック伯爵に言葉を封じられてきたのだ。
ニナは、欄干に手をかけ、ぐっと力を籠める。体を持ち上げると、修道女から悲鳴が上がった。
普通、この高さから川に落ちれば、助からない可能性もある。
(大丈夫──!)
怖いけれど、ニナは自分が無事でいられる確証があった。
ニナは、聖女だ。人とかけ離れた力がその身に宿っている。
「さようなら!」
ニナは大声でそう叫び、ふわりと塀の向こうへ体を投じた。
ごうごうと風を切る音が耳元で聞こえる。それにまじって修道女達の悲鳴も。
幸せに──
ニナが聞いたのは、それだけではなかった。
幸せになってね。
母の声が、確かに聞こえたような気がした。
──魔力は、人の体に宿りて巡り、大地を奔りて海を満たす。──
ニナがこの世界は、魔力について学んだ際、初めに教えられた言葉だった。
魔力は生きとし生けるもの、自然の全てに魔力が宿っており、人の体を、海を陸を、巡っている。
魔力は、火、水、風、土、草、聖の六属性に分類され、最も貴重とされ、属性を持つものが少ないとされるのが聖魔法だ。
その特色に、人の体に宿る魔力に働きかけ回復力の強化や一時的に身体強化を行うことができるのというものがあった。
ニナは、聖モントローズ王国の誰よりも多くの魔力に強く、そして広く働きかけることができ、自身の体もそれに耐えうるものだった。
(どうか、私を守ってくれますように!)
落下しながら、ニナは手を組み合わせた。祈る仕草でもって、聖魔法を発動させるように訓練してきた。
体の中をめぐる魔力が、勢いを増していくのがわかる。それは体の中心から生まれ、腹に、手足に、爪の先にまで満ちていく。
波打つ水面に叩きつけられ、水流にもまれ、浅瀬の岩に肌をこすられ、痛みは痛みとしてある。ニナはひたすら集中力を絶やさず、魔力を体に巡らせて耐え続けた。
耐えることは、得意だった。
そして、ニナは、川の流れに身を任せて川を下り、隣国テオバルトに流れ着いたのだった。
(嘘みたい……)
ニナが浅瀬を歩き、川の水から体を引き上げた時、すっかりと太陽は登り切り、朝の日常は始まっていた。
濡れた修道着の裾を絞りながら顔を上げれば、煮炊きをする匂いが漂ってきていた。木々の向こうから煙突が上げる煙が見えた。人々の生活音もまた、漏れ聞こえてきている。
幸運なことに、ニナが流れ着いたのは町のすぐ傍のようだった。
(本当に、来ちゃった……)
五年もの間、ニナを閉じ込めた聖モントローズ王国から、隣国テオバルトへ。
ニナはゆっくりと足に力を入れて立ち上がる。今更足が震えてきた。中腰になったところで足から力が抜けた。ニナはぺたんと座り込むと、そのまま体を投げ出した。
石の凹凸が頭や背中にあたって痛い。ニナは寝床の悪さも濡れた服も、痛みや疲れを訴える体も不快に感じなかった。
「本当に、終わったんだ……」
開放感で一杯。厳しい修道院の生活も、エドウィンに虐げられる日々も、聖女としての生活も終わったのだ。
同時に、始まった。
ニナはこれから自分自身を生きていく。誰かに何を強制されることもない。
そう思うと、快哉を叫びたい気分にすらなかった。
ニナは大きく息を吸い込んだ。故郷流にするなら、両手をつきあげてやったーと叫ぶべきだろう。
「き、来たぁ! 十年ぶりに来たぁ!」
唐突に、そんな悲鳴混じりの大声が耳を打つ。ニナは体をびくつかせた。
「死体だ! 修道女さんの死体だ! 市長に連絡!」
ニナは、慌てて体を起こした。ずぶぬれの恰好をした女が一人で川辺に横たわっていれば、死体だと思われても不思議ではない。
そこには林を背に街の方からやってきたらしい男が釣竿を下げて立っていた。ニナと目が合うと、青ざめていた顔を赤く染めた。ふくよかな頬に、隠しきれない高揚が見て取れた。
「こりゃすごい!」
男は、ニナを指さしながら大笑いした。
「生きてる修道女さんは、十五年振りか!」




