3聖女の決意
聖モントローズ王国は、大陸の中心地に位置し、四方を他国に囲まれた内陸国だった。
国土の南北を川に、東西を山脈に隔てられている。国の敷地はどの国よりも小さく、目立った産業もないため国力は乏しい。それでも他国から侵略されることなく独立を保っていられるのは、国土を囲む自然が城壁となっていることが理由の一つだった。
ランデルの修道院は、聖モントローズ王国最北端の修道院だった。傍らに川が流れ、さらに北に向かっている。川向こうは暗く深い森で、隣国であるテオバルトの領地になる。そのまま川を北に下っていけば、テオパルド王国を縦断して海へ繋がっていくのだそうだ。
王都を出立し、馬車に揺られること四日。ニナはランデル修道院にやってきた。
門を潜れば、庭というにはあまりに貧相な場所が開けていた。四角い場所を広葉樹がぐるりと囲んでいて、土の色がむき出しの地面に葉を散らせている。茶斑な様子が汚らしく見えた。その先に煤けたような色の建物がそびえていた。ローズ教の象徴である薔薇の彫り絵が掲げられた尖塔を正面に、中庭を囲む回廊、一番奥にさらに円柱形の棟があった。
王都からニナを送り届けた馬車と兵は、ニナを門の中に送り込むと即座に去っていく。建物の前に、黒の修道着を着てヴェールで顔を隠した修道女が佇んでいた。終生の誓いを終えた修道女だ。
ニナは教会の方へ足を向ける以外他なく、修道女の前に立って礼をした。
散々繰り返し、体に覚えこませた貴族の礼だった。
「あなたはもう貴族と関わりは無いのです。貴族の礼はおやめなさい」
ぴしゃりといい放たれて、ニナはぴしりと体を起こした。
「聖女ニーナ……いいえ、修道女ニーナ」
顔に刻まれた皺の数と深さから、彼女がニナの人生よりも長い時間、この教会で過ごしてきたのだということが見て取れた。
「あなたはこの場では一修道女です。たとえ、【白薔薇の冠】を与えられたとしても、この修道院の長たる私の下で、自らを律し、人々のために祈り、尽くすのです」
「あの、初めまして、私は……」
「たとえ──」
ニナは、焦りながら口をひらいた。ともかく何か言わなければと思ったのだ。好きでこの修道院に来たわけではないが、初対面の人間が目の前にいて、何も言わないはあまりにも礼儀に悖る。
けれど、ニナの言葉を院長が遮る。冷たい氷のような声だった。
「たとえ、私に代わって【白薔薇の冠】を与えられたのだとしても、です」
ニナは目の前が真っ暗になった。
【白薔薇の冠】は、修道女に与えられる最高の名誉。ただ、その首飾りは十個しか現存していない。
不適切な行為、あるいは修道女の死亡で主を失った時に次に与えられる、修道女が選ばれる。
ニナに与えられたということは誰かがその栄誉を失ったということだ。
誰が失ったのか。そして、聖女に与えるためだけに剥奪されたのだと、ニナはこの時初めて知ったのだった。
「聖女、いいえ、修道女ニーナ、まず庭の掃除をしていただきます」
「え?」
院長が、ずいとニナの前に箒を突き出した。
「落ち葉を集めて捨てておくように」
ニナは改めてぐるりと庭を見渡した。さぁと風が吹く。梢が揺れ、葉がこすりあわされ、落ち葉がまた地面を汚した。
「全部……?」
「全部です。終わったら声をかけるように」
茫然とするニナに、箒を押し付け、その後は一瞥すらせずに、院長は建物の扉を閉じたのだった。
修道院での暮らし始まり一週間。ニナは疲れ果てていた。
「つ、つかれた……」
居住棟の五階の自室に到着するやいなや、固い木の寝台に体を投げ出した。
教会は、日の出とともに始まり、太陽が沈むと同時に終わる。教義を学び、修行、刺繍や小さな木工などの工芸品を作り糧を得る。決められた暦の日に、近くの村で振る舞う食事や菓子を作り、それを奉仕とする。そんな生活だった。
ニナがこの一週間、床に就くのは日付が変わった時間だった。
一日が終わった後、院長はニナにだけ用事を言いつける。
毎日毎日、一人でこなすには時間がかかりすぎる用事を押し付けられて、ニナは深夜まで働く羽目になっていた。
「聖女──修道女ニーナ、書庫の埃をはらい、本を整理しなさい。ローズ教の知識を知る修行です」
「聖女、ではなく、修道女ニーナ、門の錆を落としなさい。自らの心の汚れと向き合いなさい」
「聖女ニーナ、食器を残さず磨くように。──あぁ、失礼。今は修道女でしたね」
院長は、ニナを呼ぶ時、あてつけのように一度聖女と呼び、否定する。
それだけで、院長がニナにどんな感情を抱いているかわかろうというものだ。
(食器を磨き、己を磨くのですって……どういうこと?)
ニナは胸元に揺れる白い石の首飾りをぎゅっと握った。かつて、院長の胸に下げられていたものは、今、ニナの元にある。
これがそもそもの原因だった。
「嫌われてるよね……」
けれど、彼女もエドウィンに振り回されている一人なのだ。そう思うと、ニナは院長の仕打ちを憎むことができなかった。
(でも、つらいことに変わりはない)
他の修道女達は、当初は戸惑いながらニナと院長を遠巻きにしていた。
それが、今や見て見ぬふり。それどころか一部の修道女は、ニナが標的にされるたびにくすくす笑い声を立てるのだった。
王宮でも散々繰り返したことだった。
エドウィンは、聖女が年端もいかない小娘であることを知ると、尊重するより脅して言うことを聞かせた方が早いと思ったようだった。上の人間の態度を見て、他の人もニナへの態度を決める。
ニナは虚しかった。どこに行っても、大切にされることなんて、ない。
(いつか幸せになれるなんて、自分に甘いだけの想像だってわかってる──)
聖女なら。エドウィンの態度はひどくても、他の人は違うかも。役目を果たせば変わるかも。役目が終われば──。
ニナは、そうやって期待することで自分を慰めるしかなかった。
頼る人も場所もない場所で、自分を奮い立たせることなんてできなかったのだ。
どれほど願っても、王宮では、聖女とはエドウィンの道具の名前でしかなく、修道女では肩書だけが立派なただの新入りでしかなかった。
(これからもずっと、このまま? 修道院の中で暮らすの?)
ニナには身寄りもなく、召喚された当時は子供だった。耐える以外に、出来ることはなかった。
(でも……これからずっと?)
一生、馬鹿にされたり、軽んじられたりしながら、生きていくのだろうか。
(それは──嫌)
ニナはその時、はっきり思った。
家に、元の世界に帰れないということは、薄々気づいていた。
エドウィンがニナのために何かをしてくれるとは思えない。
泣いたり、落ち込んだりしながら少しずつかみ砕いて、あきらめて、でも──。
「誕生日おめでとう! 仁奈! 今年も──ううん、この先ずーっと仁奈が幸せでありますように!」
あの世界での最後の記憶。
母の言葉。声も口調も何もかも鮮明に思い出せた。もうずっと母の顔も見ていないし顔も聞いていないのに。
「幸せに……なりたい」
ニナは呟いた。
幸せになりたい。ただそれだけが、ニナの願いだった。
豪華な暮らしがしたいわけではない。修道女として祈りの生活をすることを不幸とは思わない。けれど、それはニナの幸せではない。
「幸せに、なるの」
耐え続けて、ちょうど五年になる。
(あ……そうだ……気づかなかった。誕生日!)
忙しさに取り紛れて忘れてしまっていた。
この日がニナの十七歳の誕生日だったのだ。
誰も祝ってくれなくても、ニナには祝われた記憶がある。幸せになれと祈られた記憶も、ちゃんとある。
(誰も幸せにしてくれないなら、自分でするしかない!)
これ以上耐えて、幸せになれるはずなんて、ない。
ニナは十七になる。聖女としての力がある。体も大きくなった。知恵もついた。そして、度胸も。
ニナは勢いをつけて寝台から体を起こし、転がるように寝台から降りて窓辺に歩み寄った。空気を入れ替える程度の小さな窓だ。
開いた窓から、川の流れる音が聞こえてきた。宿泊棟は修道院の敷地の最も奥、国境となる川のほとりにたたずんでいる。
そしてその川は、隣国へ流れ行くのだ。
(隣国へ……! 今度こそ、自由になるの……幸せになるの!)
ニナが騒ぎを起こしたのは、翌日の早朝のことだった。




