20討伐後
魔獣と化した角猪が出現したのは、木の実をたわわに実らせた果樹園だった。
若い木々に、角猪がめいめいその立派な角を押し付けているのが見えた。その数──およそ三十。群れの奥に、ひときわ目立つ黒い霧の中にかすんで見える魔獣がいた。
(あれか……)
「各個撃破! 散れ!」
ジークハルトの指示で、騎士達が散り散りになっていく。木を使い死角を利用し、一匹、また一匹と角猪を討伐していく。
なによりジークハルトの草魔法は効果的だった。果樹園という地は彼にとって有利に働いた。隆起した根が、まるで自身の恨みを晴らすかのように、しなり、魔獣を打ち伏せていった。
ニナは、騎士達が討伐した魔獣の死体が転がる地面に膝をついた。スカートのすぐ近くに赤黒い血が草の葉を汚している。ニナの目の端で、まだ青かった草が変色し、細くなり、やがて朽ちた。
これが、黒い霧と影響された魔獣がもたらす被害だ。
ニナは、手を組み祈りをささげる体制をとる。
(祈りなんて……捧げたい相手はもういないけど)
魔獣がまとう黒い霧を消すこと自体、ニナにとって、もはや難しくないことだった。
何度も何度も繰り返してきたことだ。
体の中に渦巻く熱を感じられる。
この世界に来て初めて覚えた魔法というものの感覚だった。この感覚をつかむまで時間がかかって、指導役に皮肉を言われたこともあった。
(今では、こんなに簡単なのに)
体の中をめぐり、速度を上げ、濃度を上げ、出口を求めて膨れ上がる。限界まで引き付けて、耐えて、そして──
(沈まれ……)
体を満たしたものが、外へと向かっていく。ニナは自分の魔力が広がっていくのを感じた。
やがてそれが悪しき魔力を捕まえる。絡めとり、包み込み、その力が抑圧されていくのがわかる。
(どこかへ、散って──)
この時、ニナはいつも、ガラスが粉砕されて散り散りになる様子を想像する。
想像した通りに、ニナの魔力と共に、魔獣がまとう魔力が、発散されていく。
ニナは組み合わせた手を解き、そっと目を開けた。
「本当に、聖女様なんだ……」
騎士の声がする。
ニナは立ち上がり、振り向く。騎士達の呆けた顔の中に、賞賛の色が浮かび上がっていくのが見えた。
一方で、フリッツの顔に落胆の色が差すのを見た。ニナが間違いなく聖女であることにがっかりしているのだろう。
ニナは、フリッツに背を向けた。賞賛にも失望にも興味が持てなかった。
目の前には、角猪の死体だけが、枯れた野草の上に残されていた。
「この度は本当にありがとうございました……!」
「まさかこんなに早く討伐いただけるなんて!」
「いやぁ、よかった! これで明日からまた作業ができます!」
ニナ達が村に戻って魔獣の討伐報告をすると、同席していた村人が沸きに沸いた。
村人たちは、騎士達の前で頭を下げ、手を握り、めいめい感謝の気持ちを示している。
ニナは、その輪から外れたところで、ぼんやりとその光景を見ていた。
(結局、いつもと同じ)
村人達は、ニナが成したことをその目で見ていない。見ていないものを信じることはできない。ニナを聖女と認識していた騎士達でさえそうだったのだから、村人たちが悪いわけではない。
ニナはもはや失望しなかった。
(違う。ジークが、幸せにする手伝いをしてくれるって言ったんだから一緒にいるの)
ニナはそう自分に言い聞かせる。ジークがニナを手伝う、その引き換えに、ニナは聖女の仕事をする。
そういう約束だ。そこに、感謝にまつわる項目は含まれていない。
「私達だけの功績ではありません。どうぞ、その気持ちは彼女に。素晴らしい聖魔法の使い手なのですよ」
どこかすねたような気持ちでいたニナに、その言葉とともに視線が一斉に向けられる。
「はい?」
たじろぐニナに、わっと村人が群がった。
「ありがとうございます!」
「いやぁ、お嬢さんも王宮の魔法使いなんですか? あんな魔獣を討伐するなんて」
「きっと、聖女様だ……」
誰かがぽつりとつぶやいた。
「そ、そうだ。きっとそうに違いない!」
同意する言葉が、広がっていく。
「そういうんじゃ、なくって……」
ニナは途方に暮れてジークハルトに救いを求めた。
今度はジークハルトと騎士達がニナ達を輪の外から眺めていた。いずれの顔にも、笑顔が浮かんでいる。嬉しそうで、微笑ましそうで、安心したような。
「神より聖女様が遣わされたこと……。この困難の中、私達の心の支えになることでしょう」
村長が、収集のつかなくなった村人を収めるように前に出る。丁寧な言葉と共に、ニナに深く頭を下げた。
ニナは、その姿に複雑な思いを抱くのだった。
聖女が、救世の象徴のように扱われているのは理解できても、自分自身がそこに当てはめて考えられると、何とも言えない気持ちになる。ニナは、結局自分のために力を使ったに過ぎない。
「あぁ! よかった! まだいた!」
大きな声が、割り込んでくる。村人やニナ達の視線が一斉にそちらを向いた。
髪を汗でびっしょりぬらした男が、膝に手をつきながら必死に息を整えていた。
怪我をした農夫を運び込んできた男だった。あの怪我人をつれて、馬車で街に行ったはずだ。
「先ほどはありがとうございました! 怪我の治療をしていただいたのに、お礼も言わなかったことを思い出して。慌てて引き返してきたんですわ!」
男は、ふらつきながら、ニナに歩み寄ってくる。膝が、がくがくと笑っているのが見て取れた。
「ま、まさか、走って来たんですか!?」
ニナは、驚いて声を上げた。
「まぁ、体力は自信があるんで。馬車もなかったし、仕方ないですわな」
気強い言葉だったが、呼吸は一向に整わず、とぎれとぎれだった。
「いやぁ、本当にありがとうございました! ずいぶん楽になったみたいで、馬車の中でほっとした顔してましたわ!」
彼の友人を治療したのも、村を救ったのは、本心からそうしたいと思ったからではない。
(──でも)
ニナの胸に、あたたかな気持ちが湧き上がってくるのを感じた。鼻の奥がつんと傷む。
ニナは、感謝のまなざしを向けてくる農夫から目を逸らした。
そうでもしないと、ニナは目じりにさえ浮かんできたものを、誤魔化せそうになかったのだ。




