2聖女の過去
穏やかで慈悲深い。
それが、ニナの聖モントローズ王国第二王子アルバートへの印象だった。
「このままでは、あなたがあまりにも哀れだ」
ニナを憐れんで結婚の申し込みをする程に。
「側妃の子だとしても第二王子という身分は、決して聖女に見劣りするわけではないと思うんだ」
アルバートは膝をついて、ニナの小指に自分の小指を絡ませた。ニナの故郷では、約束を意味するこの仕草が、この国では愛を乞うための仕草になるのだと言う。
初めて知った時、慎ましくて、可愛らしいとニナは思った。
「お受けします」
喜んで、お受けします。
本当は、そう答えるのがマナーだと学んでいたが、プロポーズの答えに嘘を混じらせることに抵抗があり、ニナは省いてしまった。
お互い、愛し合っているわけではないとわかっていた。
それなのに、アルバートは、ニナを伴侶に選んだのだ。
その慈悲でもって。それもよほどの覚悟とともに。
そうでなければ、顔もよくわからない相手に結婚を申し込みはしないだろう。
聖女として人に尽くし、神に仕えるという名目で、ニナは常に修道着を着て薄いヴェールで顔を隠していた。
これが、修道女としての正装なのだそうだ。
少しだけ、傷ついたのは確かだった。
アルバートの優しさはニナの慰めになっていたが、とうとう婚姻を持ち出さざるを得ないほど哀れだと思われている自分が悲しかった。そして、それを拒否できない自分がいるのも事実で、惨めだった。
それでも。
愛でなくても構わない。可哀そうだと思われたままでもいい。一生恋をしないかもしれないけれど、仕方がない。
この生活から抜け出せるのなら。その一心でニナはアルバートのプロポーズを受けたのだった。
それほどまで、召喚されてから今に至るまでの道筋は、過酷だった。
「誕生日おめでとう! 仁奈! 今年も──ううん、この先ずーっと仁奈が幸せでありますように!」
ニナが日本で過ごした最後の日は、誕生日のその日だった。
特別な料理とケーキにプレゼント。幸福を祈るメッセージを受け取り眠りについた。
「これが聖女? 子どもじゃないか!」
次に目を開けた時、ニナは冷たい石造りの固い床の上に、寝間着姿で放り出されていたのだ。
「だ、誰!? 何!?」
灯りは、壁に掲げられた松明のみ。石の壁や床を橙色の光が、揺らめきながら照らしていた。
ニナを取り囲むいくつもの人の影が、壁の上で不気味に踊る。鼻の奥をちくちく刺すような匂いがする。
ニナは冷たい床の上に座り込んだまま、周囲を見渡した。見知った顔が駆け寄ってきて、ニナを助け起こしてくれるようにと祈っていた。
一人の男が、ニナを囲む人々を押しのけて進み出た。
当時十七歳。聖女召喚の責任者だったエドウィンである。
「何これ! 誘拐!? 変質者!」
何せ、ニナを取り囲む男達は、ぞろぞろと裾の長い暗い色の服を着ていたし、エドウィンの月の輝きを宿す髪と高貴な紫の瞳も、ニナの目には、奇天烈としか映らなかった。
騒ぎ立てるしかないニナに、エドウィンは一喝すると、大股で近づいていた。
「い、痛い!」
そのまま、むんずとニナの髪を鷲掴みにしたのだ。
「痛い! 痛い、離して!」
「黙れ、無礼者! 私はこの聖モントローズ王国の……」
「知らないし! 何よその国! 日本に帰して! 家に帰して!──きゃ!」
次の瞬間、ニナは床に叩きつけるように放り出されていた。ニナは無様に床に転がりながら、なんとか体を起こす。
エドウィンはその肩をつかみ、再び地面に押し付けたのだった。
這いつくばりながら、ニナはもがいたが、十二の女子の力では彼を振り払うことができなかった。
「おい! 本当にこんなガキが聖女なのか! 何かの手違いじゃないのか!」
「いえ、この聖女召喚は、三百年前の厄災の時と同じ手順で行われています。間違いが起こるはずが……」
「なら、本当にこの貧乏くさい、礼儀知らずのガキが聖女ということか」
エドウィンはそう吐き捨てる。
「何よ……!」
ニナは怒りに震える声で言った。
「何よ! 勝手に人をこんなところに連れてきて! 聖女だ何だって……! 無礼はどっちよ!」
ニナはわあわあと騒ぎ立てた。いくら騒ごうとも、目の前には地面だけでしてすら見えない。そんな自分があまりにもみっともなくて、そんな風にした相手に怒りは増すばかりだった。
「帰して! 家に帰して!」
「黙れ!」
ぴしゃりと高圧的に怒鳴られて、ニナはとっさに口をつぐんだ。
「召喚してしまった以上仕方がない……。おい! 聖モントローズ王国王太子の名において命じる。貴様は俺の命令の元、聖女としての役目を果たすのだ」
「勝手なこと言わないで!」
ニナは怒りに震え、体をよじりながら叫んだ。
この時まで、ニナにはまだ相手に食って掛かる度胸があった。幼い故の無謀な度胸だったが、言いなりになってたまるかという意志と自分が辱められていることへの怒りがあった。
けれど。
「煩い!」
パン、と乾いた音が石造りの間に高く響いた。
エドウィンは、ニナを引き起こすと、その柔らかな頬を張ったのだった。
「この国に来た以上、お前は王、ひいては次期王である俺に従う義務がある! 今すぐ態度を改めよ!」
友達同士の小競り合いも、十を超えれば少なくなる。
久々に振るわれた暴力、それも相手を屈服させることが目的のものに、ニナは言葉を失い、その場に座り込むしかなかった。
この時この瞬間、ニナとエドウィンの間にははっきりとした上下関係が生まれた。
初対面の男から受けた暴力の恐怖は、ニナの中にしっかりと植え付けられたのだった。
「ニナ? この国ではそのような名前はない。ニーナという名前はよくあるな。つまらない平民の名だ。お前にぴったりだな。今後、お前をそう呼ぶことにする」
エドウィンはニナの名前を奪い、嘲りと共に近いけれど異なる名前を与えた。
「いいな、ニーナ。お前は俺に逆らうことは許されない。聖女としての役目を果たし、この国に尽くすのだ」
この国、この世界には魔法が存在し、魔法を使うための原動力として魔力がある。
魔法を使える人と使えない人が存在するが、魔力は生きとし生けるものや自然全てに宿り、調和を保っている。
聖モントローズ王国では、少し前から、狂暴化、強大化した獣が田畑を荒らし、人を襲いっている。その獣は魔力を帯びた黒い霧を纏い、霧が及ぶ範囲の動植物や人にも影響を及ぼし、被害をばらまき続けているのだ。
三百年前にも同じ出来事があり、異世界から聖女が召喚され、黒い霧を纏う獣を鎮めたのだという。
そして今回、ニナが聖女として召喚された。
「恩を返せ、ニーナ。誰のおかげで貴族の家で暮らせていると思っている」
ニナはやがて、ホーロック伯爵邸で養育されることになった。
逆ではないか、とニナは何度も思った。聖女の役割も、貴族の教育も、この国での暮らしもニナが望んだものではない。むしろ聖女を欲していたのはそちらではないか。
そう思っても、ニナは口答えが出来なくなっていた。
この国で立場が上なのはエドウィンで、彼が何をしようとも許される。それは聖女としても例外ではない。実際、誰もエドウィンのニナへの態度を咎めなかった。
「私は聖女じゃない! 家に帰して!」
召喚されてしばらくの間、ニナは主張した。その度に怒鳴られ、時に頬を張られ、髪をつかまれた。
繰り返すうちに、ニナは少しずつ無力になっていった。
目の前で振りかざされる暴力が、何よりも身に迫って恐ろしかった。
エドウィンの暴力や暴言に耐え、ローズ教の教育にも聖女としての訓練にも伯爵家での淑女教育にも耐えて、耐え続けて。
十六の半ばでようやく聖女としての役割が終えた──はずだった。




