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◆第6話「神の代理人と悪魔の契約書」

 王都の下町にある「聖アストラ救貧院」。そこは今、静かな、しかし確実な「死」の気配に包まれていた。朝の礼拝を告げる鐘が鳴るが、礼拝堂に集まる子供たちの足取りは重い。彼らの頬はこけ、目はくぼみ、衣服はつぎはぎだらけだ。


「……シスター。もう、食材庫が空です」

 か細い声で報告に来たのは、年若い修道女だった。彼女の手にある籠には、しなびた野菜のクズと、カビを削り取った硬いパンの耳が数切れ入っているだけだ。


「今日の炊き出しは……?」

「できません。昨夜の残りのスープを水で薄めて、温め直すのが精一杯です」


 シスター・クレアは、胸元で手を組み祈りのポーズを取った。この救貧院には、親をなくした孤児や、口減らしで捨てられた子供たちが五十人以上暮らしている。不況と物価高騰のあおりを受け、その数は増える一方だった。

「本部に……教区本部への支援要請はどうなっていますか?」

「それが……今朝の使いの話では、担当の司祭様が面会を拒否されたと……」


 クレアは唇を噛み締めた。ここ数ヶ月、教会本部からのなぜか支援金は滞り、今では完全にストップしていた。「自助努力が足りない」「信仰が浅いから試練が訪れるのだ」という冷たい言葉と共に。


 その時、救貧院の門前に、場違いに豪奢な馬車が二台、砂煙を上げて乗り付けた。降りてきたのは、派手な毛皮のコートを着た男――繊維工場主のファビアン。そしてもう一人、上等な法衣に身を包み、脂ぎった顔をテラテラと光らせた男だった。教区の財務を取り仕切る実力者、ボグス司祭である。


「やあ、シスター・クレア。精が出ますな」

 ボグス司祭は、飢えた子供たちを見ても眉一つ動かさず、むしろ汚いものを見るように鼻にハンカチを当てた。

「司祭様……! お待ちしておりました。支援金の件ですが、子供たちがもう限界なのです。どうか慈悲を……」


「慈悲?」

ボグス司祭は、呆れたように鼻を鳴らした。

「クレアよ。お前は根本的に勘違いをしている。貧困とは、神が与えた試練ではない。彼らの親が、あるいは彼ら自身が“怠惰”であったという『罪』の結果なのだ」


「罪、ですか……? まだ10歳にも満たないこの子たちが?」

「そうだ。聖典にもある。『働かざる者、食うべからず』とな。汗も流さず、ただ口を開けて施しを待つだけの生活は、彼らの魂を腐らせる。彼らに必要なのはパンではない。規律と、労働による贖罪だ」


 ボグス司祭の言葉に、ファビアンが揉み手をして進み出る。

「そこで、私の出番というわけですな、司祭殿」

ファビアンは、まるで家畜を品定めするような目で、子供たちの細い腕や指を見た。

「私の繊維工場では、今、人手が足りなくてね。特に、織機の狭い隙間に入り込んで糸を結べる、小さな指と体が欲しいのです」


 クレアの背筋が凍りついた。噂は聞いている。ファビアンの工場にある「児童寮」の実態を。窓のない部屋に押し込められ、朝の鐘から夜の鐘まで、一日十二時間の労働。食事は腐りかけの芋と水だけ。ミスをすれば鞭で打たれ、機械に指を挟まれて使い物にならなくなれば、路地裏に捨てられる。それは「寮」ではない。監獄である。


「……ファビアン様の工場へ行けと、おっしゃるのですか」


「『行け』ではない。『救済してやる』のだ」

ボグス司祭が杖で地面を叩く。

「ファビアン殿は、教会に多額の寄進をしてくださっている篤志家だ。彼のもとで滅私奉公し、生産に寄与することこそが、この社会の底辺に生まれた彼らが唯一、生きることを許される道なのだ。それこそが救済だ。」

「ですが……それは奴隷契約です! まだ学びも遊びも必要な子供たちに、そんな過酷な労働は……」「黙れ!」


 ボグス司祭の怒号が響いた。

「教会にある金は有限だ! これ以上、無為徒食の穀潰しを養う金はないの! 支援金は打ち切る。今日この場で、この契約書にサインをして彼らを工場へ送るか、それとも全員で野垂れ死ぬか。二つに一つ! どちらかを選べ」


 突きつけられた羊皮紙には、『労働契約書』とは名ばかりの人身売買に近い条項が並んでいた。賃金は教会への寄付として天引きされ、子供たちの手元には一銭も残らない。契約期間は「成人するまで」。つまり、死ぬまでだ。使い潰された子供たちが成人するまで生き延びる可能性は、事実上ないに等しいのだから。


 構造的な癒着。教会はファビアンから賄賂を受け取り、その見返りとして「教義」を盾に、文句を言わない安価な労働力を供給する。神の威光を借りた、最も醜悪なビジネス。


「さあ、サインを。これは神の御心ですぞ」


 ファビアンが、ニヤニヤと笑いながら羽ペンを差し出す。クレアの手が震える。拒否すれば、今夜のパンすらない。全員が路頭に迷う。しかし、サインすれば、彼らを地獄へ売り渡すことになる。死ぬまで工場の歯車だ。


 子供たちが、不安そうにクレアの服の裾を掴んでいる。

「シスター……おなかすいたよ」

「僕たち、どこに行くの……?」


 クレアの目から、涙が溢れた。無力だ。神に仕える身でありながら、悪魔の論理に屈するしかないのか。

「……神よ、お許しください」


 彼女は震える指でペンを握った。ペン先が、羊皮紙に触れる。インクが滲み、子供たちの未来を黒く塗りつぶそうとした――その時だった。


「お忙しい所申し訳ありませんが、その契約、ちょっと待ってくださいませんか?」


 人垣をかき分けるようにして、一人の男が割って入った。黒髪の異邦人――藤村蓮。その背後には、書類鞄を抱えたエリシアと、大きなバスケットを持ち、怒りを抑えた表情のリオネルが控えていた。


「……おや、誰かと思えば。イモ屋の藤村殿ではありませんか」

 ファビアンが不快そうに顔を歪める。


 蓮は、ボグス司祭とファビアンの間に入り込み、契約書を覗き込んだ。そして、鼻で笑った。


「“贖罪”ねぇ……。随分と安く買い叩かれた“罪”だこと。安く買って高く売るのは商売の基本ですが、司祭様におかれましては、大いに儲かって笑いが止まらないでしょうね」

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