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◆第5話「月明かりの計算書と、戻らない時計」

リド村からの思いがけない贈り物が倉庫に収められた、その日の深夜。官舎の執務室は、ランプの油が燃える微かな匂いと、紙とインクの匂いに満たされていた。


 エリシアは、淹れたてのハーブティーを盆に載せ、そっと執務机に近づいた。

「……藤村殿。少し休憩なさいませんか」

「あ、ありがとうございます。……すみません、あと少しでこの生産計画の試算が終わるので」


 蓮は顔も上げずに礼を言い、手元の計算用紙にペンを走らせ続けている。カリカリカリカり……。静寂の中に、ペン先が紙を引っ掻く音だけがリズミカルに響く。エリシアは、その横顔を静かに見つめた。


(……不思議な方)


 エリシアは、かつて貴族令嬢として多くの貴族男性を見てきた。彼らは皆、着飾っていた。領地の広さを自慢し、血筋の古さを誇り、詩的な言葉で女性を口説いた。だが、その瞳の奥には常に「他者をどう利用するか」「いかに自分を良く見せるか」という計算高い光があった。


 だが、目の前の男は違う。髪は少しボサボサで、袖口にはインクのシミがついている。血筋を誇ることもなければ、甘い言葉一つ囁かない。そして、彼が今、一心不乱に計算しているのは「自分の利益」ではない。「どうすればこのジャガイモを腐らせずに、一食でも多く飢えた人々に届けられるか」という、顔も知らない誰かのための計算だ。


「……よし、出た」


 蓮がふぅ、と息を吐き、髪をかきあげた。そして、まるで少年のように無邪気な笑顔を浮かべて、エリシアに紙を見せた。

「見てください、エリシアさん。フリーズドライの工程を見直せば、歩留まりが3%改善できます。たった3%ですが、全体量で見れば数百食分のスープが増やせる計算です!」

「……数百食、ですか」

「ええ! これなら、孤児院や救貧院にも優先して回せます」


 その笑顔を見た瞬間、エリシアの胸の奥で、カチリ、と小さな音がした気がした。それは、止まっていた時計が動き出した音のようでもあり、あるいは、心の扉の鍵が開いた音のようでもあった。


 この人は、数字の中に「愛」を見ている。冷徹な計算式の向こう側に、温かいスープを飲んで笑う人々の顔を思い浮かべている。そんなことが出来る人間を、エリシアは今まで知らなかった。


「……藤村殿」

「はい?」

「私……もう、戻りたくありません」


 不意に出た言葉に、蓮がキョトンとする。

「戻る? どこへですか?」

「……かつての、貴族としての生活へです」


 エリシアは、窓ガラスに映る自分を見た。煌びやかなドレスはない。化粧も薄く、手にはペンダコがある。没落した、哀れな元令嬢。世間はそう笑うだろう。でも、今の自分が、かつてのどんな時よりも「誇らしい」と思えるのだ。


「煌びやかな舞踏会で、空虚な言葉を交わす夜よりも……こうしてあなたのお側で、泥だらけのジャガイモの計算をしている夜の方が、私にはずっと愛おしく思えるのです」


 言ってしまってから、エリシアは自分の言葉の大胆さに頬が熱くなった。蓮は少し驚いたように目を見開き、それから困ったように、でも優しく微笑んだ。


「……それは光栄ですが、けっこう地味で過酷な職場ですよ? これからも」

「望むところです。私は、あなたの『計算』を支える記録係ですから」


 エリシアは、冷めかけたティーカップを蓮の手元に置いた。恋と呼ぶにはまだ静かで、けれど尊敬と呼ぶにはあまりに熱い想い。彼女は知っていた。この異邦人が見ている未来の景色を、自分も隣で見続けたいと願ってしまっていることを。


「さあ、冷めないうちにどうぞ。……次の計算が待っていますよ、工場長」

「お手柔らかにお願いします、秘書官殿」


 月明かりの下、二人はまた仕事に戻った。甘い雰囲気などない。あるのはペンの音と、共有された目的だけ。だが、その静かな夜は、どんな愛の詩よりも雄弁に、二人の絆を深めていた。

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