◆第47話「白い飽和爆撃」
雨は小降りになっていたが、王都の東区、工場街の空気は重く沈んでいた。蓮の工場の正門前には、朝から人だかりができていた。従業員だけでなく、その家族、近隣の住民たちが不安そうな顔で集まっている。彼らの服は濡れ、目は血走っていた。
「おい、今日の市場見たか? パンが昨日の倍の値段だぞ」「芋がねぇんだ。どこにも売ってねぇ」「工場長は、俺たちを見捨てねぇよな……?」
工場の塀の向こうから漂ってくる、加工食品の匂い。それが今の彼らにとって唯一の希望だった。だが、同時に疑念もある。他の商人のように、この工場も在庫を隠し持ち、値吊り上げを狙っているのではないか、と。
ギィィィ……。重厚な鉄の門が開かれた。現れたのは、藤村蓮。そしてその後ろには、山のように積まれた木箱と麻袋を載せた荷車が、何台も連なっていた。
「――お集まりの皆さん!」蓮が魔道拡声器を使って声を張り上げた。
「不安なのは分かります。市場が混乱しているのも知っています。ですが、安心してください」
蓮は、荷車の一台に掛けられた布を勢いよく引き剥がした。現れたのは、白く、太く、土の香りがする「白サツマイモ」の山だった。さらに隣の荷車には、『即席イモラーメン』の茶色い袋がぎっしりと積まれている。
「うおおおっ……!」
群衆からどよめきが上がる。これだけの食料があれば、冬を越せる。だが、問題は値段だ。
「いくらだ!? 銀貨一枚か!? それとも二枚か!?」
誰かが叫んだ。ファビアン商会などの他の店では、屑芋一つに銀貨を要求しているという噂が飛んでいたからだ。
蓮は、首を横に振った。そして、あらかじめ用意していた大きな看板を掲げた。
【従業員およびその家族限定:白サツマイモと即席麺の特別配給を実施します。価格は据え置き】
【一般向け販売:お一人様一日二袋まで。価格は通常通り】
「……据え置き?」
「値上げしねぇのか……?」
一瞬の静寂の後、爆発的な歓声が上がった。
「工場長万歳!!」
「ありがとう! これで子供たちに腹いっぱい食わせてやれる!」
アンナやカイたち従業員が、テキパキと配給を始める。
「はい、並んで! 押さないで! 在庫は逃げませんから!」
「転売は禁止ですよ! 見つけたらクビですからね!」
彼らの手には、市場価格の十分の一、いや二十分の一で手に入れた食料が握られていた。温かいスープの素、腹持ちの良い白い芋。それは単なる食料ではなく、彼らの生活を守る「盾」そのものだった。
蓮は、エリシアと共にその光景を工場の二階から眺めていた。眼下では、配給を受けた老婆が芋を抱きしめて泣き、若い工員が家族の元へ走っていく姿が見える。
「……これでよかったのですか、藤村殿」
エリシアが、複雑な表情で問いかけた。彼女の手には、市場の価格表がある。
「今、市場で売れば、莫大な利益が出ました。工場の借金を返し、さらに設備を増やすこともできたはずです。それを、定価で……実質的にはタダ同然で配るなんて」
経営者としては失格かもしれない。機会損失は計り知れない。だが、蓮は肩をすくめて笑った。
「目先の金より、信用のほうが高いからね」
蓮は、嬉々として働く従業員たちを指差した。
「見てごらん。彼らの顔を。恐怖が消えて、安堵と、会社への信頼に変わっている。従業員が飢えて倒れたら、工場は動かない。彼らが家族の心配をせずに働ける環境こそが、僕たちの最大の資産だよ」
「……それに」
蓮の目が、冷徹な光を帯びた。
「僕たちがこうして『安値』で大量に放出すれば、市場価格に対する強烈なアンカー(錨)になる。買い占めていた商人たちは、値崩れを恐れて在庫を吐き出さざるを得なくなる」
「……相場を、冷やすためですか」
「そう。僕たちの在庫は、強欲な商人たちへの『飽和爆撃』だ」
蓮の狙い通りだった。「イモ工場に行けば、定価で買える」という情報は瞬く間に広がった。
蓮の合図とともに、人々に見せたのは、天井まで届くかというほどの麻袋の山。中身はすべて、泥一つついていない新鮮な『白サツマイモ』だ。
「ば、馬鹿な……!」
偵察に来ていたファビアン商会の手下が、腰を抜かした。
「市場には芋なんて一つもないはずだ! なんでこんな量が……!」
蓮は拡声器で宣言する。
「今の騒動を起こしているジャガイモ疫病は、サツマイモには感染しません! そして我々は、疫病が広がる前に収穫を完了しています! 在庫は潤沢です!」
ドサッ、ドサッ! 次々と荷車に積まれていく白い芋。
「今日から毎日、この量を市場に投下します! 転売屋さん、買い占めるなら買い占めてみなさい! こちらの在庫が尽きるのが先か、あなたたちの資金が尽きるのが先か……勝負です!」
それはまさに「物量による飽和攻撃」だった。
高値で売り抜けようとしていた転売屋や悪徳商人はパニックに陥った。誰も高い芋を買わなくなったからだ。希少価値を盾に価格を釣り上げていた転売屋たちは、圧倒的な供給量の前になすすべなく崩れ去った。数日後、市場の価格は暴落し、以前よりも高めとはいえ、何とか適正な水準の価格へと落ち着いていくことになる。
「……さて、これでうちの従業員と大部分の人は守れた」
蓮は窓枠に手をつき、塀の外を見つめた。工場の門の外には、配給を受けられなかった人々――職を失い、定価でさえ食料を買えない人々が、虚ろな目で通りを彷徨っている。塀一枚隔てて、天国と地獄があった。
「問題は、この塀の外だ」
疫病という自然災害は、白サツマイモという「技術」で回避できた。だが、サツマイモはジャガイモほど寒さに耐えられないから、ジャガイモを完全には代替できない。また、現時点でジャガイモの被害にあった農家は無収入である。それによって生じる地域経済の歪みは、弱者に冷酷な牙を剥こうとしていた。蓮の工場だけが豊かになることは、許されるのか。この格差が、やがて新たな火種となることを、蓮は予感していた。
工場の煙突から上がる白い蒸気は、曇り空に吸い込まれていく。それは希望の狼煙であると同時に、来るべき「持たざる者たちの反乱」への序曲にもなりうるのだ。




