◆第46話「財務官僚の憂鬱と、リスクヘッジ」
王都の中心に位置する徴税庁。その最上階にある長官執務室は、常に冷徹な静寂に包まれているはずだった。分厚い石壁は外の喧騒を遮断し、高い天井まで届く書棚には、この国の富の全てを記録した帳簿が整然と並んでいる。磨き上げられたマホガニーの机、高価だが華美ではない調度品。それらは、この部屋の主であるマルクスという男の性格をそのまま映し出していた。
だが今日、その静寂は破られていた。
「報告します! 北地区の市場で小麦価格が急騰! 昨日の三倍の値を付けました!」
「南地区の穀物問屋に市民が殺到しています! 警備隊の増援を!」
「ジャガイモの入荷が止まりました! 倉庫は空です!」
次々と飛び込んでくる部下たちの報告は、悲鳴にも似ていた。マルクスは眉間に深い皺を刻み、窓の外を見下ろした。雨に煙る王都の通りには、傘をさすことも忘れて走り回る人々の姿が見える。恐怖が伝染していた。食料がなくなるという原初的な恐怖が、理性を食い破り始めていた。
「……スタグフレーションか」マルクスは、かつて藤村蓮が口にしていた異界の言葉を呟いた。不況下での物価高騰。失業率は高まり賃金は上がらないのに、パンの値段だけが跳ね上がる。最悪の経済状態だ。いやパンだけではない、様々な消費財が値上がりしている。
「――で、状況はどうなんだ、藤村殿」
マルクスは振り返り、ソファに座らせていた男に問いかけた。藤村蓮。この混乱の中心にある「イモ」を持ち込んだ張本人だ。彼は雨に濡れた髪を拭きもせず、泥だらけのブーツのまま駆けつけていた。その横には、青ざめた顔のエリシアと、ハンカチで口元を押さえているリオネルがいる。
「最悪です」
蓮は、持参した報告書を机に広げた。そこには、王都近郊の地図と、真っ赤に塗りつぶされたエリアが描かれている。
「被害報告は毎時間増えています。王都周辺のジャガイモ畑の被害率は、すでに八割を超えました」
「八割……」
マルクスは息を呑んだ。それは、王都の食料供給の半分が消滅したことを意味する。
「原因は?」
「『疫病』です。カビの一種が引き起こす病気で、長雨と低温が菌の爆発的な増殖を招きました。風に乗って胞子が広がるため、防ぐ手立てはありません」
蓮の声は沈痛だった。
「感染した芋はドロドロに溶け、強烈な悪臭を放ちます。種芋として残すこともできません。……全滅です」
室内の空気が凍りついた。マルクスは眼鏡を外し、指でこめかみを押さえた。
「……飢饉になるか?」
彼の脳裏には、餓死者が路地に転がり、税収が途絶え、国が崩壊する最悪のシナリオが浮かんでいた。マルクスは絶望的な顔をする。
「ジャガイモが全滅か。食料庫は空になるぞ……」
蓮は静かに首を振る。
「いいえ。倉庫は満杯です」
「な、なに? 畑は全滅したはずだぞ!」
「全滅したのは『ナス科』のジャガイモだけです。僕たちが植えた『ヒルガオ科』のサツマイモには、あの疫病菌は取り付きません」
蓮はニヤリと笑う。
「それに、サツマイモは寒さに弱い。だから僕は、あの長雨が冷たい雨に変わる前――疫病が爆発するより一足早く、先週のうちに全て収穫し終えていました」
マルクスが目を見開く。
「……なんだと?」
「今、工場の倉庫には、雨にも病気にも触れていない、清潔で丸々と太った『白いサツマイモ』が山のように眠っています。」
それは、生物学的な知識(科の違い)と、農業的な判断(収穫適期)が生んだ、完全なる勝利だった。
「だから……」だが、蓮は顔を上げ、はっきりと言った。「死者が山積みになるような大飢饉は避けられます」
蓮は、足元に置いてあった麻袋を持ち上げ、ドンと机の上に置いた。重い音が響く。彼は袋の口を解き、中身を転がし出した。出てきたのは、赤紫色の皮をした紡錘形の芋と、白っぽい無骨な芋だった。
「サツマイモたちは、無事なのですよ」
蓮は、二つの芋を手に取って見せた。蓮の瞳に、強い光が宿る。
「僕たちが現場で見てきました。隣の畝でジャガイモが全滅していても、サツマイモたちは青々と葉を茂らせていました。地中の芋も無傷です」
マルクスは目を見開いた。
「……なるほど。君が以前言っていた『分散投資』か」
かつて蓮は、ジャガイモ一本槍のリスクを説き、執拗なまでにサツマイモの普及を進めていた。甘い「赤」は嗜好品として、そして味の劣る「白」は救貧作物として。その二重の布陣が、今まさに功を奏したのだ。
「不幸中の幸いだな。これで首の皮一枚つながった」
マルクスは安堵の息をつき、椅子に深く座り直した。だが、蓮は首を横に振った。
「いいえ、マルクスさん。ここからが本番です」
「本番?」
「はい。自然の脅威はサツマイモで防ぎました。ですが、ここから先は――『人間の欲と恐怖』との戦いです」
蓮は窓の外、市場の方角を睨んだ。
「ファビアン商会をはじめとする大商人たちが、すでにサツマイモの買い占めに走っています。ジャガイモがない今、代替品となるサツマイモの価値は黄金に等しい。彼らは倉庫に芋を積み上げ、価格がさらに上がるのを待って売り抜ける算段です」
マルクスの目が鋭く細められた。
「……火事場泥棒め」
「庶民はジャガイモが買えず、サツマイモも高嶺の花になりつつあります。このままでは、食料はあるのに、金がないから飢える人が出ます。……それは、物理的な飢饉よりもたちが悪い」
マルクスは舌打ちをし、ペンを執った。
「クソッ、商人の浅ましさには反吐が出るな。……よし、緊急措置だ。本日付で『赤サツマイモ』に対する流通税と消費税を全額免除する」
彼は羊皮紙にさらさらと命令書を書き上げた。税をなくすことで、少しでも価格を下げさせようというのだ。
「ですがマルクスさん、それだけでは焼け石に水です。供給そのものを増やさなければ、価格は下がりません」
「分かっている! だが、今から植えても収穫は来年だ。手持ちのカードがない」
苛立つマルクスに対し、蓮はニヤリと笑った。それは、かつて数々の難題を打破してきた、あの「悪巧み」の顔だった。
「ありますよ、カードなら。……僕のところにね」
「先程言ったように、僕の工場には、疫病なんて関係なく育った丸々と太った白サツマイモの備蓄があります。それに、昨年の秋ジャガイモと今年の春ジャガイモの豊作の時に作った『乾燥マッシュポテト』と『即席麺』の在庫も、山ほど積み上がっています」
マルクスは蓮を凝視した。「……どうするつもりだ? 君も値上がりを待つか? 今売れば、君の工場は莫大な利益を得られるぞ」
試すような視線。蓮はきっぱりと答えた。
「まさか。僕は『損して得取れ』を選びますよ。……僕のやり方で、市場の熱を冷ましてやります」
蓮は麻袋を掴み、立ち上がった。その背中は、一介の工場長を超え、経済という戦場に立つ指揮官のようだった。




