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◆第45話「毒と陰謀のささやき」

 パニックが始まって二日目の夜。王都の下町にある大衆酒場『竜のあくび亭』は、いつもと違う熱気に包まれていた。酒を飲む者の顔には笑顔がない。皆、険しい表情でジョッキを傾け、ヒソヒソと囁き合っている。その囁きは、アルコールと恐怖によって醸成された、毒々しい「噂」だった。


「……聞いたか? あの疫病、自然発生じゃないらしいぜ」

 カウンターの隅で、港湾労働者風の男が声を潜めた。周囲の客がサッと顔を寄せる。

「どういうことだ?」

「帝国のスパイが、毒を撒いたんだと」


 ガレリア帝国――それは、ここソラニア王国の北方に位置する軍事大国だ。過去に何度も国境紛争を起こし、今も一触即発の緊張関係にある。


「馬鹿な……証拠はあるのか?」

「ある! 俺の従兄弟の知り合いがな、北の村で怪しい男を見たって言ってたんだ。黒いローブを着て、夜中に畑に何かを撒いてたって」

「それだ! それで芋が一夜にして全滅したんだ!」

「くそっ……帝国の野郎ども、戦争を仕掛ける前に、俺たちを飢え死にさせるつもりか!」


 その話を聞いていた別のテーブルの男が、もっともらしく頷いた。

「そういえば、最近、王都で見慣れない顔の商人が増えてたよな。あれも帝国のスパイじゃないのか?」「おい、それ、本当か?」

「本当も何も、不自然だろ? なんで今のタイミングで、よりにもよってジャガイモ『だけ』がやられるんだ? 偶然にしちゃ出来すぎてる」


 論理の飛躍。根拠のない憶測。だが、恐怖に支配された人々の耳には、それが真実のように響いた。囁きは囁きを呼び、尾ひれがつき、誇張され、やがて「確定情報」として語られ始める。



 翌朝。市場の青空広場では、別の噂が燃え広がっていた。

「サツマイモも危ないらしいぞ!」

 野菜売りの女が、客に向かって真剣な顔で言った。

「え? でも、藤村様の工場では大丈夫だって……」

「それが、裏で腐り始めてるって話だ!」


 女は声を潜め、周囲を見回してから続けた。

「うちの旦那の仕事仲間がな、工場の近くを通ったらしいんだ。そしたら、裏口から異臭がしたって」「異臭……?」

「腐った芋の匂いだよ! でも工場は隠してるんだ。パニックを避けるために!」


「そんな……!」

客の顔が蒼白になる。

「じゃあ、サツマイモも全滅するのか!?」

「時間の問題だろうな。ジャガイモの疫病が、サツマイモにも感染したんだ」


 それはまったくの嘘だった。サツマイモはヒルガオ科であり、ナス科のジャガイモを襲う疫病菌には感染しない。だが、そんな植物学の知識を持つ庶民はいない。


「どうしよう……サツマイモがダメなら、もう何も残らない……」

「買い占めるしかない! 今のうちに!」


 人々は再び走り出した。今度の標的はサツマイモだ。藤村工場の門前には、開店前から長蛇の列ができた。だが、そこにあるのは整然とした購買意欲ではない。押し合いへし合いの、殺気立った群衆だった。



 一方、貴族街のサロンでは、また別の噂が囁かれていた。

「……王宮が、食料を隠しているそうよ」


 扇子で口元を隠しながら、ある伯爵夫人が言った。周囲の貴婦人たちが身を乗り出す。

「まあ! 本当ですの?」

「ええ。信頼できる筋から聞いたの。王宮の地下倉庫には、数年分のジャガイモとサツマイモが備蓄されているそうよ」

「それを……平民には分けないと?」

「当然でしょう? 王族と貴族が優先よ。平民なんて、いくら死のうと替えはいるんですもの」


 その言葉に、何人かは眉をひそめた。だが、誰も否定しなかった。なぜなら、それが「ありそうな話」だったからだ。実際、過去の飢饉でも、貴族は飢えなかった。平民だけが死んだ。


「……でも、それが本当なら」

 若い子爵夫人が不安げに言った。

「平民たちが暴動を起こすのでは?」

「だから、情報を隠しているのよ。でも、いずれバレるわ。そうなったら……」

 伯爵夫人は扇子をパタンと閉じた。その目には、恐怖と同時に、どこか期待めいた光があった。混乱は、退屈な日常を破る刺激でもあったからだ。



その夜、蓮の執務室。エリシアが青ざめた顔で報告書を積み上げた。

「藤村殿……これを」


それは、市中で流れている噂を収集したものだった。ガレリア帝国スパイ説、サツマイモ腐敗説、ソラニア王宮陰謀説――どれも荒唐無稽だが、街中で「事実」として語られている。


「……酷いな」

蓮は頭を抱えた。

「どれも根拠がない。サツマイモが腐ってるなんて、ここに山積みの在庫を見れば一目瞭然なのに」

「ですが、人々は工場に入れません。だから『裏で隠している』と疑うんです」

「信用の欠如か……」


蓮は窓から外を見た。工場の門前には、今も人々が押し寄せている。その目は疑念に満ちていた。『本当にサツマイモは大丈夫なのか?』『藤村という男は、本当に信用できるのか?』


「エリシアさん、明日は無理だけど明後日、工場を一般公開しよう。誰でも倉庫を見学できるようにする。サツマイモが無事だと、自分の目で確かめてもらう」

「……それで、信じてもらえるでしょうか」

 エリシアの声には、諦めに近いものがあった。彼女は知っていたのだ。貴族社会で流れる悪意ある噂が、どれほど事実を捻じ曲げ、人を破滅させるかを。


「分からない」

蓮は正直に言った。

「でも、やるしかない。デマと戦うには、事実を示し続けるしかないんだ。それに、一応考えがある」


 外では、冷たい雨が降り始めていた。その雨音に混じって、遠くから民衆の怒号が聞こえてくる。噂という名の毒は、雨に流されることなく、むしろ湿気を吸って繁殖するカビのように、王都全体に広がり続けていた。

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