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◆第44話「悲鳴が煮えたぎる街」

 農村地帯からの避難民が王都に到着したのは、疫病発生から三日後のことだった。

「芋が……芋が全部腐った!」

「助けてくれ!冬を越せない!」

「十一月だというのに、もう雪が降り始めている。このまま冬に入れば、春まで何を食えばいいんだ!」


 農夫の絶望的な叫びが、王都に響く。通常なら、十一月の収穫で冬を越す食料を確保できる。だが、今年はその収穫が消えた。目前に迫る冬は、飢餓の季節となる。


 城門をくぐり抜けた泥まみれの農夫たちの叫び声は、燃え盛る油に水を注いだように、王都全体を沸騰させた。それまで「田舎の話」として他人事だった疫病が、血相を変えた農民たちの姿によって、一気に現実のものとなったのだ。


「本当なのか? ジャガイモが全滅したって……」

「嘘だろ……俺たちの冬の食い扶持が……」


 王都中央市場。いつもなら昼下がりには人もまばらになる時間帯だが、今日は異様な熱気に包まれていた。人、人、人。押し合いへし合いする群衆の波が、各店舗に殺到している。


「イモをよこせ! 全部買う!」

「おい、割り込むな!」

「子供が三人いるんだ! 先に売ってくれ!」


 怒号が飛び交い、誰かが誰かを押し倒す。普段は穏やかな主婦が、隣の客を肘で突き飛ばし、老人が杖を振り回して前に進もうとする。理性が剥がれ落ち、むき出しの生存本能だけが街を支配し始めていた。



 穀物問屋『金の麦穂』の店先では、店主のギルバートが青ざめた顔で店の扉を閉めようとしていた。


「もう在庫はありません! 明日の入荷を待ってください!」

「嘘つくな! 裏に隠してるんだろう!」


 群衆の一人が扉に体当たりをする。ミシミシと木材が悲鳴を上げた。ギルバートは慌てて扉を押さえたが、数十人の力には敵わない。


「や、やめろ! これは略奪だぞ! 衛兵を呼ぶぞ!」

「呼べるもんなら呼んでみろ! 衛兵だって家族がいるんだ、俺たちと同じように腹を空かせてんだ!」


 その言葉通り、いつもなら市場の秩序を守っているはずの衛兵の姿はなかった。彼らもまた、自分の家族のために食料を求めて走り回っているのだ。


 バキィッ! 扉が破られた。群衆が雪崩れ込み、店内の棚という棚に飛びつく。ジャガイモはもちろん、小麦粉、豆、干し肉、塩漬けの魚――食料と名のつくものは全て、秒単位で消えていった。


「俺のだ! 手を離せ!」

「ふざけるな! 俺が先に掴んだ!」


 麻袋を奪い合う男たちが殴り合いを始める。床には、踏み潰されたパンや、割れた壺から流れ出た油が散乱している。ギルバートは倉庫に逃げ込み、震えながら金庫を抱きしめることしかできなかった。



 市場の片隅で、年老いた八百屋の婆さんが呆然と立ち尽くしていた。彼女の小さな屋台には、今朝摘んだばかりの新鮮な野菜が並んでいた。キャベツ、ニンジン、カブ――どれも丹精込めて育てたものだ。

「……誰も、見向きもしない」


 通り過ぎる人々は皆、「芋」「穀物」「保存食」を求めて走っている。生鮮野菜など、日持ちしないものには目もくれない。いつもなら引く手あまたの品々が、今日は誰にも必要とされていなかった。


「おばあちゃん、そのキャベツ、ちょうだい」

 振り返ると、近所の子供が銅貨を握りしめて立っていた。だが、次の瞬間、その子の母親が駆け寄り、手を引いた。


「ダメよ! 野菜なんか買ってる場合じゃないの! パンを買わなきゃ!」

「でも、ママ……」

「いいから!」


 母親は子供を引きずるようにして去っていった。婆さんは、丁寧に磨いたキャベツを撫でた。明日にはこれも萎れてしまうだろう。そして誰も買わない。



 恐怖は、論理を殺す。王都の住民の大半は、実際にはまだ十分な食料を家に持っていた。昨日までの備蓄があり、今日の夕食にも困らない。だが、「もしかしたら明日には何もなくなるかもしれない」という恐怖が、彼らを店へと駆り立てた。


 そして、その群衆を見た者がさらに恐怖し、買い占めに走る。「皆が買っている」という事実が、「買わなければ取り残される」という新たな恐怖を生む。恐怖が恐怖を呼び、雪崩のように膨れ上がっていく。


 価格も暴騰した。昨日まで銅貨五枚だったジャガイモ一袋が、今日は銀貨一枚。それでも人々は奪い合う。明日にはもっと高くなるかもしれない、いや、明日には売ってさえもらえないかもしれない――。

市場の喧騒を遠くから眺めていた徴税官マルクスは、眼鏡の奥の目を細めた。

「……始まったな。恐怖の連鎖が」


 彼の隣には、急報を受けて駆けつけた藤村蓮がいた。蓮の顔色も優れない。

「これは……パニック買いだ。実際の供給量とは無関係に、心理的な暴走が起きている」

「止められるのか?」

「……難しい。一度火がついた恐怖は、事実では消せない。『大丈夫だ』と言っても、誰も信じない」


 二人の前で、母親が幼い子供の手を引きながら走っていく。子供が転びそうになるが、母親は立ち止まらない。その目には、正気とは言えない光が宿っていた。


「明日、もっと酷くなる」

 蓮が呟いた。

「今日買えなかった人間が、明朝、店が開く前から並ぶ。そしてその列を見た人間が、さらに恐怖する……」


マルクスは、懐から羊皮紙を取り出した。そこには、王都の食料備蓄量の正確なデータが記されている。

「数字上は、三ヶ月は持つ。サツマイモの在庫もある。だが……」


「数字は、人の心を救わない」

 蓮の言葉に、マルクスは苦い顔で頷いた。市場からは、今も怒号と悲鳴が聞こえてくる。それは疫病という自然災害が、人間の心を蝕み、社会そのものを破壊し始めた音だった。

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